堕ちる人魚

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-プロローグ-  ステイ先のホテルの窓からは、眠らない街の灯が見える。  山岡はそれを横目で見ながら、小さく息をついた。肩に掛かっていた重みを、漸くベッドの上に置いたところだ。  ここは山岡の部屋では無い。コンビを組んでいる機長の篠原の居室だ。シングルのベッドの上には酔い潰れた篠原が、陸にうちあげられた人魚のようにうつ伏せに転がっていた。 「人魚…ね」  自分の想像に思わず苦笑する。  よりによって、こんなでかい男を何故人魚だなどと思ったのか。篠原の身体は程よく筋肉が付いた長身で、華奢には程遠い。容貌にしても、鷲鼻に大きめの口、四角い顎とゴツイ一方だ。  ただ髪は、栗色がかった鈍色をしていて緩いウェーブがあり、それが顔全体の印象を柔らかくしている。  実は山岡はこの髪が好きだった。今も気が付けば無意識に指で弄んでいたのだが、当の篠原は一向気付く様子は無い。  気持ち良さそうに寝息をたてているだけだ。 「……」  篠原が泥酔しそのまま寝てしまうのは、何もこれが初めての事ではない。酒を飲みに出れば、結果はいつも同じ。他の客と陽気に騒いだ挙句、気持ちよく寝てしまう。騒ぎすぎて、出入り禁止になった店も何軒かあるぐらいだ。  定宿にしているホテルのフロントも心得たもので、今夜も酩酊した篠原を抱えて帰ってきた山岡に気の毒そうな笑みを向けて、すんなりと二人分の部屋のキーを渡してくれた。  ここまで後の事を気にせずに飲めたら、それは気持ちいいだろうとは思う。しかし付き合わされる方は堪ったものではない。  まったく…と山岡は口の中で呟く。 「ご自分の立場が、解ってらっしゃるんですか?機長…」  問い掛けに返事は無い。山岡は大きく溜息を吐いて、もう一度窓に目をやった。  口髭のある事以外、特にこれといった特徴の無い男の顔が映っている。  困ったような、それでいてどこか楽しそうな表情をしているのに気付いて、目を逸らした。  篠原と山岡が共に勤務するミカド航空は、実は二つの顔を持っている。  民間航空会社としての航空事業と―――――  そのルートを利用しての非合法な諜報活動と――――――   無論、その事を知っているのは、会社内でもごく少数の者のみに限られる。  二人ともその少数の中に含まれていた。  事が事だけに細心の注意が必要だし、また、危険も伴う。いくら用心しても足りないぐらいだと山岡は思っている。それなのに篠原ときたら……  山岡はまた溜息を吐いた。   もしや自分が、この年下の機長とコンビを組む事になったのは、監視するためなのかもしれない…そんな考えが、ふと浮かんだ。  実は山岡は、秘密裏に内部監査の役割も担っていた。ミカド航空の裏稼業を行っている会長の唯一直属の部下で、命令があれば、該当者を処分する事もある。  今のところ、そんな命令は無い。  しかし。  篠原は元航空自衛隊の戦闘機乗りだっただけあって、腕も度胸も申し分無い。  ただ、それ故に行動が派手というか、とにかく目立つ。そんな彼がボロを出せば、組織全体に危機を及ぼす可能性も無いわけではない。  もしやそれを見越しての、人事なのだろうか。  だとしたら、あまり親しくなりすぎない方が、良いのだろう…    山岡の思索は、そこで途切れた。篠原が小さく身じろぎし、ゆっくりと目を開けたのだ。 「山岡ちゃ…?」 「ここに居ますよ。機長」  弄んでいた髪を放し、務めて平静に応える。 「水…ですか?」  微かに頷く篠原に、山岡は備え付けの冷蔵庫の中からミネラル・ウォーターのボトルを出すと、サイドボードに置いた。 「飲めますか?」 「ん…」  篠原は大儀そうに身を起こすと、何とかベッドヘッドに上半身を預けて座った。その手にキャップを取ったボトルを渡す。  それを一気に半分ぐらい呷って、篠原は大きく息をついて目を閉じた。 「篠原機長」 「ん…?」 「大きなお世話かも知れませんが…」 「しれませんが…何?」 