思い出

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思い出

「おーい」 誰かに呼ばれた。 いや、本当は分かっている。 一番聞き慣れていて、胸が高鳴る声。 元気で安心する声。 大好きな、あいつだ。 いや、でもそんなことあるわけない。 期待するな。そう何度も言い聞かせる。 「おーい、そこの宿題終わってない人」 ......ずるい。何、その呼び方。 私は彼と塾が一緒だ。 だから、その呼び方はずるい。 彼はモテる。でも、塾でのことは私以外にはわからない。 学校ではうるさくて人気者だけど、塾では静かだ。 そして、私の斜め前の席だ。 授業中、こっそり目を合わせて笑いあった。彼が微妙に後ろを向くから、なんか悪い事のようで、ドキドキした。 笑ったときに、大きな目が細くなるのが、とても好きだ。 照れたときに口元を少しだけ手の甲で隠すのも、とても好きだ。 そして、その視線は私にだけ向けられたものだ。 そのことに少し優越感を感じていた。 気持ちをさとられないように振り向くと、彼は満面の笑みで走ってきて、自然に隣に並んだ。 一緒に帰るのは初めてで、心臓が驚くほどドキドキした。 「今日も雨だな。塾めんどくせー。お前、塾の宿題どれくらい残ってる?」 彼はいつも通り話しかけてきた。 なんだ。緊張してるのは私だけか。 「数学はあと3ページで、社会は半分くらい」 「マジか、やばいな」 「ねー、どうしよ。 ......お前は?」 「俺はなんにもやってない!」 「あははっ、やばすぎ」 「だろ」 「なにドヤ顔してんの」 「ふっ。勇気あるだろ」 「あははっ、まあね。前回宿題の提出率悪すぎて、あいつめっちゃ怒ったもんね」 「そうだな。あれは怖かった」 言葉とは裏腹に、彼は満面の笑みで言った。 そして、いたずらっぽい顔になった。 「そういえば、今日小テストあるんだっけ?」 「......え」 「お前も勉強してないの? よっしゃー!!」 「え、待って、範囲どこだっけ?」 急に返事がしなくなって彼の顔を覗き込むと、 彼は耳まで真っ赤に染まっていた。 思わずドキッとした。 あんなに自然に隣に並ぶから、そんなに緊張していないのかと思った。 不意打ちは、ずるい。 期待しちゃうじゃん。 自分の顔まで真っ赤になっていそうで、彼に見られないように横を向いた。 弱い雨音が微かに聞こえる。 傘が私達の距離を遠ざける。 だけど、これでは心臓の音は全く隠してくれなさそうだ。 とても長い沈黙が流れたような気がした。 胸の高鳴りを悟られたくなくて、急いで言った。 「紫陽花、きれいだね」 「あ、そうだな」 彼は照れたように口元をぎこちなく隠した。 それ以上何を話せば良いのか分からなかった。 もう彼の家に着いてしまう。 彼は何も言わないで、傘を閉じた。 待って、 待って、 行かないで。 そんなことを言える勇気もなく、ただ彼を見つめた。 だけど、彼は目を合わせてくれない。 「じゃあ」 掠れていそうな声が出た。 そして、彼がこっちを向いた。 「またね」 そう言って、ぎこちなく手を振った。 熱くて、溶けてしまいそうで、彼が何かを言う前に走って逃げた。
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