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 豪介に連れてこられたのは、食堂から一キロと離れていない住宅街。雑草が伸び放題の庭と二階建ての小さな一軒家だった。とは言え六畳間に土間の台所が付いた長屋に住む渚にしたら立派なお屋敷だ。 「お邪魔します」  玄関でもじもじしていると、下駄を脱いで上がっていた豪介が振り返る。 「今は一人暮らしや、文句言う奴もおらん。楽にしとったらかまんけん」 「うん」  軋む廊下を数歩進んで、ちゃぶ台がある居間に通された。部屋の隅には小さな仏壇がある。 「きれいな人」  仏壇に飾られた笑顔の女性の写真を見て渚が言う。 「嫁さんや、死んでから随分経つ。お産でな、子供も生まれんかった。生きとったらお前と同じくらいか。……渚は何年生や?」 「三年生」  背もあるし顔立ちは綺麗だが言動が幼いので一年生くらいだと思っていた。渚は神妙に手を合わせている。 「かわいそうだね、生まれてこれなくて」 (裕福でない母親との暮らし、居着く男に弄ばれて、いっそ生まれてこん方が良かったとは思わんのか。──いや、思ったから死のうとしたんか?)  横顔を見ていると渚と目があった。 「生まれてたらきっと可愛がったよね、おじさん優しいから」 「そうか?」  うんと頷く渚に豪介は少し複雑だ。 「おじさんかぁ。あんまり呼ばれたことないのー」 「じゃあ、くま……い先生?みんなそう呼んでたし」 「ペンネームやけどな。熊と猪て書くんや、強そうやろ。先生言われたり、熊さんて呼ぶ奴もおる。まあなんでもええわ」 「うん。ラーメンと餃子おいしかったね、先生」  にっこり笑うと、笑顔が愛らしい。 「そうやっていつも笑っとき、まだ子供なんやから」  愛らしい……そう思う自分に驚く。 (なんやろこれ、庇護欲言うんか?ああ、変なのに関わってしもたな)  大阪で新聞記者をしていた時に事務員の女性と結婚し、東京本社に栄転になりこの家を月賦で買った。  仕事が面白い時期で当時の大臣と大手企業の贈収賄の噂を何ヵ月も追ってやっと証拠を押さえた。だがデスクに政財界が大きく揺れると止められ、その間に他誌に抜かれた。いや、ネタを売ったのは当のデスクだ。賭け事で膨らんだ借金があり、豪介の記事を自分の物として売ったのだ。社主からも直接謝罪されたが会社を辞めた。  そんな時に妊娠した妻はいつも笑顔でいてくれた。臨月になり子供の心音が聞こえないことから死産と分かり、──その子を取り出すお産で妻も亡くなった。 (優しい女やったから赤ん坊一人で逝かすんはかわいそうやったんかな……)  妻がもし生きていてあの橋で渚を見つけても、連れて帰っただろうと思った。
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