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 それはまだ時代が昭和だった頃のこと。真夏の昼下がり、東京の下町を豪介は開襟シャツと麻のズボンに下駄履きで歩いていた。 「今日も暑いのー」  年はもうすぐ四十歳。肩幅があり筋骨逞しいのは若い頃水泳をしていたからだ。  大学を卒業して勤めた新聞記者を辞め、成り行きで作家になって十年以上になる。  今日は急に入った仕事のせいで朝にパンを食べたきり。筆も進まず買い物も面倒で川の向こう岸の馴染みの食堂に行くことにした。橋を渡ろうとして、奥に架かるもう一つの石橋に視線をやる。  戦前に架けられたそれは以前は人の行き交いに利用されていたが幅も狭く、新しい橋が出来て使われなくなった。風雨で傷んできたものの撤去するのに費用が嵩むのか、通行禁止の札を下げて何年も経つ。いつもなら気にも留めないのだが、伸び放題の雑草の中に白い物が動いた気配がしてそちらを見た。 「鳥か?」  目を凝らすと鳥ではなく白い服を着た少年だった。彼は地面にしゃがみこみ、下を覗いたかと思えば立ち上がって後ずさる。  飛び込み自殺をしようとしているのかもしれないが、この川はそれほどの深さはない。 「厄介ごとは勘弁や」  独りごちてその場を立ち去ろうとした時だった。 「うぅ……」  少年がすすり泣く声が聞こえた。 「はぁ。この忙しい時に」  ため息をつき、豪介は壊れた橋に佇む少年に声をかけた。 「そんな浅い川、落ちても痛い目だけして死ねんぞ。それに俺はこの橋を毎日のように渡るんや。ケガでもしたら後腐れ悪いけん、やるなら他でやってくれ」  本当に飛び込むつもりなら、これくらい言った方がいいだろう。  声にハッとした少年はこちらを向いた。白いカッターシャツは近くの中学の制服のはずだ。彼は豪介を見て小さな声で返した。 「……死ねない、俺。母さんが悲しむ」 「そうか、ほんだらええ」  とりあえず死ぬ気がないのならとその場を立ち去ろうとしたが、少年は戻る様子がない。肩を落としてうつむく姿に、そのまま捨ててはおけなくなった。 (ああもう、面倒なのに引っかかったな……)  ぐるりと回り込んで立て札の横から、生い茂った草をかき分けて少年の近くに行く。  つぶらな瞳は潤んで、下ろした長い前髪も頬も涙で濡れていた。身長は低くはないがひょろりとしている。そして草まみれの自身に比べ、彼の服は汚れていないことに気づいた。 「どっから入ったんや?」  指さす方を見ると、来たのと逆側の柵は一部が朽ちている。 「先に言え、よーけ草がついたやろが」 「ご、ごめんなさい」  びくりと体を震わせ身を縮ませる。 「…………俺が勝手に来たんや、お前が謝るな」  肩の葉を払いながら豪介は、怯えた表情の少年にそう言った。
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