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その青年は赤いフードのついたマントを着ていた。
赤いフードとマントは、魔狼を撃退し浄化するのに十分な力がある魔術師に与えられる「赤頭巾」の称号を示すものだった。だがその森の魔狼は老獪な知略に長けており、青年は森の奥の老婆の家で、老婆に化けた魔狼に喰われてしまった。
腹に青年を飲みこんだ魔狼は満足の遠吠えをはなったが、これがその森で魔狼の気配を追う猟師の注意を引いた。
猟師は老婆の家に踏み込み、腹の重みで動きが鈍くなり、うとうとしていた魔狼に鉛の銃弾を放った。しかし魔狼の生命力ははなはだしく、弾を受けても眠りつづけている。
猟師は魔狼の腹を切り裂いて魔術師の青年を救い出すと、代わりに鉄鉱石と水晶、岩塩を詰めこんだ。この組み合わせが魔狼にとって毒となることを知っていたからだ。
こうして赤頭巾の青年の命は救われた。彼の名はクラウス・クリムゾン、猟師はライナー・グレイといった。
魔狼に喰われるとは、魔の穢れに浸かることだ。
クラウスは猟師に助けられたとわかっても、あまり喜ばなかった。他の赤頭巾たちに知られた時の屈辱を思ったからである。
この王国は豊かな平原と風光明媚な湖があり、広大な森に囲まれていたが、長年魔狼の襲撃に悩まされていた。魔狼を浄化できる魔術師たちは国の中枢で組織され、王のもとで位階を得ていた。その一方、各地に住む猟師にそんな地位はなかった。彼らは自分や周囲の村が脅かされたときだけ魔狼を追い、謝礼を得るのだ。魔狼は鉛の銃弾で仕留めることができたが、その血はいずれ毒になる穢れの塊だったから、魔狼を狩るのは血なまぐさい汚れ仕事だった。それに魔狼は狩られて心臓を粉々にされても、魔術師によって浄化されないかぎり、時をおけばまた蘇るのだ。
赤頭巾の魔術師たちは魔狼を追うとき、各地の猟師と協力することもあった。しかし魔狼の血と穢れにまみれた猟師をたいていの赤頭巾は嫌悪し、多くの場合見下してもいた。
プライドの高い赤頭巾、クラウスもその例外ではなかった。それに彼は他の者よりずっと早く赤頭巾の称号を得た魔術師だったから、他の者の嫉妬も受けやすかった。他より優れているという自覚のために傲慢でもあった。
猟師のライナー・グレイがそれを知っていたのかどうか。
とはいえ、クラウスは若く傲慢だったが、命を救ってもらった恩をなかったことにするような人間ではなかった。
「ありがとうございます」
浄化が終わってもクラウスはまだ魔狼の血にまみれていた。歯を食いしばって礼をいった彼に、ライナーは微笑みを返した。
「あっちに井戸がある。洗えば血は落ちる。涙石を持っていくといい」
「それはあなたのものでしょう」とクラウスはいった。
涙石は魔狼の心臓が止まる瞬間に落とす美しい宝石だ。高値で売れるから、猟師が魔狼を狩る大きな理由でもある。魔狼退治を猟師に頼めば涙石は謝礼の一部となった。しかし涙石は赤頭巾と猟師の関係がぎくしゃくする原因のひとつでもあった。魔狼は浄化されると人があびた血糊以外あとかたもなく消えてしまう。涙石は魔狼が存在した証拠だ。赤頭巾たちは自分の手柄を証明するため、時に涙石を必要とした。
しかしライナーは首をふった。
「俺には必要ない。俺は魔狼を殺しただけだ。浄化して害を元から絶ったのはきみだ。それより早く血を落とせ。固まると面倒だぞ」
そう告げて、小屋をさっさと出て行ったので、クラウスもあとについていった。ライナーはすこし離れた井戸へ行くと、水を汲んで服を脱ぎ始めた。魔狼の血にまみれているのはクラウスひとりではなかったのだ。すこしためらって、クラウスも服を脱ぎ、体を洗った。