「アルコールは、少し控えられた方が宜しいんじゃないですか」 「…何故?」 「…それは…貴方ご自身が、ご存知のはずだと思いますが」 「俺…何かヘマしたか?」 「いえ。今のところは」 「だろ?」  篠原の声に笑みの気配が混じる。 「俺だって、TPOぐらい弁えてるさ。でも今回のステイは完全オフだろ?だから少しぐらい羽目ェ外しても、大目に見て欲しいな」  少しぐらい…と、山岡は口の中で呟いて、肩を竦める。 「勿論。機長がご自分の足で歩いて帰って下さるなら…ですが」  自分より背の高い者を支えて歩くのは、大変なのだ。おまけに篠原は癖なのか、すぐ人に抱きついたり、キスしようとする。それを宥めつつ、無事ホテルまで連れ帰るのは楽な仕事では無い。 「別に誰彼構わず…ってワケじゃないぜ」  自分の癖の事を言われて、篠原は拗ねたように呟く。 「これでも、相手は選んでるんだけどなぁ…」  その言葉と共に、ベッドサイドに立つ山岡の手を取ると、指に口付けした。 「…悪酔いしてますね。機長」 「酔ってない」 「酔っぱらいは皆、そう言います」 「じゃ、いいよ。酔っぱらいで」  そう言うが早いか、掴んだままの手を引いて、山岡の身体を抱きとめる。  キスしようと近付いてくる顔を、山岡の手がそっと止める。思いのほか節のしっかりした、長い指だった。 「相手は選ぶんでしょう?」 「だから。選んでる」 「酔った勢いで、ですか?」 「酔ってても、好みは変わんねぇよ」 「それを、酔った勢いと言うんですよ」  山岡の言葉に、篠原は大袈裟に溜息を吐いて、その身体を放した。 「山岡ちゃん、俺の事嫌いか?」 「そんな事はありません」 「だったらいいじゃないか?」 「そうですねぇ…」  焦るでもなく、乱れてしまったスーツの皺を直しながら山岡は囁く。 「機長が素面の時でしたら、考えないでもないですがね…」  笑みを含んだ声で、そう応えた。  山岡は簡単に部屋の中を片付けていた。  いつの間にか脱ぎ散らかされた靴を揃え、ソファの背に投げかけたままになっていたレザーの上着をクローゼットにしまう。そんな山岡を、べッドの上に胡坐をかいて座り、拗ねたような顔で篠原が見ている。それを目の端に捕らえて、思わずこぼれそうになる笑みを必死で堪えていた。  まったく、この人は…なんという……  この自由奔放さが羨ましいと思う反面、非常に危うくも感じる。もっと近くに寄りたいと願いながら、危険だと本能が告げる声が聞こえる。山岡の立場からすれば、それは当然の危惧だ。  しかし篠原は、そんな山岡の葛藤など知らない。  勿論。たとえ知ったところで何も変わりはしないのは予測できる。自分自身に正直に、信じたままに突き進む。そしてそのために何か失う事になったとしても、きっと後悔などしないのだろう。  そう…恋のために、声を失った人魚のように。  そして人魚は、その恋に殉じて泡となって消える時も、満足しているのだろうか…?  山岡は自分の考えに、知らず溜息を吐く。  どうやら自分も思いの他酔っているらしい。窓のカーテンを閉め、篠原に就寝の挨拶をして早々に部屋を出た。  何処までも同じドアの続くホテルの廊下で、山岡は、今、出てきたばかりのドアを振り返った。  願わくば―――と切に思う。  人魚を泡に還すのが、我が手では無い事を…と。 - 1 -  ステイ先での夜は、何故か心が騒ぐ。  別に眠ろうと思えば眠れないワケではない。それぐらいの自己管理が出来なくては国際線パイロットなんてやってられない。それは解っている。  それでも飲みに出てしまうのは、何処か人恋しいからか…? そんな自問自答をしながら、篠原は独り、馴染みのバーのカウンターで何杯目かのグラスを空けていた。 「へイ!今日は大人しいじゃないか?」  粋なソフトスーツをわざと着崩した様な、いかにも知的階級といった容貌の大柄な男が肩を叩く。 「よう。久しぶり」  この店の常連で、篠原のステイ先での飲み友達だ。特に連絡を取り合ったりはしないが、ここで行き会えば一緒に酒を飲んで騒ぐ程度の付き合いではある。  