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疑惑
新米の頃に予定していたより早く、育緑師になって7年目の春、私は国花の栽培に加わることを許された。まだ株を任されるのではなく、あくまでも補助としての役割だが、やっとここまできたという喜びは大きい。高齢の職員が数人、立て続けに定年退職を迎え、自動的に繰り上がったことが大きいが、人員減の理由はそれだけではない。勤続10年を越えたベテランの域に入ると、王立大学での教職との兼任を命じられるからだ。取得難関な国家資格である育緑師は、植物についての広い知識と確かな栽培技術のみならず、造園や装飾も手掛ける能力が保証されているため、国内外の様々な分野で引く手数多の職業なのだ。出向先の業務が多忙になると、植物園に戻れないまま定年になることもしばしばあった。
「コルツァ先輩、寂しくなります……」
優秀な彼女は、ボバル師長のたっての願いを受けて、昨年から王立大学で教鞭を執り始めた。来春、専任講師に就任し、半年後には隣国の大学へ派遣されることが決まっている。
「私はね、あっちで新しい知識や技術を学ぶのを楽しみにしているわ。あなたに育緑のことを教えられるのも残り1年なんだから、遠慮なく私から吸収するのよ」
幼い頃に母を亡くした私にとって、コルツァ先輩は母であり姉のような存在だった。彼女が手掛けた最高傑作の国花を送り出した夜、2人でご飯を食べに行った。建国祭前は、連日植物園内に泊まり込んでいたので、市中に出るのは久しぶりだ。
「月が蒼いわ。今年の秋は豊作だわね」
夏に月が蒼く見える年は、穀物が豊作になるという。古くから受け継がれてきた民間伝承でも、長年の記録を元に科学的に分析すれば、有用な経験則が見つかったりするから侮れない。この国の月は、春には黄色く、夏には蒼く、秋には紅く、冬には白く輝いて見えれば、五穀豊穣・天下泰平が続くという。
「先輩、もう国花擬きが飾られていますね」
建国祭には、街中に国花が飾られる。店先に、民家の食卓に、広間の片隅に。それは、平和をもたらしてくれる王家に対する市民達の敬意と感謝の表れだ。市中の花屋では、建国祭に合わせて国花に似た白い花を売る。本物の花弁は黄色だが市民は到底手に入らないので、北方の山麓で発見された近隣種をギルド認定農家で栽培したものが出回っている。
大衆食堂の玄関先には、今にも咲かんとパンパンに膨れ上がった蕾を持ったレオレニアの鉢が、左右に2個ずつ置かれている。それを微笑ましく眺めたが、すぐ横のコルツァ先輩は顔色を失くし、食い入るように凝視していた。
「どうしたんですか、先輩?」
「え、ううん。まさかね……」
彼女は表情を無理矢理解凍して、口角を上げようとしたものの、ぎこちなく唇の端が引きつっただけだった。
食堂に入った後も、ややしばらく顔色が優れなかったが、発泡果実酒のコップを2回空け、美味しい食事が運ばれて来る頃にはすっかり普段の様子に戻っていた。
だから――翌年、彼女が大学に移り、その半年後、隣国に旅立った時も、私は笑顔で手を振った。
だから――更に3ヶ月経って、自分のロッカーの中に見覚えのないファッション雑誌が忍び込んでいたことに気づいた時も、迷わずゴミ箱へ直行した。
けれども、なにか、おかしい。
妙な胸騒ぎを感じて、その雑誌を鞄の底に押し込んだ。
帰宅すると夕食も取らずに、寝室に直行してカーテンを引いた。引っ掴んだランプごとシーツを被り、弱い明かりの元でファッション雑誌を調べる。その雑誌の発行日は1年と9ヶ月前。コルツァ先輩が植物園を離れる前月のものだ。中程までページを捲ると、まるで隠すように挟み込まれた紙切れがあった。そこに走り書きされた文字は、確かに先輩のもの。
『ボバル師長に気をつけて』
あの夜の、彼女の強張った横顔がまざまざと脳裏に蘇った。
コルツァ先輩が流行病に倒れ、物言わぬ姿で我が国に帰還したという一報が届いたのは、およそ1ヶ月後のこと。凍てついた冬の月が、レオレニアのように白く輝く夜だった。
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