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第26話 アクシデント
夏休みの殆どは合宿で終わった。
だが、合宿に参加するのとしないのとでは、大きな地力の差が生まれる。
かなりハードではあったが、その成果はハッキリとした実感となった。
まず何よりも呼吸が楽になった。
少々走ってもバテない。
軸をキープ出来る体幹も明らかに強くなった。
何より、タイムが伸び始めた。
ならば……選抜制になどせずに、全員で参加すれば全体の底上げになるのではないかと……シンプルに思ったりもする瑠里だった。
ただ、以前、神崎が言っていた「 台風の目 」になったのかどうかはわからないが、一般入部の瑠里が合宿に選抜されたことがきっかけとなり、居残り自主練をする人間が増えた。
サブグラウンドはもとより、メインでも残って各自トレーニングやランをするようになった。
なので、以前のように青と二人きりで自主練をするようなことも無くなってしまったことが、とても淋しい瑠里だった。
9月になると、男子の駅伝チームの動きが活発になった。
昨年度の関西大学駅伝大会でシード権を失ったので、今年は予選会からの出場になる。
予選会では、各校8名の10000メートルのタイム合計で争われ、上位12チームが出場となる。
昨年度は、青は不在だったし、全体のタイムも遅かった。
今年は、青の復活と、3年生4年生の伸び幅が大きく、期待のルーキーもメンバーに選ばれたことで、予選会はおろか、本選でも上位を期待出来るメンバー構成だという話題で中長距離班は、色めきたっていた。
「 最近、外の走り込みが増えましたよね。予選会通過前提の、本選を見越したランですか?」
久しぶりにサブで自主練が一緒になった時、瑠里が尋ねると、青は頭ごとタオルで拭きながら
「 当然だろ。」
その迷いの無い答え方に、瑠里は納得気に頷いた。
だが、どうしても気になることがあった。
少し迷いながら、
「 外の走り込み……恐さはもう無いですか?」
青は、瑠里の問い掛けの意味を少しだけ考えるような素振りで、タオルを首に掛けた。
「 無いな。走り始めたら何も考えない。」
「 さすが、走りの申し子ですね!」
瑠里は、安堵と共にニコニコ微笑んだ。
何より、青が事故をトラウマにしていないかが心配だった。
ちょっとやそっとの事故ではなかったのだから。
すると、青は何食わぬ顔でサラッと笑った。
「 心配すんな、おまえのことも思い出せてないのに、事故のことなんか思い出すかよ 」
あの合宿での約束以降、あっけらかんと自分の記憶の話をするところが彼の凄いところだと、最近いつも思う。
ここまで割り切ってくれるのなら、もう思い出してくれなくてもいいのに、とも思う。
こうして時々、話せるだけでいい。
彼の走る姿が見られるだけでいい。
恋人になれる約束は、果たせなくとも……青を好きな気持ちはきっとこの先も変わらないし、今はお互いに避けることなく、先輩と後輩の距離感が心地よくもある。
それに、青と話せるのは自分だけだというのも特別感があった。
彼の人嫌いは相変わらずで、誰も寄せ付けないし、駅伝チームに復帰しても必要最低限の会話しかしない。
そんな中で、瑠里だけが青と普通に会話をしていることが、部内では違和感となっていた。
そうすると、二人は付き合っているのだという噂にもなったりしたが、夏海以外の誰かと特に親しく関わることもない瑠里は、気にしないように努めた。
「 高宮も、来月頭の競技会出るんだろ?」
いつものように、少し離れた距離に座った青が尋ねた。
「 標準タイム、クリアしているので出れるみたいです!」
「 Aか?Bか?」
「 Aです!」
瑠里はニッコリ微笑んだ。
AかBかを聞かれたのは、標準記録の事だった。
競技会には、出場資格としてのタイム、A標準、B標準があり、当然ランク上とされるのがA標準だった。
「 当然、優勝だろ?」
青がちょっと意地悪そうに聞く。
「 優勝出来るなんて……絶対思ってませんよねぇ?」
瑠里は、悪そうな顔をしている青を口を尖らせて睨んだ。
「 やってみなけりゃわからんのじゃね?」
青の言葉に、瑠里はちょっと真顔になった。
「 別に、最初から諦めて走るわけではないですけど……でも、タイム的にはもっと速い人達と走るので、背伸びも無理もしません。」
瑠里の言葉で、青の顔からも意地悪な表情は消えた。
「 正論だな。上には上がいる。標準タイムAはあくまで、クリア基準だしな。」
「 なので、どの大会も競技会でも、私が目指すのは毎回自己ベストです!」
ニッコリそう笑った瑠里に、青はフッと笑った。
その優しげな笑顔に、瑠里の心臓はギュッと痛くなる。
最近の青には表情がある。