もっとも相手がどう思っているのかは、わからない。 「ネグローニを頼む。彼にはスコーピオンを」  篠原の隣のスツールに座ると、バーテンダーに注文を出した。 「また、そーゆー強い酒を飲ませようとする…」 「何言ってる。篠原はこれぐらいじゃ酔わないだろ?」  「そりゃあ…」  にやりと意味有りげに笑う男に苦笑して、篠原は肩越しに店の奥の席を見た。 「どうした?」  篠原の視線を追って、隣の男も店の奥を見る。そのボックス席には一人の客が居た。 「何?あの男。気になるのか?」  篠原が黙っていると、男は尚も観察を続ける。 「ふう~ん…まぁダンディではあるな。ヒゲも似合ってるし。あーゆーのが篠原の好みなのかい?だったら僕もヒゲを伸ばそうかな」  そう囁きながら、隣に座る篠原の腰に腕を回してくる。 「ヒゲねぇ…」  目の前に置かれたカクテルをひと舐めして、篠原はくすんと小さく笑った。 「あれは俺の新しい相棒のコ・パイさ。とってもお固くて、怖いんだ」 「怖い?」  ヒュー!と背の高い男は馬鹿にしたように口笛を吹くと、もう一度、奥の方を見た。 「あんなオジサンが?そりゃあ確かに固そうだけどさ。篠原よりも小さそうだし?それとも、何?怒るとハルクにでも変身するのかい?」 「ハルクって…」  クスクスと笑う篠原に気を良くしたのか、男は更に篠原に身を近づけ耳元で囁く。 「いいじゃないか放っておけば。相棒が居て騒ぎにくいっていうなら、別の店に行こう。ああ、それとも…」 「それとも?」 「僕の家で飲んでもいい」  熱い息と共に囁かれた誘いには返事をせず、篠原はバーテンダーに新たなオーダーした。 「サラトガ・クーラーを」 「篠原!」 「ホントに怖いんだよ…今度の相棒は。ほら…先月、俺の乗機がハイジャックに遭ったのは知ってるだろ?」 「おお、もちろん。あのニュースを聞いた時は心臓が止まるかと思ったよ。君が心配で」 「そりゃどうも」  大袈裟に天を仰ぐ男に、篠原は口の端を僅かに上げると小さく頭を下げた。 「あん時、犯人を撃退したのが、彼なんだ」 「彼?」 「そ。俺の新しい相棒。コ・パイの山岡さ」    本当にあの時は…と、篠原は思う。  コクピットまで侵入したハイジャック犯は2人とも銃を持っていて、どうにも身動きできない状況だった。  隙を窺いつつも、このまま要求どおり飛ぶしかないのかと悔しい思いに駆られ、つい無謀な行動に出そうになっていた。  そのときだった。  今までまったく従順にハイジャック犯の指示に従っていた山岡が、突然、副機長席から立ち上がると、向けられた銃に怯みもせず、相手の手首を掴み、そのまま引き寄せながら逆の手で鳩尾に肘打ちを食らわせると、あっさりと銃を奪ってしまった。  もう一人が銃を構え直した時には、山岡は相手の眉間に奪った銃を突きつけていた。  そして恐ろしく静かな声で言ったのだ。『安全装置を解除しなくては、撃てませんよ』と。  『テロリストを気取るなら、もっと学習が必要ですねぇ』とも。 「彼が?ハイジャックを?やっつけたって?」  嘘だろう?と、篠原の隣の男は大袈裟に肩を竦める。 「まぁね。実はああ見えて、彼は空手の達人なんだ。見かけに騙されると痛い目みるぜ」 「Oh!カラーテ!石のプレートとかも割るのかい?」 「そりゃあもう。粉々さ。しかも気難しいから、気軽に声なんかかけるなよ」 「OK、OK。すると何かい?彼は君のお目付け役なのか?」 「かもね…」  篠原の返事をどうとったのか、相手の男は笑いながら首を振って、また身を寄せてくる。他人の気配に振り向くと、背後に山岡が立っていた。 「ああ。山岡ちゃん。今、丁度彼に紹介してたところなんだ」 「それは…どうも」  山岡は軽く頭を下げる。 「どう?こっち来て、一緒に飲まない」 「いえ。私は…」 「ああ篠原、悪い。僕はそろそろお暇するよ。仕事を残して来たんでね」  男はするりとスツールから降りて、山岡に一礼すると、そそくさと出口に向かって行った。 「おやおや。」  