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星一つない夜空の下、目を光らす猫一匹いない。今まで、こんなに孤独だと感じたことはあるだろうか? この場から逃れたいと思っても、左羽が枯れた今、飛ぶ以外禄に動き回れない俺はどうすることも出来ない。なんという情けないザマだろう。
ギシッ、ゴトッ。
すぐ左にある屋根の端から木の軋む音がする。屋根から出ているあの二つの突起は梯子だろうか? どうやらこの家の住人が上がってきているらしい。この世界の者とは関わりたくなくて、俺はこの場から逃げたかったんだが、右羽で空気をかいただけでやはり動けなかった。音はドンドン近づいてくる。俺は仕方なしに右羽で全身を覆い隠した。その直後、二つの突起の間からヒョッコリ何かが現れた。羽の隙間から見るとそれは人間の少女だった。
「……おっきな、鳥?」
彼女の問いかけに何も答えず俺は相手から自分の顔が見えないのを良いことに、小さな人間の観察を始めた。少女は桃色のワンピース型のパジャマ姿で、やわらかい大きな目をしていた。純粋でキレイな目だ。少し茶色がかったショートカットの髪は、癖毛なのか毛先の方でクルンとカールしている。色白の彼女は透明感があり、触ると腕がすり抜けてしまうのではないかと思えるほどだった。なんというか、強い生命感を感じさせない。そんな彼女は梯子にかじりついたまま、暫く俺をジロジロ見ていたが、やがて屋根の上に上がってきた。
「羽の生えた、人?」
いくら羽が大きいとはいえ、流石に足までは覆い隠すことが出来なかった。それで鳥でないことがわかったのだろう。少女は俺を見るにつれて段々好奇心も湧いてきたらしく、人差し指で俺の右羽をつつき始めた。最初は我慢していたのだが、そのつつく場所がくすぐったい所であったために、俺は耐えきれずに右羽で少女を払いのけた。
「キャア」
驚いて危うく屋根から落ちそうになるが、少女は器用に腕を振って持ちこたえた。羽がよけられたことにより、彼女は一瞬俺の全貌を見たことだろう。殆ど白色の腰まである長い金髪。鋭い手の鉤爪。それから琥珀色の目。少女は再び羽の塊と化した俺を、更に興味津々の眼差しで見ていた。
「やっぱり人なんだ。名前は何?」
「……」
「じゃあ、私から。私はハルカっていうの。この家に住んでる十一歳」
勝手に自己紹介を始めた。初対面の人に何の隔てもなく自分をさらけ出す少女に、俺はどこかでうろたえずにはいられなかった。警戒心が無さ過ぎる。オープンな彼女――ハルカは再び俺の名を訊いてきたが、俺は依然として沈黙を守った。
暫くすると、立っていたハルカが俺の背中のすぐ隣に腰を下ろした。そこでも絶えず俺に話し掛けてくる。
「ねぇ、どこから来たの?」
「羽、おっきいね」
「どこかに旅してるの?」
「空飛べるの、羨ましいな」
しつこい。本当にうんざりする。一体いつになったら、このガキから逃れられるのだろうか? 俺が羽の下で顔をしかめていると、左羽から羽がまた二枚抜け落ち、夜風に連れ去られていった。その時、ふとハルカが何かに気がついたようだ。背中を向けているため確かなことはわからないが、気配からして何かをじっと見ている。俺は嫌な予感がして右羽で更に体を包み込んだ。
「左の羽、どうしたの?」
やはり。そこだけは気づかないで欲しかった。ハルカが座ったまま俺の方に腰を一つずらして近づいてくるのがわかる。ただでさえ痛む左羽に触られては一溜りもない。遂に俺は右羽を翻し、立ち上がった。突然のことに、ハルカが驚いた表情で俺を見上げる。
「やっぱり左の羽、おかしいの? 病気?」
この場から、ハルカから逃げ出したかったが、飛ぶことも出来ず、歩くのもままならない俺は一歩後退することしか出来なかった。顔を横に背ける俺にハルカがぶつかりそうな程まで近づいてくる。
「病気なら、私良い先生知ってるよ。明日、お母さんに相談してあげるから、一緒に行こう。あ、もしかして、動物病院の方が良い?」
動物病院って……。大体からして、俺の羽が枯れたのは病気だとか、そういうものじゃない。俺はハルカを右羽で払いのけた。これで病院に関してはノーだということがわかるはずだ。そして、ハルカは悟ってくれた。
「わかったよ。お母さんにも言わないでおくから。怒んないで」
怒んないで、か。その言葉、前にもアイツに言われたことがある。ほんの一年か二年前でしかないはずなのに、その日はもう、遠い遠い昔のように思えた。俺は別に怒っているわけではなかったが、どうも無愛想なせいか、そう見られがちだった。俺の悪い所だ。
ハルカと話していても何もならない。俺はハルカに帰って欲しいことを伝えるため、再び横になった。先程と同じように右羽で体を隠す。ハルカは悲しげに俺を見下ろしていたが、やがて、おやすみと梯子をギシギシ言わせながら降りていった。
この家の時計だろうか。どこからか鳩時計の機械の鳴き声が十二回聞こえてきた。もう、そんな時間なのか。
孤独で真っ暗なミッドナイト。
疲労感と絶望感から、俺は目を閉じた。
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