第1話  母と娘

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第1話  母と娘

     第 一 部 「 いつもいつもいつも!同じ事の繰り返しで嫌んなる!」 行き場のない苛立ちや憤慨感の的にされたドアが大きな音をたてて閉まると同時に小刻みに震えた。 高宮瑠里(たかみやるり)は、開け放たれた大きな腰高窓に腰を掛け、手すりに顎を乗せて溜息を洩らした。 窓の外は、煙るような霧雨が降っていて、緑一面広がる水田の青穂達が、勢いよく一斉に天をめざして我先にと尖がっている。 瑠里は、この窓の外に広がる水田と、ところどころに建つわずかな家並みしかない風景が大好きだった。遠くには比叡山が連なり、自転車でなら10分もあれば琵琶湖湖畔に出られる。 あとは、何もない。繁華街やデパートも、商店街ですらこの近くにはない田舎町。 瑠里の溜息の原因は、階下にいる母、瑛子(えいこ)にあった。 このところ、ある話題になると喧嘩のような言い争いになる。 自分の進路問題だ。 瑠里はこの春から高校三年になった。まだ五月ではあったが、最終進路を決めなくてはいけない時期で、瑠里は就職を希望していたが、瑛子は大学、もしくは何らかの専門学校へ行くべきだと言って譲らない。 だから、喧嘩になる。 瑠里の家庭は、今どき珍しくもない母子家庭だった。 父、大輔(だいすけ)は、瑠里が八歳の時に交通事故で突然この世を去った。 頑丈で大柄な体格、柔道を得意としていた大輔も、バイクでのトラックとの喧嘩には勝てるわけもなく、冬の雪の中、湖畔道路でスリップ事故に巻き込まれたのだ。 大の父親っ子だった瑠里がその事実を受け入れるのには、一年以上の時間を要した。 小学生にはなっていたのだから、人の死を理解できないわけではなかったが、父親に二度と会えないという事実を受け入れることがとても難しかった。 当時、突然居なくなった大輔を探して、何度も家出をした。 そんな不安定な瑠里を、瑛子は精一杯抱きしめながら、この十年を生きてきたのだ。 朧げな記憶の中に、大輔の葬儀の日、唇を噛みしめながら俯き震えるように泣いていた瑛子を覚えている。 しかし、その日を以って瑠里は瑛子が悲しんだり泣いている姿をただの一度も見た記憶が無い。 最愛の夫を失い、突然幼い娘と二人とり残されたというのに、不自然なくらいに瑛子は、いつでも快活で、うつむきがちだった瑠里の背中をグイグイ押して歩いてくれた。 瑠里に不自由な思いをさせないように、だが、誰の助けも借りず、ここまで育ててくれたのだ。 いくら子供だったとはいえ、瑛子の背負ってきた多くの苦労はもちろん痛いほど感じていた。 疲れ果てて着替えもせずにリビングのソファに倒れ込むように眠りこけている母を、朝起きてきて見つける度に、その内に自分は瑛子までも失ってしまうのではないかというとてつもない恐怖に胸を痛めた。 だからこそ瑠里は、今ここにきて瑛子とぶつかるのだ。 この歳になって、かつては分からなかった細かい経済事情も理解できて、その上瑛子に大学まで甘える気にはなれなかった。 かといって、奨学金制度を利用して多額の借金を背負う程の目標も持ち合わせてはいない。 それよりも月並みではあるが、これからは瑛子に少しでも楽になって欲しかったのだ。 だが、瑛子はそれが気に入らなかった。 自分を気遣って進学を諦めるなど、言語道断だと主張した。 そんなことをさせたのでは、大輔に顔向けが出来ないとも。 いつでも話はそこで決裂する。 瑠里は就職を譲らなかったし、瑛子も進学を譲らない。 瑠里は、ついさっきのいつもと同じ堂々巡りな言い争いをイライラと思い出しながら、何を眺めるでもなくぼんやりと気持ちが落ち着くのを待った。 だが、今日は思いのほか気が高ぶっていて一向に収まらない。 何かを思い切るように手すりをげんこつで軽く叩くと、突然走りに行く事を思い立つ。 瑠里は、地元の県立高校の陸上部で、中距離を専門とする選手だった。 お気に入りの派手な蛍光オレンジのレインスーツを細身の身体に着込むと、鏡の前で短い癖っ毛のないサラサラのショートヘアをさっと直した。いつ見ても男の子みたいだと瑠里は苦笑した。 ほっそりスラッとしたその姿は、後からなら男子によく間違えられる。 二重のくっきりとした瞳と細い顎のラインだけが瑠里が男の子では無いことを表わしていた。 タオルを首にしっかりと巻き、階段を降りる。 玄関に座り込んで履き慣れたシューズの紐をしっかり結ぶと、後ろの方の人の気配に首だけでちょっと振り返った。 玄関から真っ直ぐ続く廊下の先にはリビングがあり、ドア口には、瑛子がもたれて、こちらをじっと見ていた。 そして、振り返った瑠里に小さく頷くと、瑠里も小さく頷き返す。 喧嘩をしていても二人には無言で伝わる言葉がある。 ジョギングに行く娘に注意を促し、その注意をしっかりと受け取る娘。 長い時間寄り添って生きてきた親子ならではの意思疎通だった。
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