ボトルシップ

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 キリコさんは、小学校の5年生。毎日が嫌で嫌でしょうがありません。  だって、アニメやゲームの主人公は、同じ5年生だというのに、もう大活躍をしているのです。魔法を使い、空を飛び、ドラゴンをペットにして、かっこいい男の子と恋をします。  なのに、キリコさんの生活といったら、起きたくもないのに毎朝お母さんにたたき起こされ、眠い目をこすって味気のない朝ご飯を食べ、くたびれたランドセルに重い教科書を入れて、学校に行くだけです。  学校に行ってからも、魔法のかけ方の授業なんてものはなく、三角形の面積やら、6と8の公倍数やらを計算しています。キリコさんでなくても、どんなに小学5年生の算数が得意になろうと、魔法使いにはなれないということは、わかるでしょう。  テレビに出ているアイドルを見て、憧れたこともあります。  アイドルの子たちは、キリコさんよりも少しお姉さんです。中には、ほとんど歳の変わらない子もいます。  これなら、今すぐにだってなれるかもしれない、と思いました。きれいな衣装を着て、スポットライトを浴びて、歌って踊るのは、とても気持ちのいいことに違いありません。  でも、それも長くは続きませんでした。ある日、お母さんに、「ねえ、わたしアイドルになれるかな」と聞いたら、「お母さんとお父さんの顔を見ればわかるでしょ」と言われてしまったのです。  そこで、今度はスポーツ選手を目指すことにしました。十代のうちにオリンピックに出場して活躍すれば、きっと楽しい人生になるのに決まっています。  それで、毎日走って学校に通うことにしました。だんだん走るのも速くなってきて、この計画は順調に進むかと思われました。運動会のリレーの選手にも選ばれて、これは行けるぞ、と思っていたのです。  でも、それは突然終わりを告げました。  よりにもよって、その日は運動会の日でした。よーし、はりきっていくぞと、いつものように走って学校に着くと、せっかくお母さんが作ってくれたお弁当が、ぐちゃぐちゃになっていたのです。  そのことにショックを受けて、リレーはさんざんな結果に終わり、キリコさんがスポーツ選手になる夢も終わったのでした。 「あー、何か面白いことないかなあ」  ある日のこと、キリコさんは、海岸沿いをぶらぶら歩いておりました。  外は晴れて、いいお天気だというのに、キリコさんの心には、重い暗雲が垂れ込めていました。  道徳の時間に、夢を持つことの大切さを学びました。世界で活躍している人は、幼い頃から大きな夢を描いていたようです。  キリコさんは、もう小学5年生。二年生や三年生のときには、何も考えずにただ毎日が楽しかったような気がします。  まわりのお友達は、将来パティシエになりたいとか、トリマーになりたいとか、はっきりとした夢があります。  でも、キリコさんには、どういう仕事をしたいのか、はっきりとしたイメージがありません。ただ、なんとなく、このままでは嫌だな、という漠然とした気持ちがあるだけです。  もし、夢を持たないまま6年生になってしまったらどうなるのだろうと、とても不安な気持ちに襲われました。  ふと、海の方を見ると、キラキラ光るものがあります。寄せては返す波に揺られて、プカプカ浮いています。  なんだろうと気になって砂浜に降りて、近づいていくと、それはビンのようでした。  キリコさんは思いました。誰かがビンに手紙を入れて、海に投げたに違いない。いつかそういった話を聞いたことがあります。  きっと外国に住んでいる人が、なんらかのメッセージを入れて海に流したのでしょう。  あるいは、無人島に漂着した人が、助けを求めているのかもしれません。どこかの国の誰かが拾ってくれればいいと、最後の望みを込めて手紙を詰めたのかもしれません。  そう思うと、胸が高鳴りました。何か、とても特別なことが起こりそうな予感がしてきました。  ビンはまだ手を伸ばしても届かないところを浮いています。こっちに来てくれないかなあ、と思ったら、急に大きな波に運ばれて、ビンはキリコさんの足元に打ち上げられました。  拾い上げてみると、それは透明なビンでした。おしゃれなその形は、外国のお酒のビンでしょうか。でも、中に入っていたのは、お酒でも手紙でもなく、別のものでした。 「うわあ、船だわ」  ビンの中には、どうやって入れたかわかりませんが、小さな船の模型が入っていました。