猟師と並んで体を洗うなど初めてだったし、そもそもこんなに話をしたこともなかった。赤頭巾が猟師を見下しているように、猟師も赤頭巾と親しくつきあいたがらなかったからだ。ライナーはクラウスより小柄で、何気なく目をやったとき、背中に大きな傷跡がみえた。クラウスはあわてて目をそらした。
クラウスが本部に涙石を持ち帰ると、この魔狼はこれまで何人もの赤頭巾を喰った、厄介な存在だったとわかった。クラウスは周囲に称えられたが、本来はあの猟師、ライナー・グレイの功績だと思い、落ちつかなかった。自分は借りを作ったのだ。またあの猟師に会うことがあったら、絶対に返さなければならない。
その機会は思ったより早く訪れた。
魔狼は一年を通して王国に出没したが、夏から秋にかけては群れで襲ってくる。王都のある平原にも、辺境の森にも、湖のほとりにも。群れになった魔狼はより強力になる。猟師も魔術師も、単独では対処できなかったから、双方ともに気が進まない協力体制がしかれた。クラウス・クリムゾンも派遣された土地の猟師と協力するよう、上から命令された。
赤頭巾たちはその命令に不満だったし、猟師の側も、赤頭巾が報酬や涙石を横取りするのではないかと警戒していた。だが、魔狼襲撃の一報を受けて向かった先で、クラウスはあの猟師、ライナー・グレイに再会したのだ。
ライナーは他の猟師たちも一目置く腕利きだったが、連携してかわるがわる襲ってくる二頭の魔狼に苦戦していた。クラウスはライナーに覆いかぶさった一頭の頭蓋を魔術で吹き飛ばした。穢れた血糊が自分の頭巾やマントを赤黒く染めたが、気にならなかった。借りを返したかったのだ。涙石を零して魔狼が動きを止めると、ライナーは魔狼の下から這い出し、銃弾をもう一頭の心臓に撃ちこんだ。クラウスは二頭の魔狼の浄化を終えると、残された涙石をふたつとも猟師に差し出した。
「これを取ってください」
「なんで?」
ライナーは不思議そうな表情になった。
「僕は必要ありませんから」
初対面のときと同じ言葉でこたえると、ライナーは笑い出した。
「なんだよ、それ。俺はべつに――まあ、いいか」クラウスの手から涙石のひとつをとり、光にかざす。「きれいな石ころだよな。ひとつだけもらおう。魔狼は二頭いたんだから、分ければいいんだ」
髪や顔は魔狼の血で汚れているのに、ライナーの笑顔は爽やかだった。クラウスは思わずひきこまれてみつめ、心臓が跳ねるのを感じた。だが表向きは冷静を保って、残った涙石を握りしめた。
「わかりました。そういうことにしましょう」
これで借りは返した、とクラウスは思った。だがその日から、ライナー・グレイの笑顔はクラウスの心に棲みついて、離れなくなった。
猟師ライナー・グレイは、クラウスより十は年上のベテランだった。猟師には定住する者とが放浪して暮らす者があったが、ライナーは後者だった。猟師のあいだでは腕利きで知られていて、厄介な魔狼が出ると応援に呼ばれることもある。出身地や家族のことは誰も知らなかった。
クラウスがライナーについてたずねると、猟師たちは意外な表情をむけ、赤頭巾たちはどうして汚い連中のことを知りたがるのかと訝しんだ。次に魔狼の群れがあらわれたとき、クラウスは志願してその地方へ行き、再度ライナーに出会った。
ライナーとの魔狼退治はクラウスを苛立たせることも多かった。主にその、穢れをいとわない体当たりの方法のせいで。いくら猟師は汚れ仕事だといっても、彼らとて魔狼の血にまみれたいはずはない。血は洗い流せても穢れは溜まり、毒となる。
魔術師は穢れを浄化できたが、たとえ浄化したとしても、ライナーのように多くの傷跡が残る人間に魔狼の血が与える苦痛は大きいはずだった。ライナーはクラウスが汚れないように気をつかったから、なおさら苛立ちはつのった。
「ライナー、浄化を受けていますか?」
ある日クラウスは宿屋におしかけ、猟師を問い詰めた。
「ああ、村でやってもらってる」
「そいつはまともな魔術師ですか?」
