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 澤田はいまつくれる精一杯の笑顔を訪問者に向ける。いつもの言葉遣い、いつもの所作を意識して扉の外の彼を迎えた。 「ご無沙汰しております、お義兄さん」  訪問者は靴を脱ぐ前に折り目正しく一礼する。深々とする余り、背負ったリュックが後頭部までずり落ちる。この傾き具合から中身はなかなか重量があると推察できた。 「あ、ああ。久しぶりだね」  うわづった声になってしまった。やってしまったと思ったが、しかし訪問者はそのベビーフェイスをきょとんとさせるだけで、澤田の胸中を察知したわけではなかった。 「ええ、お久しぶりです」  訪問者は西園悠李だった。  西園――つまり麻里佳の弟である。  よっつ上の麻里佳とともに授けられた親譲りの端正な幼顔で、運動神経、頭脳ともに秀でている。  特に頭脳に関しては脱帽するばかりだ。今年、国公立の有名大学を卒業し、大手IT企業に就職。機械開発部のプログラマーとして様々な企画でたしかな実勢を積んでいて、早くも次期課長との呼び声があるらしい。  二十三歳にしては若干身長が低いが、それが年齢にしては若すぎる顔立ちや痩せぎすの体型とうまく調和している。 「お義兄さん。スーツのままですが、仕事から帰ってきたばかりですか? 足音が随分と慌ただしかったですけれど」  緊張を呼吸を深くして抑えていると、そんなことを訊かれた。深く息を吐き、答える。 「……ああ、そうだ。いま帰ってきたところなんだ。まったく上司が馬鹿みたいに仕事を振ってくるから」  足音については触れなかった。  発言のニュアンス的にアンサーをそこまで求めているわけでもなさそうだったからだ。地雷をあえて踏むようなことはしない。 「仕事の振りかたからもう馬鹿ってわかりますね。こんな時間までやらせるほど突き詰めるなんて、マネジメントスキルがなってない」  強気の返答をする悠李。新人なのに次期課長候補なだけあって、経営力に一家言はありそうだ。  しかし、そんな話をしにきたはずがない悠李は「それはそうと」と話柄を切り替えた。 「姉さんはいますか。まあ、この時間だからいるはずですけど」  姉さん、という呼称を聞き、澤田はどきっとなる。  悠李の言う『姉さん』はたしかにこの家にいる。ただし、彼女はもう動かない。  この手で殺してしまったのだから。  にわかに衰弱していく首の鼓動が掌に甦る。  澤田はそんな錯覚を打ち消すように掌を握り締めた。 「ああ、すまないね。麻里佳は出ているんだ」 「出ている? どうしてです?」 「大学時代の女友達と会うって言ってね。友達の家で泊まることになっているから、今日は帰ってこないかな」  麻里佳の所在を訊ねられた場合に備えて、死体を隠しながら用意していた回答を口にした。友達の多い彼女だ、この言い訳なら説得力があるだろう。
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