終焉の果て

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星の可惜夜(あたらよ)に静寂が降りる。 天上には満点の星々が瞬くベールがかかり、赤い月が妖しく輝く。 月が見下ろすのは地平線まで続くような広大な湿地。 そんな暗い闇に包まれた地を黙々と進む者があった。 輪郭が闇に溶けだしあやふやになる真夜中に、蜃気楼のように揺れ動く影は、ふたつ。 月影と星明かりだけを頼りに、背の高い者と小柄な者が寄り添うように歩いてゆく。 まっすぐに目的地だけを見据えて。 それは、地の果て。 途方もない湿地。 寒々しいその場所には立ち枯れした黒い木々ばかりが目立ち、生きて動く物の気配は見当たらない。 荒涼とした風が終末を歌い吹きすさぶ。 世界の果て。終わりの大地。 ここは誰からも忘れ去られた場所。 ふたりの終着地点。 そして墓場でもある。 歪な枯れ木が彼らの墓標。 夜に生きる男と、彼と共に在る女。 旅するふたりの終わりの夜。 なんでもない、とある世界の終焉。 すなわちそれは、ひとつの星の果てるとき。 風が凪ぐ。 凍えるような冷たい空気をまとった湿地は、まるで静止画。 月光を湛えた泉の水面だけがかすかに揺らめく。 虚無を極めたこの地に、唯一現存する人工物のもとへとふたつの影が辿り着いた。 それは朽ちた教会だった。 数世紀前には信者たちが熱心に集い祈りを捧げたのであろう神聖な場所。 もはや栄華を誇った面影はなく、忘れ去られた土地に置き去りにされ、顧みる者もない。 長身の男が無造作に扉を開く。鋭い氷柱を思わせる、冷たくて怜悧そうな男の紅玉の双眸からはなんの感情も読み取れない。 「ここは私が幼少を過ごした場所なんです」 この夜、初めて男が口を開く。艶のある若い男の声だ。けれども同時に疲れきった老人の声にも聞こえる。 「こんなところで?」 怪訝そうに答えたのは同じく若い女の声。こちらはともすれば少女のそれにすら聞こえる。 「ええ。数百年の時を経て、まさか戻ってくることになるとは思いませんでしたが」 男は自嘲気味に笑い、迷うことなく教会内に歩を進める。傍らの女は興味深そうにあたりを見回しながらついてゆく。 天窓に嵌められたステンドグラスはほとんど原形をとどめていないが、元々はさぞ美しかったであろうことは想像がついた。 豪奢な調度品は、星霜の経年により薄汚れ、壊れ、埃が静かに沈殿している。 それでも、教会は朽ちてなお荘厳な雰囲気を醸し出していた。 今にも神聖なパイプオルガンの音色が時を超えて響きわたるような気さえする。 ふたりは最奥に鎮座する祭壇の前へ立った。 天窓からひとすじの月影が射し込んでいる。 照らされていたのは、漆黒の棺。 「これは、私が朝の日の光を浴びてしまわないようにと、特別に誂えられたものです」 この棺に世界の終わりにすら耐えうる力があれば良いのに、と男は悲しげにひとりごつ。 「さあ、こちらへどうぞ。お姫さま」 男は女のほっそりと冷たい手をとり、愛おしい彼女の永遠の寝台へと(いざな)う。 二度目覚めることのない彼方の眠りのための渡し舟。 自らの手で羽のように軽い彼女を抱き上げ、棺の中へと横たえる。 まっすぐに見上げる女の視線と、かちあった。 女は尋ねる。軽い調子で、明日の天気を聞くように。 「本当に、いいの?」 「もちろんです」 「噛んでもいいのに」 「ご冗談を。永遠の命など地獄でしかありません。死は、救済ですよ。どうかそのまま目を閉じて」 穏やかな表情と優しい声でそう言われると、もうなにも言葉を紡げなくなる。 ただ頬に流れる涙が、月の光に反射する。きらりと。 ゆっくりと瞬いて、雫をやり過ごす。天窓から空を見上げると、赤い月は変わらずそこにあった。 目を閉じる。ほのかな温かみを頬に感じた。大きくて大好きな彼の手が、指が、女の涙を溶かす。 「私、死ぬのね」 「ええ」 「貴方も?」 「さあ。きっと今夜、人間は……いや、この星のすべてが亡くなるでしょう。願わくば私も、貴女の黄泉の旅路のお供をしたいと思っております。心の底から」 思わず顔を歪める彼女を見て、男は無言のまま、労わるように彼女の頭を撫でてやる。 少しでも安心して眠れるように。 (貴方だけでも生きて欲しい。叶うなら、私も一緒に) 女は、心のうちでそう思えども。 彼の長い長い孤独の過去を思えば、口が裂けても生きてなどと願えない。 その世界にはもう私はいないのだから。 もし生き残ってしまえば、これから幾百年、幾千年もの間、凍えるような孤独という牢に繋がれることになる。 彼の言葉に嘘はない。死は、救済。 「けれどももし、この呪われた身体が世界の消滅にすら耐えうるならば……冷たく孤独な宇宙空間をさ迷うことすらできるのならば……私はまた、果てを目指してゆくでしょう」 「ひとり、で」 「そう。たった独りで。いなくなった貴女を探して」 「一緒がいい」 「そうですね、私もです」 「苦難の永遠の命でも救済の死でも、どっちでも同じよ。離れたくない。一緒がいい」 「…………」 沈黙が三千世界を支配する。 異端と蔑まれてきた、彼の深紅の美しい瞳を見つめると、愛おしげに慈愛の眼差しが注がれる。今宵の月のような。 「それでは、きっとそのようにいたしましょう。どのような事態が起きようとも、私は決して貴女のおそばを離れません」 「うん、そうして」 女は幸せそうに微笑み、目を閉じる。 そんな彼女を見て男は苦笑する。 「まったく、わがままなお姫さまですね。ええ、きっと。明日からも変わらず、共に旅を続けましょう」 それは叶わない約束。 明確な別れは、もうすぐそこに迫っているというのに。 「ねえ」 「はい」 「でも私、まだ、眠りたくないわ」 首を傾げながら妖艶に微笑む彼女は、けれども駄々をこねる子どものよう。 「それでは、少し散歩をしましょうか」 「うん」 星の降る夜に、月の光を湛えた泉のほとりを。 世界の果てをふたりきりで。 手を繋いで歩く。 最期の夜、 夜が更けてゆく。 歩き疲れた彼女は、棺の中でぐっすりと眠っている。 組んだ両手は蝋人形のように冷たく白く滑らかで、左手の薬指に光る銀色だけが輝いていた。 健やかに上下する胸も、もうすぐ永遠に動かなくなる。 破滅は、もうすぐそばまで迫っていた。 世界中の誰もが諦念を胸に、静かに息を潜めてその時を待っている。 祭壇の上に安置された棺。 淡い月の光に照らされて眠る彼女の寝顔は、天上の熾天使(セラフ)のよう。 雲は悠々と流れ、空は薄明を迎える。 大樹のように古く、朝露のように新しい太陽が昇ってゆく。 ゆっくりと、焦らすように。確実に。定められた運命にしたがって。 昏い大地に朝日が射す。 あたたかくて透明なものが世界を包む。 破滅は、不意に訪れた。 朽ちた教会にて、 天窓から降り注ぐ朝の光に照らされた祭壇。 棺に眠る女の足元に、音もなく背の高い男が(くずお)れた。 世界は静謐にして純潔。 その朝、世界は挽歌を唄い、永遠を失った。
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