篠原は揶揄を含んだ笑みで去ってゆく男の背中を見送ると、山岡を隣に座るように促した。 「山岡ちゃんて、空手やるのかい?」 「何です、藪から棒に?空手なんてやった事無いですよ」 「そうなんだ」  緑の大男にもならないよねぇ…と、ひとり可笑しそうに笑う篠原を、山岡は怪訝そうな顔で見ていた。 「山岡ちゃん。乾杯しよ」 「何にです?」  それはもちろん…と篠原は山岡がグラスを手にするのを待つ。 「コンビになった事に」 「今更ですか?」  綺麗に整えられた髭のある口元に、微かに笑みを刷いた山岡の顔を真正面に見ながら、篠原はハイジャック犯に銃を突きつけていた彼の顔を思い出していた。  まったく平静で、毛ほども動揺していないプロの顔。  銃器の扱いも手馴れたもので、その辺の俄かテロリストなど足元にも及ばない熟練者の手際の良さを感じさせた。  しかしそんな顔は一瞬で、助けを呼びに行ったフライト・エンジニアが戻ってきた時には、困ったような顔をしていた。  そう…しくじった!という様な。  多分あれは、篠原が無茶をしそうだったから…それで、つい手を出してしまった…そんな感じだった。  二人が所属するミカド航空にも多くの社員が知らない裏がある様に、山岡にも誰も知らない部分がある――  だから篠原はその現場を目撃した乗務員達の前で言ったのだ。先日ステイしたホノルルで、射撃訓練しといて良かっただろ?と。山岡の行動を際立たせないために。 「よろしくな。コ・パイ殿」 「…こちらこそ、宜しくお願いします。機長」  キン・・・と微かに響く硬質の音を聞きながら、この男の事をどこまで知る事が出来るのかと、篠原は楽しみに思い始めていた。  山岡が3軒目のバーで機長の篠原を見つけた時、大柄でいかにも自信ありげな男と一緒だった。  珍しい事ではない。大抵どのステイ先のバーにも、こういった飲み友達がいるのは知っている。まったく陽気で社交的な彼らしいと思う。  しかし出来れば相手は選んで欲しい…と思っているのも事実で、あまりスキャンダルになるような騒動は起こして欲しくない。  実際、篠原は良くもてる。女性は言うに及ばず、男性にも。偶にしか会えない篠原を口説こうと、躍起になっている者たちを何人か見た事がある。  ただ篠原にはその気は無いらしく、上手くあしらっていた。しかし。それがいつか揉め事に発展しなければ良いが…と山岡は危惧していた。 「まったく…」  ふと我に返り、自分の入れ込み様に舌打ちする。本来、篠原とは仕事上のコンビであって、こんなプライベートまで心配する必要は無いのだ。  いくら年下とは言え、相手は大の大人で、しかも上司だ。  『職務』に支障をきたすから困る…という理由をつけようと思えばつけられるが、そんなのは建前でしか無い。本音を言えば、今の山岡はこの年下の機長の事がとても気になっていた。  何か面倒を起こしそうで不安なのか。否。それだけでは無い何かが、山岡を駆り立てていた。   思わずついた溜息が聞こえたワケでも無いだろうが、篠原がこちらに気付き、笑顔で手招きする。その横では連れの男が不愉快そうな顔をしていた。  他人に命令するのに慣れた様子の男は、当然のように山岡に来るなと目で合図してきたが、それを無視して近付いて行くと、これ見よがしに篠原の肩を抱き寄せてキスし、席を立った。 「ボン・ソワール。山岡ちゃん。遅かったね」  何事も無かったように笑顔で迎える篠原に、山岡はまた溜息をつく。 「宜しかったんですか?」  何が?と篠原は山岡の目線を追う。  先程の男が、離れた席からこちらを睨んでいた。 「ああ~…悪い奴じゃ無いんだけどさ。しつこくて…!助かったよ」  少し眉をしかめて、手の甲で唇を拭う。 「相手は選ばないと、今に痛い目に遭いますよ。機長」 「だって…一人で酒飲んだって寂しいじゃないかぁ。山岡ちゃんは付き合ってくれないし」 「そう思うんなら、まくような真似…しないで下さいな」  溜息交じりの山岡の言葉に、篠原は小さく舌を出した。 「バレてた?」 「私で良ければお付き合いしますから。