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この場面の背景
※初めに……以下はあくまで作者の認識です。(かなり安倍氏寄りです)
この出来事については諸説あります。
興味のある方はご覧ください。
【陸奥国安倍氏】
平安時代中期。東北地方を中心として長期にわたる戦があった。
前九年の役(今で言う前九年合戦の意)である。
時の陸奥守である藤原登任は、税を納めることを怠っていたとして、陸奥国を代々治めてきた安倍家の当主である、安倍頼良(のちの頼時)を討つべくして国兵を集めると大規模な戦を仕掛けた。(鬼切部の戦い)
ところが安倍の跡取り息子である貞任によってそれを返り討ちにされてしまう。
結局何の成果もあげられなかったどころか、これにより討伐軍にたくさんの死者を出し多大な損害をもたらしたとして、登任は陸奥守を解任される。
【新たな陸奥守、源頼義の野望】
そして安倍氏の力を捨て置けない朝廷が次の陸奥守に選んだのは、公家ではなく武家である源頼義であった。
その武勇を知っていた安倍氏は、自分の名前が彼と同じなため、わざわざ頼良から頼時へと改名した。
それほどまでに源頼義との争いは避けたかったのである。
それから朝廷に対してすっかり従順になった安倍に対し、朝廷は正式に今までの罪を許して干渉しなくなった。
ところが頼義は違っていた。彼もまた、陸奥国を自分のものにしようと企む人物の一人であった。
彼はこの地を治める安倍氏に対して、攻撃する機会を密かに伺っていた。
そして頼義が陸奥守としての任期を終える間近、それは起こった。
阿久利川事件である。
胆沢城(岩手県)から多賀城(宮城県)へ移動するために源一派が阿久利川近くで野営をしていた時のこと。
源頼義の部下である藤原光貞とその郎党が、何者かに夜襲を受けて人や馬が殺される騒ぎとなった。その報告を受けた頼義は、犯人捜しに乗り出す。
そこで襲われた張本人である光貞に聞き込みをしたところ、首謀者は安倍の跡継ぎ、貞任ではないかと口にする。
以前貞任は、光貞の妹を妻に迎えたいと申し出た。その時に、卑しい身分のものにはやれぬと断ったことをずっと根に持っていたに違いないと憶測してのことだった。
それに対して頼義は憤慨し安倍側の言い分を聞くこともなく、貞任の身柄をこちらに引き渡すようにと安倍頼時に対して要求してきた。
言う通りにすればおそらくは捕らえられて斬首、その理不尽な命令に従えるはずもなく、安倍頼時はそこで再び陸奥守、すなわち朝廷と対立する形となり戦が再開されてしまった。
これについては、安倍を討つ口実が欲しかった頼義の陰謀だったのではないかという説もある。
【安倍の当主が頼時から貞任へ】
その後源頼義は、配下の金為時(貞任の妻の叔父にあたる)を使い、安倍氏と親戚関係にある津軽の豪族、安倍富忠を懐柔することに成功する。
これに慌てた安倍頼時は、急いで富忠のもとを訪れて思いとどまるように説得しようとする。
しかしその道中、富忠の伏兵に矢で襲われて非業の死を遂げた。
これにより、貞任が安倍家の当主となった。
その後部下の藤原経清が安倍氏側に寝返ったりしたこともあり、頼義はいよいよ本腰をいれて安倍氏を潰しにかかろうとする。
だが、朝廷は彼に対して協力的ではなかった。鬼切部の戦いから国兵は減っており、その数は十分に集まらず二千程度であった。
更には地の利を生かした貞任たちの戦略と北国の寒さや飢えにやられ、頼義の陸奥国攻略は非常に困難を極めた。(黄海の戦い)
そして遂に源軍はこの戦で大打撃をくらい、泣く泣く撤退を余儀なくされる。
一説によれば、頼義は息子の義家(八幡太郎)の他、この時生き残った僅か数名の郎党と共に安倍の追手から命辛々逃げ切ったという。
だが頼義の奥六群に対する執念は凄まじく、これで決着がついたわけではなかった。
【藤原経清の覚悟】
一方、藤原経清は、かの名高い武将藤原秀郷から数えて六代目の子孫にあたる人物である。
彼の一族は何代も前に、国府多賀城に近い亘理郡に屋敷を構え、その地の有力な豪族となっていた。(先に出た陸奥守、藤原登任の部下として京から赴任してきたという説や、源頼義の弟、源頼清の部下で彼が陸奥守をした時に一緒についてきたという説もある)
安倍氏は、蝦夷の東一帯の力のあるものたちと血縁関係を結んでは領地を拡大させていた。頼時の娘有加と亘理の当主経清もまた、婚姻関係にあった。
彼女は貞任と異母兄妹であり、彼女の母は前九年の役で最終的に源氏側へ加担した隣国の出羽国総大将、清原武則の妹だと言われている。
そういう事情もあり、登任が陸奥守の頃に起きた鬼切部の戦いでは、経清は安倍氏側について一緒に戦っていた。
しかし源頼義の代になると朝廷に服従する形をとり、彼は源側の部下とならざるを得なかった。
