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 ユウをピアノのレッスンに送るため、車を走らせていた。  初夏の緑がまっすぐな道路にずっと涼しげな影を落としている。  緑陰を抜ける車の中には控えめにビバルディの四季が流れていた。  ねえ今日休んじゃおうかな、とユウが言った声もあまりに控えめで、少し間が開いてから私は「あ?」と声を出した。 「高いレッスン代なのに? しかも遠くだし」 「やりたくない時もあるんだよ」  ユウはひっそりとため息をつく。後ろの席に埋もれるようにして小さな体は頭しかみえない。  急に身を起こしたように声が近くなった。 「パパ、なんで原稿をゴミ箱に捨てたの?」 「えっ」 「50枚くらいあったけど」 「読んだのか?」 「……ちょっとね」あわててユウはつけ足す。 「けっこうおもしろかったけどね」 「あれは……」  まっすぐ続く道はゆるやかにカーブを描く。木立が深くなった。 「今ひとつ、ぱっとしない気がして。せっかく長編で受賞したんだし。何かもっと別のものを持っていこうかな、と思ってね」  ユウをレッスンに送った足で、私はそのまま出版社に向かう予定だった。担当に言われていた。受賞作はもちろん、全面的にバックアップします。取材も沢山きていますし、各所でサイン会もお願いしたい。それにすぐ、次回作をうちで出せるように……  どうでしょう? この前少しお聞きした内容で、しばらくこちらの近くのホテルで書いてみるってのは?  ようやく、芽が出ようとしている。それでもかなり、遅咲きは否めないだろう。  結婚してからずっと資産家の妻の実家で暮らし、就職から転職から再転職から、何から何まで義父母に世話になった。田舎ゆえ、働く場所が少ないというのもあったが、それでも妻は私がもっと都会に引っ越すと言った時には反対してこう言った。 「私がなんとかやりくりするから、ここに根を下ろそう」  義父母が亡くなってから今度は、妻に頼りっ放しだった。  バイト先も休みがちになった。とにかく早く、小説家として名を出したかった。  ようやく大手出版社での新人賞を受賞した。  妻は喜んでくれるはずだ、ずっと応援してくれていたから。  私はずっとそう思い込んでいた。 「どうしたの、パパ」 「うん」  左手、ハンドルに添えている腕の、肘あたりがむず痒かった、そうユウに告げて、また右手中指でそこを掻く。  気づいたら無意識に何度も掻いていたようだ。痒いだけではなく、ひりひりと痛みまで出て来ていた。  Tシャツの袖がわずかに長いので縁が触って痒いのか、と思ったがどうも違う。  毒虫にでも刺されたのだろう。 「あの話さ……」  急に、ユウが振ってきた。 「『あの話』って?」 「ゴミ箱に入ってたヤツ」 「ああ」 「ちょっと、酷いなって思ったのがさ」
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