あまり変なのに引っ掛からないで下さい」 「変なのはヒドイな」  篠原は楽しそうに笑いながら、隣のスツールに腰を下ろす山岡の横顔を、カウンターに頬杖をついて眺めていた。 「彼はアレでも大手IT企業のブレーンだぜ?色々と面白い話を聞かせてくれたよ」 「機長…」 「何?」 「情報収集も結構ですがね・・・色仕掛け紛いの事まで、会社は推奨してない筈ですよ」 「色仕掛けとは参ったね。仕方無ぇだろ?向こうが勝手に口説いてくるんだから」  篠原は肩を竦める。 「それにこれは、会社とは関係無いし…まぁアルバイトかな…」 「え?」  怪訝そうな顔の山岡に、篠原は悪戯っ子のような笑みを向けた。  1週間ぶりの東京は、すでに季節が変わりつつあった。  その事で篠原は、日本に帰って来たのだと実感する。小さな島国にもかかわらず、四季のある国。もう少ししたら桜の花も咲くだろう。  平日の公園は、すでに昼休みの時間も過ぎた今、人影は疎らだ。篠原は街路樹の植わった遊歩道を、スラックスのポケットに手を入れて、のんびりと歩いていた。  いくつかあるベンチは木々の影を映して、初春の陽にまだら模様になっている。  そのひとつに若い女性が座り、手に持った編み棒をゆったりと動かしていた。その動きに連れて、横に置いた紙袋から青く細い毛糸が繰り出されてくる。  篠原がその前を通りかかった時、紙袋が倒れて、中からいくつかの毛糸玉が転がり出てきた。 「おっと!」  足元を転がる毛糸玉をすんでの所で避け、拾い上げる。 「あ、すみません」  慌ててベンチから立ち上がった女性が、毛糸玉を拾う篠原の傍らに走り寄ってきた。 「それ、私のです。ありがとう」  屈み込んだ彼女は、中々の美人。ふっくらとした頬のラインは優しそうで、それを肩まである髪が縁取っていた。しかし、その瞳はキラキラと挑戦的な光を湛えていて、篠原は楽しげに小さく口笛を吹いた。 「へー…何、編んでるの?恋人のマフラー?」 「何だと思います?」 「う~ん…」  篠原は考えるポーズを取りながら、口の端を上げた。 「そろそろこの合言葉も、季節外れだよなぁ」   それ以前にアナクロ過ぎる。いったい誰の趣味なんだか。  同意を求めるように、傍らに屈み込む女性の方を見た。 「そうかも」  そう言って笑った彼女の頬には、えくぼが出来た。 「おっ、えくぼ!いいねぇ。どう?どっかでお茶しない?」 「ホント!噂どおりの人ですね」  彼女はくすくすと笑いながら、毛糸玉を手に立ち上がった。 「噂?俺の?」  道に屈みこんだまま、篠原は女性を見上げる。スタイルもなかなかイイ。 「そうよ。今回の接触相手は、女ったらしだから気をつけるように。って言われたわ」 「ひでぇなぁ」  篠原は苦笑しながら立ち上がると、手にした毛糸玉を渡した。 「美人に会ったら、誘うのは礼儀だろ?」  にやりと笑ってウインクする。こういう仕草が嫌味にならないのが、篠原の得な所だ。 「もう…」  女は呆れたように溜息をつく。しかしその目は笑っていた。 「ナンパしてる場合じゃないでしょ。約束の物を渡して下さい」 「今、渡しただろ?」  篠原は顎で、ベンチに置いた紙袋の中を示す。彼女が覗き込むと、中に明らかに他の毛糸玉と違う玉が一つ有る。それはつい今しがた、篠原が拾って渡してくれた物だ。 「は~い。お仕事終り。名前なんて言うの?」 「え…三条るい」  あまりの手際の良さに毒気を抜かれたのか、あっさりと名乗った。 「るいちゃんかぁ。やっぱり美人は名前もキレイだね」  いそいそと、るいをベンチに座るように促すと、篠原は自分も隣に並んで座る。 「で。今からどこに行こう?この近くにスイーツの美味しい店が有るけど、そーゆーのは好きかな?」  すっかりナンパ・モードに入った篠原だったが、るいは肩を竦めて立ち上がった。 「ごめんなさい。受け取った物を早く届けたいの」  そう言って荷物をまとめ始める。 「おや、残念」  引き際は良い。その辺は心得ていた。 「私…まだ慣れて無いのよね。こういうバイトに」 「バイト?」 「そうよ。私、まだ学生だもの。