ボトルシップです。  キリコさんは、きれいだな、とは思いましたが、少しがっかりしました。これなら、きっと趣味の人が作ったのでしょう。  そのあと、海に落としたのか、わざと流したのかはわかりませんが、何か特別な意味が込められたものとは思えません。  ですが、不思議と興味をひかれるものがありました。中の船は、模型とは思えないほど、精巧にできています。まるで、本物の帆船を、魔法をかけて小さくしたかのようです。  じっと見ていると、船の甲板に、小さな人が何人もいるのが見えました。水兵さんのようなセーラー服を着た人たちが、慌ただしく動き回っています。  と、その中の一人が立ち止まって、こちらを見ています。両手をメガホンのように口に当てて、何やら口を動かしているようでしたが、何を言っているのかはわかりません。しきりにビンの口の方を指差して、手をひねるような仕草を繰り返しています。  もしかして、とキリコさんは思いました。ビンの蓋を取ってほしいのじゃないかしら。  水気で滑らないようにハンカチで押さえて、キュッキュッと蓋を回して開けました。  すると、ザッパアーン、ザッパアーンと、波が岩に当たってくだけるような音が、耳に聞こえてきました。  ゴウゴウという、強い風が吹く音や、バチバチという雨が打ちつけるような音もします。  あれ、いいお天気だったのに、おかしいなと思って空を見上げてみたら、真っ黒です。ピシャアッ、ピシャアッと稲妻が走り、ゴロゴロ鳴っています。  おまけに、まるでバケツをひっくり返したような雨がザーザーと降ってきました。風もビュンビュン吹いて、足元はぐわんぐわん揺れます。まるで台風と地震が同時に来たみたいです。 「きゃあ!」  突風にあおられて、キリコさんはよろけました。思わず、ちょうどそこにあった木にしがみつきます。ビンを落としてしまった、そう思いました。  砂浜だから割れないかしら。でも、中の船は壊れてしまったかもしれない。  ところが、足元は柔らかい砂ではなく、固い木の板です。あれ、わたしどこにいるんだろう、と思ってまわりを見回すと、どうやらキリコさんがいるのは、船の上のようでした。  木だと思ってつかまっていたのは、船のマストでした。船は大しけの海上にいます。地震だと思ったのは、海の上で激しく波がうねっているからでした。  こんな暴風雨の中にいるというのに、船は帆を張っています。その形に見覚えがありました。そうです。ビンの中に見た、あの帆船にそっくりです。 「わっはっは、こりゃ愉快!」  大笑いしながら、人がコロコロと転がっていきます。キリコさんの他にも、船の上には何人も人がいました。  波に揺られるたびに、あっちにコロコロ、こっちにコロコロ。みんなさっき見た、水兵さんです。  近くで見ると、その水兵さんは、かもめでした。人間みたいなかもめでした。こんなに大変な目にあっているというのに、どうして笑っているのでしょう。  一人の水兵さんが、キリコさんのつかまっているマストにドンっとぶつかって、止まりました。 「ねえ、ここはどこ?どうなっているの?どうしてわたしは船の上にいるの?」  ゴウゴウとうなる暴風雨に負けないように、キリコさんは大声を上げてかもめに聞きました。 「わ、わっはっはっは。この船は、向かっているのです。ひゃああ!揺れる、揺れる!こりゃ愉快!」  船はぐわんぐわんと揺れているというのに、かもめは楽しそうです。ジェットコースターにでも乗っているつもりなのでしょうか。 「向かっているって、どこに」 「そ、それがわからないのです。われわれは、約十一年前に多くの人の祝福を受けて出港しました。まだ見ぬ陸地を求めて。新しい土地を探して」 「十一年も航海しているの?」 「まだまだ航海します。これから先もずっと航海します。うわあ、わっはっはっは」  また船が揺れました。キリコさんのそばを離れて、かもめはゴロゴロと転がっていきました。もう一度揺れて、また元の場所に戻ってきました。キリコさんは、今度はかもめにしっかりマストを握らせました。 「こんなにひどい天気なんだから、帆を下ろしたらどう?」 「帆を下ろすですって!?そんなことはできません。そんなことをしたら、それこそ一巻の終わりですよ」 「早く陸に上がらないと、船が沈んじゃうよ!すぐにそこの海岸に着けて!」 「海岸なんて、どこにもありませんよ。それに、船が陸に上がってどうするんです?この船が止まるのは、まだまだずっと先です。