前のような無表情でないことに、瑠里の心臓は毎回暴れる。
記憶を取り戻さなくても、それはすでに瑠里の知っている青そのものだった。
「 予選会……応援に行けないですけど、トップ通過して下さいね!」
瑠里は少し残念そうにそう言った。
青の予選会と、瑠里達の秋季競技会は偶然にも同じ日だった。
「 応援なんて要らん、たかが予選会だ 。」
「 本選は、大学ののぼり持って班全員で行くらしいんで、楽しみです!月城さんは、何区担当ですか?」
「 5区だ。」
「 何キロですか?」
「 12キロだ。」
瑠里はワクワクするような表情で頷いた。
トラックなら、ずっと見届けられるが、駅伝は街中を走るから全てを見られるわけではないことが残念で仕方ない。
なんなら、並走したいくらいだと、瑠里は真剣に思った。
「 優勝を狙うかどうかは、チームの問題だから俺は関係ない。俺は俺の区間を全うするだけだ。」
チーム戦であっても、関係ないって言えちゃうところが青らしいと、瑠里は苦笑いした。
それでも彼は、走ることにおいては絶対に手を抜くことはない。
だから、結果、戦力となるのだ。
「 じゃぁ、私は自己ベスト更新、月城さんは、区間賞……ですかねぇ!」
瑠里のニンマリとした言葉に、青もニヤリと笑った。
「 だな。」
その三週間後………
瑠里は秋季競技会の帰り、夏海に付き添われ大学への帰路のバスに揺られていた。
「 瑠里ちゃん、元気出して!トラック競技では、珍しくないことだって、金沢さんも言ってたよ!」
横の席で肩を落とす瑠里に、夏海が明るく声を掛けると、瑠里の手をポンポンと優しく叩いた。
瑠里は、湿布と包帯でスニーカーの踵を踏まないと履けなくなったぶっとい左足を力なく見つめていた。
瑠里は、競技中に選手同士の接触による転倒で足首を負傷したのだ。
A標準の選抜15名でのレースは、序盤から位置取りの争いが激しく、まるで800メートルの様な小競り合いが起こった。
瑠里は、そういった位置取りの小競り合いの経験が皆無だった。
なので、戸惑いながら列の中を走りながら前後左右と無駄な小さな移動をしてしまった。
そして、後方から無理に前へ出てきた選手に足を踏まれ、そのまま転倒してしまったのだ。
直ぐに立ち上がり、離れていく列を追いかけようと試みた瞬間に、左足首に激痛が走った。
びっこを引く瑠里に気付いた金沢がすぐさま走り寄り、コースアウトさせ、そのまま棄権となった。
痛みより、ショックが大きかった瑠里は、暫く茫然として動けなかった。
競技会専属の救護班が来るまで座っているようにと金沢に言われ、トラック内側の芝生に両足を投げ出していると、先程までもつれていた選手達が綺麗な列を成して目の前を通り過ぎていった。
その中には、あの坂上も悠然と走っていた。
足首自体は、軽い捻挫だった。
足の痛みより、悔しい痛みが強い。
完全に経験値不足だ。
あぁいう小競り合いが起きた時の対処法を全く知らない。
誰が悪いでもなく、自分で自分の首を絞めたようなものだった。
自己ベストどころか……レースを最後まで走りきることすら出来なかった。
初めての大きな敗北感だった。
大学に戻ると、怪我をした経過を報告書に記入したり、スポーツ傷害保険の手続きだったりを済ませ、瑠里はクラブハウスの玄関口外のベンチに座っていた。
すぐ帰るように言われたが、なんとなく帰る気になれなかった。
青達、駅伝チームはまだ帰っていない。
青に会いたかった。
夏海も金沢も、大丈夫だと励ましてくれるが……
瑠里は、青の言葉が欲しかった。
青なら、「何やってんだ?」とか、「自業自得だろ?」とか、言ってくれる気がした。
悔しさと自己嫌悪でいっぱいの瑠里は、励ましよりも誰かに叱って欲しかったのだ。
空は、どんより灰色の雲が垂れ込めていて、まるで今の心境のようだと見上げる。
足首は、痛いには痛いが、一人で歩けない程でもない。
痛み止めも貰って飲んだから、1時間前よりずっとマシだ。
飽きることなく空を眺めていると、駅伝チームが数名ぞろぞろと帰って来るのが見えた。
瑠里は背筋を伸ばして、青を探す。
クラブハウスの玄関口横に、ちょこんと座っている瑠里を不思議そうな顔で眺めて中に入っていくメンバーの1番後ろを、少し遅れて青が歩いて来た。
瑠里の顔がパァッと輝く。
青は瑠里に気付くと、中には入らずに、瑠里の前に立ち、包帯を巻かれた足首に視線を移した。
「 なんだそれ?どうした?」
「 ……こけちゃいました。」
ちょっと拗ねたように答えると、
「 なんだ、棄権でもして気落ちしてるのか?」
そう返ってきた。
「 トラックの洗礼を受けたわけだ。これでおまえも1人前だな。」
青は、満足げに腕を組んで笑った。
「 トラックの洗礼?……それを受けると1人前になれるんですか?」