そのため、阿久利川事件が起きた時には、源氏側について戦っていた。
そんな最中、彼の行く末を大きく揺るがす出来事が起こる。
源軍で経清と一緒に戦っていた義理弟の平永衡という人物が、突然謀反の罪を着せられてその後処刑されてしまった。
その理由とは、彼が舅の安倍頼時から派手な銀の甲冑を貰い受け、それを身に付けていたからである。
彼は経清の妻である有加の妹、中加という女性の夫だった。
そのため彼は、目立つ甲冑を利用して安倍側に源の動きを教えているのではないかという嫌疑を仲間からかけられてしまった。
そしてそれをすっかりと信じ込んだ頼義によって刑に処されたのである。
経清はいずれ自分もそういう目に遭わされるであろうと、頼義をこの時見限った。
彼との決別を覚悟した経清は早々に動いた。
『安倍が多賀城に攻撃を仕掛けようとそちらに軍を向かわせている』という嘘の情報を周囲に流すと、頼義がそれに気をとられて不在の間、自分の配下たち八百人と共に安倍側に寝返ったのである。
それから後に起こった黄海の戦いで頼義に圧勝した貞任と経清たち安倍氏は更に勢力を増していった。
朝廷の赤符ではなく、独自の白符というものを使って徴税を行うなど、まさに怖いもの無しというその勢いは止まることを知らなかった。
しかし、この安倍側優勢の状況に転機が訪れる。
【出羽国、清原氏参戦】
安倍氏と戦うことを決めてからというもの、頼義は陸奥国の隣国である出羽国に何度も戦の協力を依頼していた。
しかしそこの当主である清原光頼は、いくら高価な贈り物をして懐柔ようとしても、決して首を縦には振らなかった。
出羽国と陸奥国は昔から親交があった間柄で良好な関係だったので、そんな相手に対して簡単に兵を出すわけにはいかなかったのではないかと思われる。
それに対して遂に頼義は『参戦してくれたら清原の臣下になってもいい』とまで約束したという。
そしてその後も懇願され続けた清原は遂に重い腰を上げる。(どんどん勢力を増す陸奥国に対して危機感を覚えたという説もある)
出羽国は、当主清原光頼の弟である清原武則を総大将として国府軍に味方をすることに決めた。
これにより形勢は一気に逆転。
安倍氏同様に周辺の地形を良く知り尽くしていて、一万もの兵を持つ清原氏が参戦したことにより、安倍軍はあっという間に追い詰められていく。
【安倍氏の滅亡とその後の陸奥国】
安倍氏はそのまま北へ北へと敗走して行き、やがて貞任や経清は自分の屋敷まで捨てなければならないところまで追い込まれていった。
そして遂に彼らの最後の拠点である厨川柵が攻略される。(厨川の戦い) 二人は生きたまま捕らえられ頼義の前に引き出された。
貞任は激しい戦闘で既に深手の傷を負っており、頼義の前で直ぐに息を引き取った。
そして経清はかつての主人である頼義と対面する。
聡明で人望も厚く財力も兼ね備えた経清が安倍側に寝返ったことにより、源勢は大変な苦戦を強いられた。それだけに頼義の経清に対する恨みは凄まじく、彼はわざと錆びた刀で首を斬られるという残虐な方法で処刑されたという。
こうしてようやくこの長きにわたる戦は幕を閉じたのだが、最後は頼義の思うようにはならなかった。
朝廷は頼義が狙っていた安倍氏の領地、奥六群を清原武則に与えた上に、彼を鎮守府将軍にした。
これについての頼義の無念さは計り知れないと思われる。
しかし彼は奥六群制覇の悲願を息子の義家に託す。そして義家はその意思を継いで後三年の役の重要人物となっていくのである。
貞任の息子で安倍家の嫡男であった千代童子は、僅か十三でありながら果敢に戦場で立ち回っていた。
その勇ましさと若さから助命も一時検討されたが、いずれ反乱分子の元になるだろうとして結局は処刑された。
経清の妻である有加と彼の息子の清丸は、皮肉にも敵側の出羽国総大将である清原武則の嫡男、武貞のもとに引き取られ、その妻と息子になる。
(清原の参戦からあまりに短期間で安倍が崩れたことから、これについては両者の間である密約があったのではという論も出ている。その内容とは、安倍と清原、更には藤原の血を持つ清丸を守り生かすことを条件にこの終わりなき戦いを安倍側の敗北として収束させるというものである)
後に有加と武貞との間には男子が誕生した。(彼は後三年の役の主要人物となる後の清原家衡である)
このように数奇で辛い運命を生き延びていく経清の忘れ形見、清丸こそが、東北で栄華を極めた奥州藤原氏の祖、藤原清衡である。
頼義は安倍氏を、その息子である義家は清原氏を、そしてその子孫である頼朝は藤原氏を。
奥州の覇者たちは、時代を越えて三度も源氏によって滅ぼされたのである。
【終】
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