それまでは、何があろうと航海し続けます」  キリコさんは、そんなばかなと思いました。さっきまで砂浜にいたのです。すぐそこが海岸のはずです。  でも、まわりにそれらしきものは見えません。ときどき、船は波に高く持ち上げられますが、遠くの方は、霧が濃くて、どうなっているのかわかりません。  まるで透明なビンの中に、すっぽりと入ってしまったかのようです。 「ねえ、ここはビンの中なの?さっき拾ったボトルシップなの?さっき誰かがわたしにビンを開けてほしいって、頼んでいたような気がしたんだけど」  キリコさんは、疑問に思っていたことを聞きました。 「ボトルシップ?なんのことでしょう」  さっきの人は、このかもめの水兵さんではないのかもしれません。でも、仮にビンの中に十一年もいたのだとしたら、自分が置かれている状況はわからないかもしれません。  そこで、キリコさんは質問を変えてみました。 「十一年前はどこにいたの?」 「なんだか、とっても気持ちのいいところにいました。ふわふわして、温かくて、海の中のようでもあり、空を飛んでいるようでもありました。と、同時に、とっても不安でもありました。ずっとここにいてはいけないような気がしたのです」 「どうして?そんなにいいところだったら、ずっといればいいのに」 「いえ、航海に出たくてたまらなかったのです。たとえ後悔しようと、航海したかったのです」 「ねえ、今のダジャレ?」  かもめは、顔を真っ赤にさせました。自分でも、あまり面白いと思わなかったのでしょう。  雨は激しく降っています。横からも後ろからも、冷たい雨が叩きつけます。高い波が来て、船が大きく持ち上がりました。  かと思えば、急降下です。甲板の上にまで水が入ってきて、キリコさんたちは流されてしまいました。 「うわっぷ!」  なんとか別のマストにしがみつきました。 「いいですぞ、いいですぞ。さすがはこの船の船長さんであります」 「船長って誰?」 「もちろんキリコさん、あなたであります」  かもめが自分の名前を知っていたことも意外でしたが、それ以上に自分が船長だということに驚きました。 「どうしてわたしが船長なの?」 「だってキリコさんは、何か面白いことないかなあ、とおっしゃっていたではありませんか」  たしかにさっきそんなことを言いましたが、どうしてそれで船長になるのでしょう。 「この船の名前は、『何か面白いこと探すキリコ号』というのです。だからこうして面白いことを探しているのです」  キリコさんはもう、全身ずぶ濡れです。面白いどころか、こんなひどい目にあったことなんて、今までの人生を隅から隅まで点検してみたって、どこにもないでしょう。 「わたしは、なんか魔法みたいな、素敵なことが起こらないかなって、思ってたのよ!こんなひどいことなんて、起きてほしくない!きゃっ」  ドカーンと、爆発するようなものすごい音。船に雷が落ちたようです。一本のマストから火の手が上がりました。 「わっははは。燃えますなあ、燃えますなあ。こりゃ愉快」  かもめはそれを見て大笑い。いったいどういう神経をしているのでしょう。 「とにかく帆を下ろして!船が沈んじゃう!」 「それはなりませぬ。この船の帆は、決して下ろされないのです!」 「どうして?わたしが船長なんでしょ?船長の命令よ。早く帆を下ろして!」 「ええ、船長さんの命令で、何か面白いことを探しています。この船の名前が『何か面白いこと探すキリコ号』である限り、天気は荒れ続けるのです。ですが、決して帆は下ろせません」 「じゃあ、どうすればいいの」 「名前を変えてください。名前を変えられるのは船長さんです。そしてそのことだけが、船長さんの唯一の仕事です。名前さえ変えてもらえば、船は穏やかに進みます」  また、ドカーンと雷が落ちました。今度は別のマストが燃え出しました。甲板や舳先の方にも、火が燃え移っています。 「あはは、あはは。こりゃ面白い」  かもめはますます大笑いです。このかもめだけではありません。船にいるかもめたちは、みんなあちこちでお腹を抱えて笑っています。 「何が楽しいっていうのよお!」 「ええ、ええ、面白くないことでしょう。何か面白いことを探すというのは、ちっとも面白くないものです。ですが、我々かもめは面白いのです。キリコさんが命令した船で航海していれば、いつだってなんだって、愉快で愉快でしょうがないのです。たとえどんなに海が荒れようと、その反対に、たとえどんなに穏やかで退屈な海であろうと、楽しくってしょうがないのです」  キリコさんは、退屈という言葉に反応しました。