「 まぁな。1度は通る道だろ、トラック競技をやる以上は。」
「 月城さんも、転んだことあるんですか?」
瑠里は、期待を込めて青を見上げたが、
「 俺が転んだりすると思うか?あるわけ無いだろ。」
あっさり否定されてしまった。
「 洗礼……受けてないじゃないですか……」
拗ねた目でぶつぶつ言う瑠里に、青は呆れたように笑う。
「 転んだのは、おまえの経験値不足だろ。誰のせいでもない、自己責任だ。要は、位置取りの小競り合いに巻き込まれることが洗礼なんだよ。」
やはり、青からは期待どおりの意見が返ってきた。
瑠里は、なんだか嬉しくなってニコニコ微笑んだ。
「 おい、俺は褒めてないぞ?」
「 いいんです!今は慰められるより誰かに叱られたい気分だったので。期待どおりの意見ありがとうございます!」
「 なら、もっと言ってやろうか?」
青の顔に、悪そうな笑みが浮かぶのを見て、瑠里は両手でストップを掛けた。
「 いえ!もう十分です!月城さんのは……洒落にならないんで。」
全力拒否の瑠里をフンと鼻で笑うと、青は中に入るために入り口のドアを開けかけて、ふと止まった。
「 もう帰るのか?……一人で帰れるのか?」
「 はい、大丈夫です!ちゃんと叱ってもらえたので心置きなく帰ります!」
青が、自分の帰り道を気にしてくれたことが、瑠里には飛び上がるほど嬉しかった。
だが、青はちょっと考える風に瑠里を見た。
「 帰り支度してここで待ってろ。きっちり15分で出てくる。」
「 え!?」
青は瑠里の返事も待たずにそのまま中へ消えた。
どういうこと?どういうこと?
待っとけ?ここで?
なんで?なんでー!?
瑠里は思わず捻挫していることも忘れて、普通に跳ねるように立ち上がり、その激痛にもう一度飛び上がることになった。
「 痛いぃぃーー!!」
青は、きっちり15分後にリュックを片方の肩に掛け、クラブハウスから出てきた。
「 上まであがれるか?」
クラブハウスから続く緩やかな坂の上の道を顔で指しながら聞いた。
「 え?はい、上がれますけど……あの、一人で帰れますけど……」
瑠里が、もごもご答えると
「 ゆっくり上がってこい。」
返事も待たずにスタスタと坂を上がって行ってしまった。
瑠里は、リュックを背負い、ゆっくりびっこを引きながら上がっていくと……
そこには、どこから運んできてのか、白い自転車に股がった青がいた。
「 自転車!」
青と自転車のイメージが繋がらなくて、瑠里は目をしばたいて二つを見比べた。
「 横座りで、後ろに乗れ。」
「 え!?え!?乗る……んですか?」
「 バス停まで運んでやる。早くしろ。」
目の前の現実が受け入れられずに、瑠里は慌てふためいた。
乗る?青の後ろに?2人乗り?
えぇ!?ホントに!?
リュックの肩ベルトを両手でギュッと握りながら、自転車の後部座席と青を代わる代わる見比べている瑠里に、青はイライラと溜め息をつく。
「 乗るのか?乗らないのか?早く決めろ!乗らないなら俺は帰る。」
「 の、の、乗ります!はい!乗ります!」
瑠里は大慌てで足を引きずりながら、言われた通り横向きに腰を掛けた。
「 どこでもいいから落ちないように掴まっとけよ。」
瑠里は掴まるところを必死に探す。
まさか、青に掴まるなんてことは出来ないし……散々迷いながらサドル下の丸いスプリングの輪っかに掴まった。
陸上部のクラブハウスは、校内の1番奥まった所にあったので、確かに門を出た所のバス停までは、かなりの距離があった。
ゆっくり軽快に走る自転車の後ろで、瑠里は肝心な事を聞いていないことに気がついた。
「 あー!!月城さん!!」
突然、背中越しに大きな声を出された青は、慌てて自転車を止めた。
「 どした!?」
「 あ…いえ……予選会の結果、聞いてなかったなと……」
青は、ふうっと溜め息を漏らすと、再び自転車を漕ぎ出した。
「 走ってる最中に大きな声を出すな!」
「……ごめんなさい…」
叱られてしゅんとした瑠里に、青は話を続けた。
「 トップ通過だ。」
トップ通過……途端に瑠里の顔が笑顔で崩れた。
「 やった!やりましたね!」
青の背中に嬉しそうに言うと、
「 まだ予選会だ。」
青はあっさり答えた。
らしい答えだけど……それでもトップ通過は本戦に期待が持てる結果だ。
「 月城さんのタイムは、どうでした?」
「 全体の二位だ。一位がうちの大学の奴だったか。」
「 おぉー!やりましたね!夏の記録会より伸びたんじゃないですか?」
瑠里は物言わぬ青のしゃんとした背中にニコニコ笑いかける。
それに比べ、私は……夏合宿の成果を出せなかった。
急に気持ちが落ちた。
自主練も、合宿も、頑張ってきたのに……結果どころか棄権だなんて。
突然黙り込んだ瑠里に青の声が飛んだ。
「 おい!勝手に落ち込むな!」
なぜわかったんだろう?