魔術師はライナーの襟をつかむ。肩口に暗い色のあざが浮かんでいる。
「あのな、」
「黙っててください。僕が浄化します」
「俺は赤頭巾に浄化してもらうほど上等の人間じゃ……」
「上等もなにもありませんよ。あなたは僕の……魔狼退治の相棒なんです。穢れはちゃんと落とさないと」
クラウスの言葉にライナーの眸が揺れたが、ほんの一瞬のことだった。魔術師が恐れた通り、ライナーの傷跡は膿んでいた。浄化のあとはあったが、完全ではなかった。位階の低い魔術師が雑にやったにちがいない。手っ取り早くやってしまおうとクラウスはライナーを寝台に押し倒した。
「おい、クラウス――」
「こんなになるまでほうっておくなんて許しませんよ」
手っ取り早い浄化には魔術師の体液がいちばんだ。クラウスはライナーの傷跡に口づけし、丹念に舐めて癒していった。最初は抵抗していたライナーだったが、太腿の内側にある傷跡まで口づけされると黙りこみ、かわりに甘い吐息をついた。このやり方が快感をもたらすことをクラウスは忘れていたが、うつ伏せで背中をふるわせているライナーをみつめるうち、暗い欲望がつきあげてくるのを覚えた。このままこの人を喘がせ、おのれの欲望でつらぬいたら……。
ハッと我に返り、クラウスは歯を食いしばった。膿はなくなったが、傷跡が消えることはない。この人はいったいいつ、こんな傷を負ったのか。クラウスはそう考えることで自分の欲望から意識をそらした。
だがそれが、クラウスの喜びと失望のはじまりだったのだ。
一度自覚すると、あとは坂道を転げ落ちるようだった。いや、恋によって天へ上るような気持ちといえたかもしれない。
ライナーと話し、ライナーと魔狼を退治するたび、クラウスの心は喜びで軽やかに踊り、別れるときは重く曇った。クラウスは積極的にあちこちの地方へ志願し、猟師たちと協力して魔狼に相対した。大きな群れがいる場所では必ずライナーに会えた。
傷跡を舐めて癒したあの日以来、ライナーの傷跡が膿んでいることはなかった。クラウスの所業に懲りたのかもしれないが、ライナーが穢れで苦しんでいないのならいいとクラウスは思うことにした。ライナーと魔狼を追うことはクラウスの喜びであり、活力になったが、任務が終わって別れたあとは欲望の行き場に苦労した。
ライナーに告げようかとも、何度も考えた。ライナーは自分のことを悪く思ってはいない。ライナーも自分を友人だと思っているはずだ。
それには自信があった。赤頭巾の魔術師と猟師の関係としては類のないものだ。だが告白して、避けられてしまったら?
彼と共に魔狼を追えなくなるくらいなら、今のままでいい。
それでも夜眠るとクラウスはライナーを抱く夢をみた。微笑んでいる年上の男にクラウスは口づけする。ライナーはクラウスの愛撫に呻き、嬌声をあげ、快楽を受け入れる……。
そして数年が過ぎた。
辺境の森に魔狼の巨大な群れがあらわれたのは、秋の終わりのことだった。
冬から春にかけて魔狼の動きは鈍くなるもの――そんな常識をくつがえすような、途方もない大集団である。
亡国の危機を感じとった王はすばやく決断を下し、国をあげて魔狼を退けにかかった。赤頭巾と猟師は本格的に共闘することになった。年老いて悪知恵のまわる魔狼に率いられた群れはあまりにも大きく、手強かった。赤頭巾も猟師も、これまでのわだかまりを気にする暇はなかった。
大作戦が続けて展開され、クラウスとライナーはもちろん戦いの中にいた。春が来て夏がすぎた。秋も深くなり、やがて冬になろうというころ、やっと王国は群れをあやつる老獪な魔狼を殺し、浄化することができた。
王国の人々は歓声をあげ、あちこちで祝いが行われた。大勢の集まる祝いの席にクラウスとライナーも並んで座っていた。ふたりが友人同士であることは、いまでは他の猟師や赤頭巾にも自然に受け入れられていた。
