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 蛇口から水面に落ちる水滴の音で、澤田は目を覚ました。  身体がだるい。口元から垂れる涎を啜るのも億劫だ……いや、啜ることはできない。  身体全体が弛緩的な感覚に包まれているからだけではない。口にタオルを巻きつけられているからだ。  まさか涎を啜るのを封じるために猿ぐつわをされているわけではないだろう。身体の動作同様鈍くなっている思考でも、これは叫ぶのを封じるために装着されたのだと察せられる。  縛られているのは口だけではなかった。  両手首も両足も、ガムテープで束ねられている。腰にも紐が括りつけてあって、扉の把手に繋げられていた。  扉とは、すなわち風呂場の扉だ。  だから澤田がもたれかかっているのは、浴槽の側部ということになる。 「起きましたか」  暗黒に包まれた一室からそんな声がして、前方の部屋――脱衣室の明かりが灯る。  風呂場の出入り口に立ち尽くしている影があった。  西園悠李だ。 「おはようございます、お義兄さん」  彼はそう言って冷酷に笑む。  どういうつもりだ、と澤田は訊ねた。しかし、口腔の開閉を猿ぐつわに阻まれて、うまく発音ができずくぐもってしまう。 「ビールに一服盛らせていただきました。あなたが食事にそうしようとしたようにね」  だからどういうつもりなんだ、どうして睡眠薬のことがわかったんだ――そんな台詞もまた届かないと思われたが、その質問と線を結ぶような答が返ってきた。 「あなたを拘束させていただきました。それだけのことです。そして、睡眠薬の件はそうですね、推理したからと言っておきましょうか」  澤田の混乱のうちあったままだが、言葉を紡ぐ。 「あるいは今日、姉さんが殺される――と、姉の、もとい虫の知らせが届いたんです」  それでは姉を虫にたとえていることになる――悠李なら虫になった姉をも愛しそうだが。  これはきょうだいだからこそ感知できたシグナルなのだろうか。そんなオカルティックな事象こそ信じられないが、しかし彼も睡眠薬を隠し持っていた事実を虫の知らせ以外でどう説明をつけられる。  いや、説明はつけられる。  虫の知らせなんて関係ない。 「そうです、そのとおりです。嘘ですよ。きょうだい愛を示したかったんですが、非科学的な現象ではうまく納得させられないものですね。まあ、ぼくとしては、姉とはきょうだい愛より男女の愛で繋がりたいので、シンパシーが生じなかったのは却って喜ばしいです」  勝手に喜んでいやがれ、と澤田はできるものなら数年前の意趣返しで唾を吐きかけてやりたかった。  しかし、それはかなわない。  状況が既に、完膚なきまでに、悠李のいいように傾いている。  多分、たとえ口元が塞がれていなかろうと、唾棄のいとますら与えてはくれなかっただろう。 「見てください、お義兄さん」  ついっ、と悠李は半身になる。彼の背後の光景が瞳に捉えた。  細くしなやかな両足が横たえている。言うまでもなく、麻里佳の足だ。 「姉さんが死んでいますね。これはどういうことなんでしょうか」 「…………」 「猿ぐつわを沈黙の口実に使わないでください。表情でも何でも、意思表示をしていただかないと」  澤田は睨み据えるばかりだ。  悠李はそんな彼に嘆息した。 「あなたが眠る前、あんなに楽しく話していたじゃないですか。姉さんのように動けないはずがないはずですのに、どうしてただただ睨むだけなんですか。……では、ぼくからひとつ真実を語りましょうか。そうすればおのずと意思表示をしてくれるだろうし」  言うや、悠李は澤田を睥睨した。 「お義兄さん。ぼくは今日、姉さんがいなくてもよかったんです。むしろ、好都合でした。お義兄さんさえいてくれたらそれでよかったはずなんです。なぜなら、ぼくはお義兄さん、もとよりあなたを殺す気だったんですから」 「…………!」  殺す――殺すだって!?  虫の知らせではない時点で予想はできていたが、実際に口にされると動揺をおさえられずにはいられなかった。
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