瑠里はキョトンと背中を見た。
「 次は上手くいく。この先の練習は特待組と同じになるだろうから、コース取りを学べ。次は転んだりしない。」
簡潔な励ましだった。
要点だけを伝えてくれたことが胸に染みた。
青に “ 上手くいく ” と言われたら、そうなるような気がするから、不思議だ。
バス停までは、ものの10分ほどの時間だった。
その10分が、瑠里にとっては夢のような10分となった。
不謹慎ではあったが、自分が捻挫したがゆえに生まれた時間なのだとも思った。
「 本当にありがとうございました!本当に助かりました。」
バス停で下ろしてもらった後、瑠里は丁寧に頭を下げた。
青は、小さく頷いた。
「 月城さんて、チャリ通なんですね?お家、近いんですか?」
「 俺は、寮生だからな。」
知らなかった。
青が寮生だったなんて。
学生寮は、自転車なら10分程の所にあるらしいことは、聞いたことがある。
いや……青のことは、本当は何も知らない。
どこで生まれて、どこで育って、どんな家族がいて、どこに住んでいて……
そもそも、去年不思議なめぐり逢いをした時も、青のそういった事は知らないままだった。
走ることが何よりも好きで、口は悪いけど、優しくて。
私を好きだと言ってくれた……
知っていたのは、それだけだった。
少しうつむき加減でまた黙り込んだ瑠里の顔を、覗き込むように青が体を傾けた。
「 おい、また落ち込んでるのか?」
急に視界に入ってきた青の顔に、瑠里はびっくりした。
「 い…いえ、大丈夫です。」
否応なしに顔が赤くなる。
「 そんなことより、早く治せ。捻挫を軽く見るなよ。」
「 はい、了解です。……あの……」
「 なんだ?」
瑠里は気掛かりだった疑問を口にした。
「 助けてもらってこんなこと言うのもなんなんですが……本当は嫌ですよねぇ?」
瑠里の質問の意味がわからずに、青は眉を潜めた。
「 何の話だ?」
「 こんな風に、人と関わるの……嫌ですよね?」
青は、自転車のハンドルを両手で持ちながら、少し考えるように斜め上を見た。
「 ……基本、煩わしい。だから、誰とも関わらない、昔も、今も。」
そう言った後に、青は瑠里を真っ直ぐ見つめた。
「 おまえ以外はな。」
「 え!?」
「 おまえは……なんか、特別だ。なんせ、俺の知らない俺を知っているわけだしな。」
私が特別……特別……
どうしよう!?
心臓破裂するかもしれない!
泣いてしまいそう!
瑠里は、目の奥のジンジンする感覚を抑え込むために、瞼をパチパチさせた。
「 だから、そんなことは気にするな。」
「 あの………」
瑠里が何かを言おうとした時、掻き消すようにバスがやって来た。
プシューッという音と共に、ドアが開く。
固まったように青を見て動かない瑠里に、青が首を傾げた。
「 乗らないのか?」
青の声で我に返った瑠里は、慌てた。
「 あ!は、はい!乗ります……」
昇降口の手すりを掴みながら、ゆっくり1歩ずつ階段を上る。
バスの中に乗り込むと、丁寧に頭を下げた。
「 本当に、ありがとうございました!気をつけて帰って下さいね!」
「 おう!またな。」
青が自転車に股がりながら、手を上げてくれた。
瑠里は、大学の方に向かって自転車を漕ぎ出す青を瞬きもせずに見つめた。
「おまえは特別だ…」
その一言が、頭の中を、胸の中を、ぐるぐるぐるぐる廻っている。
あの頃の青にも、同じような意味のことを言われた。
私だけに会うために、そのためだけに、存在していると。
「 青………」
瑠里は、涙ぐみながら胸の切ない痛みを両手で押えた。
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