これはアルバイトでやってるだけ」  さらりと言うるいを、篠原は呆気に取られたように見返した。いやまったく、何と言うか… 「えーと…君は、これがどーゆー事なのか…知ってるワケ?」  呆れ半分、興味半分で訊いてみる。 「ええ。一応はね。いわゆる『秘密の取引』てヤツなんでしょ?でも私は言われた場所に届けるだけだから、宅配サービスみたいなカンジかな~って」 「宅配ねぇ…」  そう呟いた篠原の口元には、困ったような笑みが浮かんでいた。 「危険な目に遭うかも…とは思わない?」  その問いに、るいはさも意外そうな顔をする。 「あら。多少スリリングな方が楽しいじゃない。あなただって、そうなんでしょ?」 「え?」 「これ。情報の横流しだって聞いたわ。バレたら拙いって。だから早く帰りたいんじゃない」  小声で囁くるいの瞳はキラキラと輝いて、恐れている様子は無い。よっぽど度胸がいいのか、それとも世間を知らな過ぎるのか…?きっと後者だと、篠原は天を仰いだ。 「じゃ、私帰るけど…」  篠原の感慨にお構いなく、るいは荷物を背後に両手で持って、篠原の顔を覗きこむ。 「何?」 「あなた、お名前は?まだ聞いてないわ」 「ああ…」  ベンチに座る自分の顔を、小首を傾げて覗き込むるいの頬に出来た片えくぼ。それに目をやり、篠原は溜息をついた。 「ねぇ?」 「男の名前を、そんな風に聞くんじゃないよ。お嬢ちゃん。危ないぜ」  そう言って、不満そうなるいの鼻を指でつつくと、せいぜい悪そうな笑顔を向けて、足早にベンチから立ち去った。 「アルバイトで運び屋…ねぇ…」  そう呟く篠原の唇には苦笑が浮かんでいた。  高層ビルの建ち並ぶ歩道には強いビル風が吹き、篠原の呟きを吹き飛ばす。 「まぁ…俺だって人の事は言えねぇけど…さ」  ミカド航空という民間航空会社の国際線ルートを利用しての諜報活動。その裏稼業に加担しているにもかかわらず、その中で得た情報を他組織に横流しをして、それ相応の報酬を得ている。 「これだって、アルバイトだよなぁ」  別に007やミッション・インポッシブルの様な大掛かりな作戦行動をしているわけでは無い。もちろん銃なんか扱い方を知っているというだけで、撃った事も無い。もしもの時は持ち前の運動神経と勘の良さで、ある程度はなんとかなるだろうとは思っているが、所詮はアマチュアでしかない。  でも・・・と篠原は、今来た方を見る。  少なくとも自分は、アマチュアはアマチュアなりにリスクは覚悟しているつもりだ。事が上層部に知れれば、まず無事では居られないだろう。それを承知の上で、危険なゲームをやっている自覚はあるのだ。  しかし。  今しがた公園で接触した『取引先』の運び屋・三条るいという娘にとっては、情報の横流しの片棒を担ぐのも、ファスト・フードでバイトするのも、あまり大差ないのかもしれない。  そう考えて、篠原は自分が何だかひどく歳をとった様な気がした。 「あ~あ…」  落ち込みそうな気分を、溜息と共に吐き出すと、篠原は人目も憚らず大きく伸びをした。   今更、考え込んだところでどうなるものでもない。一度の人生。自分の思い通り、悔いの無いよう生きたいと思っている。それに、すでに始まっているゲームを、途中で止める事はできないだろう。 「誰か誘って、飲みにでも行くかな~…」  わざと軽く呟きながら、モバイルのアドレス帳を開いてスワイプする。 「景子くんは…今日はフライトかぁ。美穂くんはロスから帰ってきたばかりだし…」  ふと、前方の交差点で信号待ちをしている人物が目に留まる。 「ん?あれは…」  見覚えのある姿に、篠原は悪戯っ子の様な笑みを浮かべると、こっそりと背後から近付いた。  が。  突然、その人物が振り向き身構える。 「し・・・のはら機長…!」  篠原を認めると大きく目を瞠り、息も絶え絶えに、やっとそれだけを声を絞り出す様に呟いた。 「や!ごめん、ごめん。山岡ちゃん。ちょっとビックリさせようと思って、後に回ったのがまずかったな。そんなに驚いた?」  少し困った様な笑顔で訊いてくる篠原に、山岡は詰めていた息を細く吐き出す。 