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経清はその名を聞いた途端に、みるみると破顔した。
「そうだな。今すぐにでも会いたい」
「十といえば、可愛い盛りだものな」
貞任もつられて自然と顔が綻ぶ。
「ああ。目に入れても痛くないとは、まさにこの事。そしてもちろん、妻も恋しい」
それを聞くと貞任は目を丸くさせた。
「はっ、有加をとな。あのような気の強い女を良くも娶ってくれたものよ。お前も酔狂なやつだ。あれは流石に武則の血をひくだけのことがある。俺にも構わずにずけずけとものを言いよる」
「そうか? 俺に対してはいつも淑やかで優しくしてくれているぞ。良き妻だと心から思うよ」
「それはお前に嫌われたくないからだろう。清の前だとガラリと態度を変えやがって。片腹痛いわ」
それを聞くと経清は声を出して笑った。
「兄にすっかりと心を許しておるからではないか。お前は妹たちに優しいからな」
「ふんっ。そんな事はない」
貞任は腑に堕ちぬような顔をしつつもどこか優しげだった。
それから暫く沈黙の時が流れる。
二人を取り囲むのは、見渡す限り続く赤い平原だけであった。
「……」
先に口を開いたのは貞任だった。
「あの姉妹もその母君も、清原が向こうについてからは肩身の狭い思いをしているだろう。不憫なことよ」
それを聞いて経清も三人を慮る。
「そうだな。さぞ辛かろう。
そういう貞はどうなんだ。千代丸やその下の子達、それに千里殿が恋しくはないのか」
いきなり話題を振られた貞任は、目を伏せながら呟き始める。
「千代丸はまだ十三だが、もう立派な男よ。あいつは俺よりも度胸がある。とは言いつつも、毎日身を案じてしまう部分もある。
やはりどうしたって自分の子らは可愛い。だから屋敷へ早く戻りたいな。例え妻とはもうとっくに冷えきっているとしても」
「……」
「あ、返す言葉に困っただろ今」
戸惑う経清の顔をちらりと見ながら、貞任は
にやりと悪戯に笑った。
「まあ、その、なんだ。夫婦には乗り越えねばならぬ試練もある」
「ははっ。聞かなかったことにしてくれ」
あっけらかんと笑う貞任を尻目に、経清は軽く咳払いをした。
「すまんな、清」
「どうした改まって」
「あの時、大人しく俺を差し出していれば。
お前たちはこの戦に巻き込まれずに済んだかもしれんのにな」
そう言って思い詰めたような顔をした貞任を、経清はしっかりと見据えた。
「貞。それは違う」
「? 」
「あのお方はとても恐ろしい。例え素直に安倍の当主が跡取りを差し出したところで、終わりはしなかっただろうよ」
「……」
それでようやくこちらに目を向けた貞任に向かって、経清は迷いなく伝える。
「永衡殿への仕打ちで確信した。
次は俺の首を取る気だなと。
だから腹はとっくに決めてある。
俺は俺の好きなようにする。己の本当の居場所で守りたいものたちと共に最後まで戦う」
「清……」
「理不尽なことでお前を陥れたように、どうせこの先また難癖をつけては安倍を潰す魂胆でいるのだろう。
頼義様は何としてでも欲しいのだよ。
あらゆる価値を持つ、この奥六郡が」
貞任はそこまで聞くと、口をひとつきゅっと結んでから、それに答えた。
「そうだな。でなければたかだか一国に対してこれまでに凄まじく執着してくるわけがない。……なあ、清」
「ん? 」
「俺や親父は今まで、間違った選択をしてきてはいないだろうか」
その問いに経清は表情を一瞬和らげた。
それから力強く淀みのない目で貞任の目をしっかりと見据えると、言い切る。
「無論。間違ってなどおらん」
その言葉を聞くとまるで安堵したかのように、はにかんで目をそらしながら貞任は伝える。
「そうか。
ありがとうな。
俺たちのもとに戻って来てくれて」
「何だいきなり。気持ち悪い。
お前が俺に礼を言うなど、今宵は矢の雨でも降ってくるかな。ははっ」
「やかましいわ」
「おっ、そろそろ戻らぬと皆からどやされるぞ」
「むっ。じゃあ戻るとするか」
「おう」
二人はゆらゆら溶けていく。
寂静の夕闇へと。
茜さす。――――――――
彼らが消えてしまった頃、陽もまた山の陰にすっかりと身を潜めようとしていた。
そのわずかな一瞬、辺り一帯は一等の緋色に染めあげられる。
荒涼としたかつての戦場には、時折吹く湿り気のある風と虫たちの優しい音色だけが、悠久の時を越えて未だ彷徨っていた。
【了】
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