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7月21日
じとりとした汗の不快感で、目が覚めた。完全には冴えない頭は、ずしりと重量を感じる。
昼の色になりつつある朝日が照らすダイニングテーブルには、1枚の紙が置かれていた。神聖さと重厚感を思わせる佇まいは、認めているようにも責めているようにも見えた。
やっぱり、軽い気持ちで書いていいものではない。
「今ね、これ書くのが流行ってるんだよ」
眩しい笑顔で若者の流行を教えてくれたのは、現役の若者・女子高生だった。
「でも、ますみさんは高校生でしょ?」
「やだなあ」
快活に笑うときの口角の上がり方が、あの人によく似ている。
「役所に出さなくてもいいんだから、好きな名前を書くんだよ」
人に壁を作らない彼女の人柄を好んでいたし、慕う兄の交際相手として認めてもらっているのもわかる。
「みずほさんはこっち、ピンクの可愛い方ね」
「私も書くの?」
「トーゼン」
妻になる人の欄には自分の名前を書いて、夫になる人の欄には好きな名前を書いて楽しむのだという。
渡されたボールペンで、そのまま空欄を埋めていく。
「どう?いい練習になりそうでしょ」
「落書きだと思えばね」
スマホに視線を落として、アイドルの誕生日でも調べているのだろう。
「ねえ、兄貴のどんなとこに惚れたの」
「えっと―――」
ノロケ話を絞り取られたところで、紅茶用の湯が沸いた。
結局、自分の欄を書いただけで婚姻届ごっこはお開きになった。
だから私は、ますみさんが誰の名前を書いたのかを知らないし、訊くこともしなかった。
塾の時間ギリギリまでお茶をしていたので、昨日は慌ただしく家を出て行った。もしかすると、この部屋のどこかにあるかもしれない。
むくむくと沸き上がってくる好奇心で、脳が目覚めていくのを感じる。我ながら酷い話だが、抗える気はしなかった。
「え?」
しかし結果はあっけなく、ダイニングテーブルの真ん中に、まっさらな婚姻届が鎮座していた。
なんだ、あの子なにも書かなかったの?
思い出せば、あの子がペンケースから取り出したボールペンは1本だけだった。簡単な会話も相槌は上の空で、スマホの角度を気にしていた...。
焼けたばかりのケーキと入れている最中の紅茶とで頭がいっぱいだったので、昨日は気にならなかった。思い返すほど不自然だ。
めくると、もう1枚現れた。ピンクの印字は、間違いなく昨日に手渡された分だ。
だが――
「ええっ!?」
自分の名前の隣、埋めたはずのない欄が、達筆で埋められていた。
「なっ、なんで!?」
夜勤明けの彼が眠る寝室を開けてしまったのも、どうか許して。
あと、もうひとつ。
例のごっこ遊びの動画が式当日のビデオに使われて、妹になった女の子にも同じ台詞を吐くことになる。
「ちょっと、どうなってるの!?」
ウエディングビデオの日
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