人々は笑い、歌い、飲み食いし、気の合う者同士で去っていった。周囲が静かになってもクラウスはまだライナーの隣に座っていた。彼にとって今回の戦いは、ライナーの間近にいられる願ってもない機会だった。同じ宿屋に寝泊まりし、野営した。作戦をめぐってライナーと口論したり、冗談をいって笑いあったりした。
何年もずっとライナーを想いつづけていたが、もはやこのままでいい。一年のあいだにクラウスはそう思うようになっていた。どちらかといえば、自分にそういいきかせていたのかもしれない。赤頭巾と猟師として、このまま共にいられればいい。
しかしライナーはちがうことを考えていた。
「クラウス」
「なんです?」
「俺はこれで引退する」
一瞬、自分の耳が信じられなかった。クラウスはぎこちない動きで隣に座る男をみた。
「なぜ?」
「なぜって……もう、俺の役目は終わりのような気がするからさ。長く猟師をやりすぎた」
ライナーもどこかぎこちない調子で笑った。いつもの微笑みだ。だが、いつもはクラウスをほっとさせたり、嬉しい気持ちにさせるその笑みが、今は恐ろしいものにみえた。
「どうして? あなたはまだ引退なんてする齢じゃない!」
「そう思うか?」
ライナーはまた微笑んだ。目尻に浮かんだ皺にクラウスはハッとした。最初に会った時から何年経っただろう。
「この戦いはさすがに疲れた。何度浄化しても傷に響く」
「駄目です」思わずクラウスはいっていた。
「僕はどうなるんです?」
「どうなるって、立派な赤頭巾じゃないか」
ライナーは呆れた口調でこたえた。
「いつまでも猟師の俺にくっついていてどうする。昔の借りはとっくに返してもらったよ」
「そんなこと――」クラウスは口ごもった。
「とっくに忘れていました」
「中央に戻ったら出世して、いずれ指導部に入ることになるさ。時々俺のことを思い出して、あんな猟師もいたと――」
「ライナー」
クラウスの強い口調にライナーは口を閉じた。
「なんだ」
「あなたが好きです。ずっと……好きでした」
ついにいってしまった。口に出した瞬間そう思ったが、後悔はなかった。
クラウスはじっとライナーをみつめ、目をそらさせまいとした。眸と眸がぶつかるようにあわさって、最初に目をそらしたのはライナーの方だった。
「……知ってたよ」
「どうして引退なんていうんですか。あなたはまだやれる。あなたと一緒なら僕は何でもできる」
「クラウス、あのな……」
「あなたが好きです。ずっとあなたをこの腕に抱きたいと思っていた。それがだめでも――」
突然肩に手が置かれた。ライナーの顔が自分の胸に埋められている。心臓のあたりにささやく声が響いた。
「俺も……それが本望だ」
クラウスはライナーの顎をもちあげた。眸のなかに浮かぶ欲情の影をみて、電撃を受けたようにびくりとした。
二人はもつれるように立ち上がった。人は少なくなっていたし、酔っぱらいのあいだで抱きあいながら出ていく赤頭巾と猟師に注目する者はいなかった。クラウスは自分の宿へライナーをいざなおうとした。ところが相手は首をふり、クラウスの腕をひいていくではないか。
いまだに信じられない気分だった。ライナーがクラウスの想いにこたえてくれるなど。
だがこれは夢ではなかった。
扉が閉まったとたん、年上の男はクラウスを誘うように唇をよせ、口づけを求めてきた。クラウスは無我夢中で唇を重ねて吸い、舌を差し入れ、からませた。淫靡な水音を響かせながら、年上の男の口腔を愛撫する。
まるでどちらが先に屈服するかという戦いのようだったが、先にあきらめたのはライナーだった。クラウスは力の抜けたライナーを寝台に倒し、さらに口づけを重ね、手のひらで体をさすり、愛撫した。服の上からでもはっきりわかるくらい、おたがいの体は熱を持ち、はやくも堅くなっていた。ずっと思いをよせていた相手に求められているとわかって、クラウスは有頂天だった。裸に剥いたライナーの体に走る傷跡を丹念に唇で触れる。
