月の咎人

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 夜の訪れるよりも少し前の時間帯、庭に知らない植物の芽が生えているのを見つけた。  それは見る間に伸びて僕の背丈を越え林の木々を越え、空まで伸びて月に届いた。  しゅるしゅると枝葉が動いて梯子の形となる。  僕は梯子の先にある月を見上げた。あそこにはうさぎがいるという。 「行かないのか? ちびすけ」  背後からの声に振り向くと、そこには兄さんの姿があった。長身の体に細身のスーツを纏っている。真っ当な会社で働いている人とはどこか違う感じのスーツだ。 「兄さん!」  兄さんは長い足で僕のもとまで来ると、頭にぽんと手を置いた。久しぶりの感触がくすぐったい。兄さんは僕のことを大事にしてくれるけれど、いつもそばにはいてくれない。 「ちびすけって呼ぶのはやめてよ」  小学生の僕の身長は背の高い兄さんと比べるとうんと小さい。たしかにちびだけれども、名前の代わりのように呼んで欲しくはない。 「あそこ、行ってこいよ。お前のうさぎ、この間死んじまっただろ」  月に煙草の煙を吐いて、尖った靴のつま先で「ルル」と書かれた庭の片隅のお墓を示す。ルルは兄さんが僕にくれたうさぎだった。 「その梯子なら月まで行ける。あの場所に行けばうさぎがいるぞ」  言われて僕は月面で跳ね回るうさぎを思い浮かべてみた。けれど、どれも僕のルルではない。 「行かないよ」  すると兄さんは不機嫌そうに眉を歪め、ちっ、と舌打ちをした。 「せっかくだから違うやつでも見つけてこいよ」 「いいよ」  首を振る僕にしびれを切らしたように声を荒げた。 「いいから新しいの連れてこいって言ってるんだ。寂しいって言ってただろうが」  煙草を捨て、庭の土を靴でざりざりと掘る。高い靴だって自慢していたのに、汚れることも気にしない。僕が何も言わずにいると、兄さんは気を取り直すように大きく息を吐いて訊いてきた。 「寂しくないのかよ」  初めて会った時、兄さんはその腕にうさぎを抱いていた。物心、というものがつき始めたばかりの頃の曖昧な僕の記憶の中の兄さんは、今と同じ姿をしている。  前から大人で、今も大人で、少しも年を重ねていない。  怖い顔をしているのになぜかうさぎを抱いているのが不思議で、僕はぼんやりと兄さんを見上げていた。兄さんはふわふわとしたうさぎを僕に押し付けて「お前にやる」と言ったのだ。  それからずっと一緒に生きてきた。 「寂しいよ。……だけど、何かをなくして寂しくなった心は、寂しいままでいいんだ」  他の何かで取り戻せると思っちゃいけない。穴は開いたままでいい。  兄さんが僕の頭をぐりぐりと撫でた。 「……お前が寂しいのは、俺が嫌なんだがな」 「兄さんはいつまで僕のそばにいてくれるの?」 「今回は、そうだな……まぁ、お前の気が済むまでいてやるよ。ちゃんと待っててやるから、月でも見てきたらどうだ?」 「兄さんがここにいるなら、行かない」 「せっかく繋いでやったのにな」  くくっ、と笑うこの人がほんとうはどこから来た人なのか、僕は確かめたことがない。家族のない僕の前に突然兄として現れたこの人を、僕は生涯ただの兄であると信じ続けようと決めている。  夜に銀白色に輝く以外は他のうさぎと何も変わらなかったルルのことも、どこで生まれたのか気にしようとは思わなかった。  けれど、危機が訪れる可能性は潰しておきたかった。  夜、兄さんの寝息を確認してから僕はそっと庭に降りた。  空には白々とした大きな月が輝いている。その月面と繋がっている梯子を、大きな枝切り鋏でじゃきりと切った。  こちらから月に昇れるのなら、月からもこちらに降りてこられる。見つかってしまわない内に断っておきたかった。  種を掘り起こして眺めてみる。何の変哲もないこの種は、きっと兄さんのひと声によってのみ月へと届くのだろう。  音をたてないように部屋に戻ると、兄さんはいつもよりひどくうなされていた。 「……捕まらないでね、兄さん」  声をかけるとうめき声がやんだ。薄く目を開けて「眠れないのか……?」と言う。 「うん。一緒に寝てもいい?」  面倒くさそうにしながら布団をめくってくれる。初めて会った時血まみれだった体は、もうすべて癒えていた。どこからも血の匂いはしない。  兄さんが月とこことを繋いだのは、ほんとうは、逃げ続けることに疲れていたからなのだろう。きっともう、見つかってしまいたいのだ。  だけどいなくなってしまわないで、と僕は願う。  もしも兄さんを失ってしまったら、ルルが死んだ時よりもっと僕は悲しくなってしまう。  他の何も代わりにはならないから、大きな穴を心に開けて一生悲しいままになってしまう。  兄さんがどこにも消えてしまわないよう、しがみ付いて目を瞑った。「寝づらい」という文句も聞こえなかった振りをする。  そうして深い眠りに落ちる間際、ふう――と兄さんのため息が僕の髪を揺らした。 「……仮の居場所のつもりだったんだがなぁ」  そんな呟きが聞こえた。  月は今日も咎人を探して青白い光を地上にそそいでいた。
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