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 両手の内側でどく、どく、と脈を打つ感触。  月光のみで照らされた薄暗い部屋でそれにだけ、明確な温度を感じるようだった。  ただでさえ小さく儚い鼓動だが、握力を強めるにつれ、次第に弱まっていく。  初めのうちは抵抗を示したものの、鼓動のフェードアウトに伴い、澤田孝太郎が馬乗りになる女は手足のもがく動作も衰えていった。  次第にその温度も下がっていく。  澤田のスーツのスラックスに爪を立てて激しくひっかいていた彼女の指が、太陽を失った向日葵のように力を失っていく。  やがて、鼓動は停止する。無我夢中の澤田は鼓動が認められなくなったあとも女のか細い首を絞め続けた。  我に返ったのは、それから五分後のことだった。きっかけなどは何もない。ふとした瞬間に悪魔に取り憑かれたようになっていた澤田が、人間の、理性のある表情に戻ったのである。  彼は呆然と天井を仰ぐと、自分は何をしているんだ、と辺りを見渡した。  ここは二年前に恋人との同棲のために引っ越したマンションのリビングである。  右には恋人との思い出の写真が飾られた棚。前方には玄関に続く廊下。左にはふたり分の椅子とテーブル。視界を更に左へと流す。キッチンを過ぎて背後には三階の景色が見渡せるベランダ。少し角度を左にずらせばソファ、それにミニテーブルを挟んでテレビが窺える。  どれもこれも希望に満ちて恋人と配置したのだった。これから一緒になる彼女と買い込んだ選りすぐりの品々だ。  そう、これからの将来に澤田は期待で胸いっぱいだったのだ。  それなのに――それなのに。  そこでようやく澤田は自分が跨がっている女へと視線を落とした。  一週間後に結婚して楽しい家庭生活をともに思い描くはずだった恋人の西園麻里佳が、白目を向いて泡を吹いていた。 「うわぁ!」  澤田は飛び跳ねるように麻里佳から退いた。動揺して立ち上がることができないから、胸部を死体の方向に向け尻もちをついたまま後退する。より遠くに離れようとしたのだが、カーペットが絡みついて思うように距離がとれない。  勢いに任せて離れると、今度は後頭部をベランダの窓に打ちつけた。反射的に振り向くと窓に人の影が映ったので、それにも驚き、今度は転がるように窓から離れる。麻里佳と窓との合間のあたりまで下がると、影の正体が自分であると気づく。  その拍子に澤田は思考力を取り戻した――この状況をあるがままに認識できる力が戻ってしまった。 「…………」  しばし沈黙したあと、澤田はつい十分前の自分を殴りつけるように床を叩いた。木槌のように拳を縦にして。  何度も、何度も、何度も、何度も殴り続ける。その行為に意味なんてない。だが、五分ほどそれが続いた。
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