「んっ、あっ……」
ライナーが呻いた。これが浄化ではなく純粋な愛の行為だということにクラウスは震えるような喜びをおぼえながら、ライナーの体をすこしずつ、舌と指先でひらいていく。秘所を唾液でぬらし、指でさぐろうとすると、ライナーは小声で「油を使え」といった。枕元には傷跡を乾燥させないための化粧油があった。広げた足のあいだに垂らし、指を秘所のでゆるゆるとかきまわす。焦らすようなクラウスの指の動きにライナーの背中が震え、熱い吐息を何度も漏らす。
「どうして……」
切れ切れの声がクラウスの耳に届いた。
「どうして俺なんだ、赤頭巾。どんな相手だって……選べたのに……」
「僕にもわからない」
クラウスの欲望ははちきれんばかりで、もう我慢できそうにない。
「だけどあなた以上に欲しい人は、この世にいない」
慎重に押し入ったライナーの中はクラウスを途方もない快楽で満たした。最初こそ自制していたが、クラウスがゆっくり動くたびにライナーが声をあげるようになると、もう止めることはできなかった。長いあいだ密かに愛していた男を抱いて、その晩クラウスは三度果てた。
そして翌朝、誰もいない部屋で目覚めた。
小鳥が窓の外で鳴いていた。冬のはじまりの冷気がクラウスの頬を刺す。ライナーは消え失せていた。荷物はすべて持ち出され、いつの間に宿を出たのか気づいた者もいなかった。いったいどこへ行ったのか、何の手がかりも残っていなかった。
クラウス・クリムゾンはまもなく王都に戻った。赤頭巾の称号をもつ魔術師としてはトップクラスの腕になっていた。魔狼の襲撃が一段落したせいか、国の中枢にいる魔術師たちは王や大貴族の意を買い、権力を得るための駆け引きにいそしんでいたが、クラウスはそんな動きとは無縁だった。多くの魔狼を倒した功績を鼻にかけることもなかったし、功績に惹かれて寄ってくる者や、甘い餌をぶら下げて誘惑する者も、誰ひとり相手にしなかった。
昔のクラウスを覚えていた者は、彼のことをあいかわらず傲慢だと評した。はじめてクラウスに会った者は、優秀だが近寄りがたいと感じた。周囲の思惑をよそに、クラウスは真面目に働いていた。他の者がめんどうで引き受けたがらない魔狼退治、功績にならない小さな掃討作戦を進んで引き受けたのだった。
クラウスは猟師たちが負う魔狼の穢れをいとわなかった。先の魔狼との戦いで赤頭巾と猟師たちの関係が良くなったのもあって、赤頭巾クラウスは地方で歓迎され、幾人もの猟師と知り合いになった。
新しい知り合いができるたび、クラウスはライナー・グレイの行方をたずねた。誰もがライナー・グレイの名を知っていた。「ライナー・グレイ。ああ、あの腕利きだな」というのだ。たしかな消息を知る者はいなかったが、クラウスは噂であっても喜んで耳を傾けた。その様子は王都の近寄りがたい魔術師とは別人のようだった。
しばらくのあいだ、王国は平和だった。魔狼はときおり現れるだけで、大きな群れはみかけなかった。一年が過ぎ、二年が過ぎ、五年が過ぎた。人々は油断しはじめた。先の戦いで主要な魔狼は退治されてしまったのかもしれない。
そんな人々の心を読んだかのように、辺境の森に魔狼の群れがあらわれた。
近隣から猟師が集められ、中央からは赤頭巾の一団が派遣された。クラウスもその中にいた。
群れは小さかったから、掃討作戦はすぐに終わるものと思われていた。クラウスはこの任務がおわれば、王都で魔術師の指導集団に加わるよう求められていた。このころには各地の猟師と何年もかけて築いた関係が評価されていたのである。
