エピソード1

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エピソード1

 相変わらず、雨は止む気配がなかった。富永芽衣は傘もささずに、濡れるのもかまわず、歩き続けた。  冬の雨は身体に応えるはずなのに、芽衣には心地よかった。寒さで身震いするはずなのに、芽衣の神経はどこかでショートしたかのように、寒さを検知できなくなっていた。  雑踏の中を濡れながら歩く彼女の姿は、通行人には奇異に映っただろう。傘を忘れたか、傘が壊れたかで雨に打たれているなら、まだ許容範囲だが、彼女はむしろ、雨を浴びることに無上の喜びを感じているように見えたのだろう。  どこかで雷が鳴ったが、芽衣の耳には聞こえなかった。もちろん、雑踏を行き来する人々の足音や話し声さえも、芽衣には届かなかった。  芽衣は駅のホームにいた。ホームの先端に立っていた。構内放送が列車の到着が間もなくであることを告げた。芽衣はいつの間にか、白線の外側に出ていた。足元は濡れていたので、よもや、滑らせてホームの真下に転落しかねない状態だった。  間もなく、三番線ホームに電車が入ります。白線の内側に下がってお待ちください。型通りの放送が流れた後、列車の鼻面が見えてきた。  芽衣はまるで、磁石に引き寄せられるように、列車に向かって手を伸ばした。列車はようやく、ホームから飛び降りようとする人間を感知して、急ブレーキをかけた。激しい軋み音が鳴り響き、駅の人々の時間がいっせいに止まったかのようになった。  その時、芽衣の腕を誰かが掴んだ。芽衣にはすべての感覚が麻痺していたが、この感触だけはあった。今思い返してみても、その感触は蘇らせることができた。  芽衣の命の恩人は、現在の探偵事務所の所長だ。
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