「山岡ちゃん…?」  いつもと様子の違う山岡に、篠原は怪訝そうな顔で呼びかける。信号が変わっても立ち尽くす二人を、他の通行人がどんどん追い越して行った。 「顔色が良くないけど…大丈夫か?」  思わずそう訊いてしまうほど山岡の表情は険しく、額には汗もかいているようだ。 「ああ…いえ。すみません。少し考え事をしてたものですから。気がつかなくて…」 「とにかく、どこか座れる所に…」 「いえ。大丈夫です」  そう言って、山岡は大きく息を吐くと、ようやく弱々しいながらも笑みを浮かべた。 「こんな所で機長に会うとは思いもしませんでしたよ。今日は何です?デートですか」  他の通行人の邪魔にならないように、歩道の端に移動しながらそう訊ねる様子は、もういつもの山岡だ。 「ん~?そのつもりだったんだけどさぁ。フラれたんだな。これが」 「それはそれは」  また何か言われるかと身構える篠原に、山岡は困ったような笑みを返しただけだった。  やはり何か違和感があるな…と思いつつ、それが何なのかはわからない。篠原は釈然としないまま、会話を続けた。 「で?山岡ちゃんは何してンの?忙しい?」 「ええまぁ。それなりに」 「ちょっとだけ、付き合ってくれないかなぁ」 「どこへです?」 「この近くに俺の知り合いのバーが在るんだ。すっごくいい店!だから、どう?」  一杯…とグラスを傾ける真似をする。 「こんな時間に、ですか?」 「まぁ店が開くには早いけど、入れてもらえると思う」  その我儘な物言いに、山岡はくすんと笑みを漏らした。 「貴方らしいですねぇ…」  少しだけですよと頷く山岡に、篠原の表情は明るくなる。  店のある方角へ足を踏み出して、篠原は何の気なしに先刻山岡が来たであろう方向に目をやった。  粋を凝らした建築物が多いオフィス街。その中でもひときわ目を引くビルがある。 「あ…」  思わず、篠原の口から声が漏れた。  ビルとビルの間の見過ごしそうな階段を降りると、重そうな樫の扉が二人を迎えた。真鍮のドアノブも扉自体も適度に古びて丸みを帯び、前に立つ者に温かさを感じさせる。  その扉のプレートには《Bar GNOSIS》とあった。 「グノーシス?」  どこかで聞いた名だと思いつつ中に入る。店内は抑えた照明が青味を帯び、何処か水底を想像させた。それに所々に配された色付きガラスの器や人魚を模した置物。入り口と反対側の壁にある天窓からは道行く人々の足が見え、更にそれを助長している。  案外と広い店内には、まだ椅子が上に乗せられたテーブルがいくつかとカウンター席が有り、その奥でバーテンダーが一人、開店の準備をしていた。 「やぁ。徳さん」  篠原の声にバーテンダーが顔を上げる。雪のように白い髪が印象的な、初老の男だ。 「篠原ちゃん?何、こんな時間に。店が開くには、まだ早いよ」 「う~ん…それは解ってるんだけどさ~。俺の知り合いの店なら無理が利くから~て、彼、連れて来ちゃったんだ。お願いします。一杯だけでもいいから、飲ませてよ」  両手を合わせて拝むようにお願いする篠原を、少し離れた所から見ていた山岡とバーテンダーとの目が合った。  初老のバーテンダーはにっこりと笑う。 「ほらぁ。お連れさん、笑ってるよ。どうやら篠原ちゃんのワガママに、慣れてるようですねぇ」  山岡は自分に向けられた言葉に、どう答えたものかと思案して、結局肩を竦めた。 「仕方ないですねぇ。今日はこのお連れさんに免じて、ね」  そう言ってバーテンダーはウインクすると、二人をカウンターに招いた。 「彼は山岡ちゃん。現在、俺とコンビ組んでるベテランのコ・パイ殿。で、彼は徳衛さん。ここのバーテンダー兼オーナー」 「え?」  各々注文したカクテルを飲みながら、篠原の紹介を受けた山岡は、カウンターの向うで微笑んでいる如何にも雇われバーテンダー然としている徳衛の顔を見た。 「バーテンは趣味でやってるんです」  他に従業員は居ないらしい。案外と広いこの店の切り盛りは大変ではないかと思う。 