ところが作戦は計画通りには進まなかった。この群れの首魁は年老いてずるがしこかった。人間――老婆や幼児に化けて赤頭巾を騙し、分断して喰らうのだ。魔術師は喰われそうになってはじめて、魔狼の穢れに気づく。ひとり、またひとりと仲間が喰われ、血の跡だけが残る現場に何度も遭遇すると、クラウス以外の赤頭巾はひどく恐れるようになった。
落ちついているのはいまやクラウスひとりだ。用があって村へ行った赤頭巾が戻らないと聞いて、自分が行きます、といったのもクラウスだけだった。クラウスとて恐れていないわけではなかった。ただ彼はずっと前に、同じような策を使う魔狼に遭遇したことがあったのだ。
赤頭巾は村はずれの森の小屋へ向かったという。
森は静かで、小屋からは何の物音も聞こえなかった。木の扉を押すとぎいっときしんだ。
遠巻きに見守る村人たちの前でクラウスはそっと中に入り、目を丸くした。
小屋の床は血まみれだ。粗末な寝台の横で魔狼がぴくぴくと痙攣している。腹にはごつごつしたものがいっぱいに詰めこまれていた。使いに行った赤頭巾は魔狼の横で気を失っている。
これ以上仲間を魔狼の血で汚さないように自分のマントでくるんでから、クラウスは扉をあけて村人を呼んだ。仲間が無事運び出されると、魔狼の浄化にとりかかる。腹に詰めこまれた鉄鉱石と水晶、そして岩塩のために、魔狼はひどく苦しんで死んだようだった。浄化が終わると大きな涙石が床に落ちていた。魔狼を殺した者はこれを取らずに去ったのだ。
涙石をためつすがめつして、クラウスは小屋の外に出た。
そして、走り出した。
どこかに井戸があるはずだ。でなければ泉が。魔狼の血を洗い流すために。
クラウスは森を駆け、耳を澄ました。やがて水の流れる音がきこえ、岩のあいだを小川が流れるのがみえた。小さな滝壺のそばに人影があった。傷跡のある背中をひとめみたとたん、クラウスは叫んでいた。
「ライナー!」
目の前で背中がぶるっと震えた。のろのろした動作で相手がふりむく。
「クラウス」
なつかしい笑顔が涙で歪んだ。クラウスは水に濡れるのもかまわず、ライナーを抱きしめた。あの晩、クラウスが抱いたときより痩せているような気がした。
「ライナー。ずっと探していました。どうして逃げたんですか」
ライナーはクラウスの腕を振りほどこうとしなかったから、クラウスは愛しい人の体をぎゅっと抱きしめていた。濡れた肌がだんだんぬくもってくる。ライナーがふっと息をついた。
「逃げたわけじゃない」
「いいえ、逃げていました」
クラウスはささやいた。
「この何年かというもの……僕が魔狼を追って行くところにあなたもいたでしょう? 今回のようなことは初めてじゃない。ただ今回はこの地の猟師が魔狼を仕留めたふりをできなかっただけです。僕にわからなかったと思いますか。どうして逃げるんですか。あの日あなたはたしかに、僕にこたえたのに……」
「……眩しすぎるんだ」
ライナーはぼそぼそとつぶやいた。
「俺は魔狼の腹を裂くのが商売の猟師だ。俺が引き受けた魔狼の穢れはおまえにふさわしくない。あの日――最初に会った日、おまえを守ることができてよかった。立派になったな。どこまでも魔狼を追いかけるって、猟師たちのあいだでも評判だ」
クラウスはライナーを抱きしめたまま、言葉を失った。その時だ。
首筋が逆立つような唸り声が背後から響いた。
漆黒の魔狼が尖った鼻面を二人に向けていた。巨大な牙から唾液が滴り、黄色い目は邪悪な輝きで妖しく光っている。
『赤頭巾か』
魔狼の言葉がクラウスの頭蓋に反響した。ガラスをひっかく音のような、耐えがたいエコーを伴っている。
『赤頭巾は……うまい……ぞう……』
魔狼の顎がぱかりと開いたとき、その牙の下にいたのはクラウスひとりだった。その唇が浄化の呪文を紡ぎ出した瞬間、バンッという音が森の木々を揺らし、滝の水音すらかき消した。火薬の匂いがたちこめる。ライナーの銃は魔狼の片目を打ち抜いていた。巨体が滝壺に倒れたが、クラウスはさらに浄化の呪文を唱え続けた。
