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「悠李くんは仕事でこのへんに来ていたのかな」
彼の仕事は基本的にデスクワークのはずだが、出張するときもあるだろう。澤田は会社の課長を務めているけれど、彼もたまに外仕事があったりする。
「いえ、違いますよ」
しかし悠李は首を振る。
出張という最有力候補が違うのなら、一体どういう因果でこの家に来たのだろう。
悠李の住宅からここまで片道二時間以上はかかるはずなのに。
そんな距離の目的地を仕事以外で出向こうとは思えない。
「姉さんに会いたいから来たに決まっているじゃないですか」
「…………」
この台詞こそ彼の性癖を体現していると言ってもいいだろう。
西園悠李の性癖。
それはシスコンである。
程度は姉に会うためだけに、平日にも拘わらず遠渡はるばるやってくるほどである。それを軽いか重いかは各人の判断に任せるとしよう。
判断基準が遠征だけで足りないのなら、こんな逸話もある。
澤田が付き合って半年が経ったある日、麻里佳の両親と初めて対面を果たした日のことだった。
その席には両親だけではなく悠李の姿もあったのだが、彼は麻里佳や両親がはけたほんのわずかな合間で澤田にいちゃもんをつけた挙げ句、比喩ではなくじかに唾棄したのだ。澤田の背広に唾を吐き捨て、冷酷な眼差しで、「貴様ごときが姉さんと釣り合うと思うなよ、ボケカス」と悠李は、中学生らしかぬ、いや中学生のようと言われればそうであろう悪口を放ったのだった。
そんな過去を経て、澤田は、だから自分に会えて嬉しいという言葉に違和感を憶えたのだ。
「きみは相変わらずお姉さんが好きなんだねえ」
澤田は悠李の機嫌をとるために阿諛を使いながらキッチンに足を運んだ。
「ここまで来るの、疲れなかった?」
キッチンの影からそう訊ねる。
「いえ、姉さんのことを思えば全然大したことはないです。ただ、姉さんがいないと知ってからアドレナリンがおさまって、少し疲労感が込み上げてきましたよ」
「それは気の毒に」
「まあでも、友達との時間を楽しんでいる姉さんを呼び出すわけにもいきませんから」
「きみのその気持ちを汲むよ。俺も麻里佳のプライベートを尊重しているからね。ところで、ご飯は食べてきたの?」
「いいえ。姉さんのご飯が久しぶりに食べたくて腹を空かせてきたんです」
「そうか。カップ麺とかあるけれど、それ食べるか?」
「いえ、お気遣いなく。ぼく、一食くらい食べなくても平気ですから」
「ん、わかったよ」
キッチンから出てきた澤田はダイニングテーブルにビールとスナック菓子を置く。遠くから訪れた青年を歓迎するには華やかさに欠けるが問題ない。
いましがたキッチンでこしらえた粉末状の睡眠薬を彼に含ませる口実をひとつつくれたのだから。
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