そういえば最近、毎日が退屈でした。嫌で嫌でたまりませんでした。それは穏やかで退屈だったからではなかったでしょうか。  何か自分にも夢があれば、この退屈な日々から抜け出せると思っていたのではなかったでしょうか。 「でも、こんなのは嫌!なんとかして!」 「名前を変えてください。名前を変えてください」 「じゃあ、『夢見るキリコ号』よ」  ところが、嵐は収まりません。相変わらず雨は激しく打ち付け、雷は鳴ります。風はますますうなって、波が甲板を襲いました。 「きゃああ!どうして変わらないのよ!」 「キリコさんには夢がありません。ですからキリコさんにとって、『夢見る』というのは、『夢を探す』と同じなのです。何か面白いことがないかと探しているのと変わりないのです」 「だったら、もう夢は見ない。面白いことがなくてもいい。とにかく、嵐はもうたくさんよ!『退屈なキリコ号』でいいわ!」  すると、雨や風がピタリと止みました。でも、ほっとしたのも束の間、船はものすごい勢いで横に流されていきます。 「どうしたっていうのよ!」 「渦です。渦潮です。渦潮に飲まれました。わっはっは、こりゃ愉快。回りますぞ、回りますぞ。渦潮に飲まれて、グルグル回りますぞ!」 「きゃあーっ、もうやめてーっ」  船は渦潮の中心に向かって流されていきます。回転半径がどんどん狭まってきて、もはやまるで遊園地のコーヒーカップです。 「どうなっちゃうの!?」 「退屈の中心に行きます。中心でグルグル回ります。その場でずっと回り続けるのです。うひゃひゃ、こりゃ愉快、愉快」  キリコさんは、かもめが信じられません。ずっと同じところでグルグル回り続けるのが楽しいだなんて、考えただけでも目が回りそうです。いや、本当に目が回ってきました。 「もう、無理。もう、無理。何か面白いことを探すのも嫌。夢を見るのも嫌。退屈な毎日も嫌よ。でも、どうしたらいいの?」  かもめは相変わらず大笑いしています。愉快で愉快でたまらないみたいです。 「ねえ、なんでそんなに楽しいのよ」 「だって、キリコさんと一緒に航海できるのですから。これ以上楽しいことなんてありません」 「わたしといたって楽しくないよ。だって、夢がないもん。魔法も使えないし、アイドルにもなれないし、オリンピックにも出れないよ」 「でも、キリコさんはいつもキリコさんと一緒じゃないですか」 「それってどういうこと?」  船はとうとう渦潮の中心に着きました。もうフィギュアスケートの選手みたいに、その場でグルグルグルグル、高速回転しています。 「もう、だめ。目が回る。この船は、この船は。この船は、キリコ号。わたしはキリコ号。えーっと、わたしはいつも、キリコと一緒のキリコ号!」 「わはは、わはは。わーはっはっはっは!」  グルグルと目が回りました。回って回って、もう何がなんだかわからなくなりました。  ふわっと体が浮き上がったような感覚があります。すべてのものが溶け合って、ぐちゃぐちゃになってしまったみたいに思われました。無重力の宇宙を旅するって、こんな感じだろうか、とキリコさんは思いました。  ふと、自分の体の重みを感じました。手も足も、胸もお腹も腰も、すごく重たいものに感じました。その中で一番重いものがあります。自分の頭でした。  宇宙を旅していた自分が、ぐいぐいと地球の重力に引っ張られて、落ちていくかのようでした。  目を開けると、真っ青でした。けれど、すぐにはそれが空だということがわかりませんでした。自分に体があることに気づいて、ようやく空と自分との区別がつきました。 「あ、あれ?夢だったのかな?」  キリコさんは砂浜に大の字になって寝ていました。身を起こすと、生まれて初めて体を動かしたみたいに、重く感じました。  なんだか、すごく新鮮な気分になって、自分が今ここにいるということが、とても愉快なことのように思えてきました。  そうだ、ボトルシップはどうなったのだろう。そう思ってまわりを見回してみると、近くに空きビンが落ちているのが見つかりました。  拾い上げてみると、中には何も入っていません。ただの空きビンでした。  みゃあ、みゃあと、かもめが鳴いているのが聞こえてきます。それがなんだか猫みたいで、キリコさんは面白くって面白くってしょうがなくなってしまったのです。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!