魔狼はやっと空気に溶けて消えた。そのとき、水の中に沈んでいく光がみえた。
涙石だ。
思わず宝石をつかまえようとしたクラウスだったが、視界の隅ではライナーが静かにその場を立ち去ろうとしていた。宝石をつかみかけた手をふりあげ、クラウスは叫んだ。
「そうはさせません」
ライナーは走りだしていたが、クラウスが追いつくのは簡単だった。丸くひらけた森の小さな空き地で、クラウスはライナーの手をつかんだ。
「僕は昔のあなたのようにどこまでも魔狼を追うことで知られていますが、僕が追っていたのは魔狼じゃない。あなたです」
ライナーは肩で息をしながら、クラウスを恨めしそうに睨んだ。
「どうして……どうして、俺を……」
「答えなど不要です。もう逃さない。あなたがどれほど魔狼の血で汚れたとしても、僕が浄化します」
「クラウス」
ライナーは観念したように目を伏せた。
「俺はたぶん……長くもたない」
「ライナー?」
「ずっと前に浄化について怒られたことがあるだろう。あのあとちゃんとやっていたつもりだったが、長年の穢れがたまったらしくてな……あの戦いのあと、もうだめだと思った。俺は魔狼の血をかぶりすぎた。俺は穢れすぎて、触れられる資格がない」
「何をいってるんですか!」
あまりに激しくライナーを抱きよせたせいか、バランスが崩れた。二人そろって地面に倒れ、クラウスはライナーの上に覆いかぶさっていた。年上の男は目を閉じている。クラウスはその顎をつかみ、ささやいた。
「逆です。ずっと逆だった。あなたに触れる資格がなかったのは僕の方だ。でも今はちがう。あなたの傷は僕がきれいにする」
「……クラウス」
「あなたを愛しているんだ。ライナー。もう逃げないで」
ライナーの目がひらき、クラウスをみつめる。声を出さずに唇だけが動いた。そしてクラウスの唇を受けとめるように、重なってくる。
森の底で二人は重なり、抱きあって、お互いの肌に唇をよせた。草のしとねで服を乱し、クラウスはライナーの傷跡を舐め、胸の尖りを愛撫し、中心を口に含む。足を開かせ、奥まで舌で濡らして、ライナーの口から快楽の呻きがこぼれるのをきく。ついにクラウスに貫かれると、年上の男は喘ぎながら腰を揺すってこたえ、絶頂に達して白い雫をとばした。
森の木々だけがふたりを見ていた。
*
王国には今も魔狼があらわれる。
魔狼の撃退と浄化は赤頭巾の称号をもつ魔術師と猟師が協力して行われる。猟師は魔狼を殺し、赤頭巾は浄化する。猟師はあちこちの村にいるが、赤頭巾は王都からやってくるので、到着まで時間がかかることがある。
魔狼の噂がいつまでも消えず、あなたの村に近づいているとわかったら、どうしたらいい?
そんなときは旅の途中の二人組をさがすといい。共に旅をする赤頭巾と猟師を。そして彼らに、魔狼が来たといえばいいのだ。
村人に懇願されると彼らはすぐに出かけていき、しばらくして戻ってくる。ひとりがあなたに涙石を渡すだろう。涙石は魔狼が倒されたあかしだ。とても高価なものだと、まだ子供のあなたも知っているくらいだ。
でもこの二人組は「我々には必要ない」という。
どうしてなのだろう。あなたは不思議に思うが、母親にいいつけられてお茶と食物を運び、賓客となった二人組の様子を眺めるうちに、その意味がわかってくる。この赤頭巾と猟師にはお互いがいるだけでいいのだ。子供のあなたにも透けてみえるほど、強い絆が二人をつないでいる。
食べ終わると二人は立ち上がり、あなたに礼をいう。あなたは村を出ていく二人組をみつめながら、手の中の涙石を握りしめる。
あなたはこの日のことをずっと忘れないだろう。
こうして赤頭巾と猟師の物語は、あなたが大人になっても語り伝えられていく。
(おしまい)
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