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7月9日
精神の揺らぎが、苦手だった。ざわざわと押し寄せてくる不安や衝動は、どうしようもない不快感に置き換わる。
だから、諦めがいいのは昔からだった。駄々をこねて両親を困らせた記憶はないし、余裕を持って入れる進路を選んできた。
安パイな生き方をしてきたここまでの人生で、あえて苦戦している分野を挙げるとするなら、恋愛だろう。
初恋は、小学生の時。休み時間の度に図書室に行って、いつも本を抱えているような子だった。当時人気だった探偵シリーズの話で、盛り上がったことがある。でもあの子が好きなのは、サッカー部のガキ大将だった。それで、ガキ大将もたぶんあの子が好き。
うん、諦めよう。欲しかったおもちゃを見なかったことにするより、ずっと簡単だった。
告白されて付き合うことはあったけれど、喧嘩か自然消滅で終わってしまう。
自分から惹かれることもあったのかもしれないが、声を掛けるタイミングを掴めない。
今みたいに。
ギリギリの時間に社食に滑り込むと、いつもあの人がいる。
第一印象は、綺麗な人、だった。しゃんと伸びた背筋も、滑らかに動く箸も、少人数の中では目立っていた。この時間に来ているということは、忙しいに違いない。そのくせ落ち着いて見えるのは、アイロンがかかったシャツと艶のある髪のせいだろうか。白衣を着ているから、研究職の人間だ。
離れた場所に席を取る。営業の自分とは縁のない人だったし、席を選び放題の状態でむやみに近づくと不審がられるとわかっていたからだ。
この時間だと、今日もあの人がいるだろう。
定食を頼んで座席に向かうと、やっぱりいた。しかし、いつもと様子が違う。自分の食事をそのままに、床を拭いている。
「あの、よかったら」
ハンカチを差し出したのは、たまたまズボンのポケットに入れていたからだ。床をハンカチで拭いてしまうと、ブラウスの袖口もスカートの裾も、味噌汁で濡れたトレイも拭けないはずだ。よってこれは不自然な行動ではないと、声を掛けてから計算する。
「すみません。洗って返しますね」
「いや、そんな」
間近で見れば、まさにタイプだった。涼しげな目元と、形のいい薄いくちびる。白衣がないせいか、今までのイメージより幼く見える。
「明日お持ちしますから、部署は」
胸元にかかった社員証を見て、えいぎょう、とくちびるが動いた。
厄介な部署だ。いつも社内にいるわけではない上、食堂に来る時間も定かではない。
「いいですよ。気にしない」
で。
言って、固まった。
聞かれなかったどころじゃない。彼女は、アンケート用紙を裏返して、迷うこと無く鉛筆を動かした。
並んでいく名前と数字に、理解が追いついていく。
「明日には渡せるので、都合のいい日、教えてください」
「あ...はい」
彼女がそのまま席に着いたので、自分もそれにならう。
離れた方が、気まずいだろ。これを機に、連絡を交換できる。でもがっつくとすぐに引くタイプだろうから、今日はここまで。
ざわざわ、ざわざわ。
今回感じた揺らぎは、不快感を運んでくる今までのものとは、どこか違っていた。
ジェットコースターの日
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