「一人の方が、何かと気楽なので」  そう応えつつ、徳衛は山岡に穏かな笑みを向ける。 「そちらこそ、この人のお守は大変でしょう?」 「まぁ…そこそこに」  お互い、にやりと笑い合う。それは共犯者の笑み。 「ひでぇな」  拗ねたように睨む篠原に、徳衛が宥めるようにオーダーを訊く。その表情は楽しそうで、本当に篠原の事が好きなのだと感じられた。  とりとめの無い会話しながら時を過ごし、ふと横に目をやると、下準備を終えたのか徳衛はカウンターの端に腰掛けて、大振りのカードを弄っていた。 「随分と古そうなタロットですねぇ」  山岡の声に、徳衛は顔を上げる。 「ええ。親父が昔、イギリス土産に買ってきた物なんですよ。戦災や、何やかやで、今はただ22枚の絵札残ってるきりなんですがね」  そう言いながらカードを切る徳衛の指は、かなり使い慣れた様子だ。  刷られた当初は、いかにも西洋風なきつい色合いだったのだろうが、長い年月を経て、手擦れていかにも占い札に相応しい神秘ささえ漂わせている。 「そのカードでする徳さんの占いは、よく当たるって有名なんだぜ」  そう篠原が会話に入り込んできた。 「ここに来た記念にさ、山岡ちゃんも占ってもらったら?」 「いや…私は」  返事をするより早く、徳衛はカードを切り始めていた。口には出さずとも、篠原が連れてきた山岡に並々ならぬ興味を抱いていたらしい。  まずよく切ったカードを一つにまとめ、裏返しに積む。そして上から1枚づつ返してゆくという、簡単な方法だ。本来のタロット占いがどういうものか知らないが、これはあくまで徳衛の自己流なのだろう。  1枚目のカードには《カンテラをさげた老人》が描かれていた。 「過去と未来。どちらをとるかは貴方次第です」  明るさを抑えた間接照明のせいか、徳衛の顔には奇妙な陰影が付き、まるで別人のように見える。  2枚目のカード《中天に輝く月と2匹の犬。そしてロブスター》 「貴方の身近で進行する、良からぬ企み」  ひくりと山岡の頬が痙攣する。  3枚目のカードは《逆さに吊るされた男》が。4枚目には《愚者》が描かれていた。 「真の自由者、そして死」  導き出される言葉はだんだん比喩的で解りにくくなってゆく。  5枚目のカード《運命の輪》 「運命はひとつ」  ガタン!と、山岡が立ち上がった音が、驚くほど大きく響いた。びっくりした篠原と徳衛が山岡を見ると、彼はこの空調のきいた店の中で、うっすらと額に汗を浮かべ、肩で息をしている。 「山岡ちゃん?」 「あ、あの…私はそろそろ失礼します。では」  もつれる舌ももどかしげに、それだけ言うと、山岡は札を一枚カウンターに置いて、引き止める間も無く足早に店から出て行ってしまった。 「ちぇ…」  篠原がつまらなそうに息を漏らす。一方徳衛は、最後に取った札を手持ち無沙汰にひらひらさせていた。 「何?そのカード」  篠原がカードを覗き込む。 「奇術師」 「意味は?」 「再成…かな」  そう応える声は、珍しく自信無さげだった。 「何、深刻になってんの。遊びでしょ」 「まぁ…それはね」  篠原の言葉に、徳衛ははにかんだ様な気弱な笑みを返した。 「それにしても篠原ちゃん。珍しいね」 「何が?」 「誰かに執着するの。そんなに山岡さんが帰ったのが寂しい?」  意味ありげに微笑む徳衛に、篠原は溜息を吐く。 「ん~…俺、あいつのフルネーム、知らないんだ」 「ええ?」 「歳も知らないし、住んでるところも、家族の有無も、何にも知らない」  一応、仕事用にと支給されたモバイルはあるが、その連絡先のナンバーにかけたところで出てもらえるか怪しいと思っていた。  カウンターに頬杖をつくと、拗ねた子供のように先を続ける。 「結局は仕事上の付き合いだからさ、ファミリー・ネームと、まぁ多分年上…て事ぐらい知ってりゃ支障は無いのかもしれないけど。でも、コンビ組んで大分経つのにさ…」  まだ知らないんだ・・・と、つまらなそうに呟いた。 「訊いてみた事は、あるの?」 「いんや。でも、普通はおいおい判るモンだろ?日頃の会話の中で。いろいろと。でも山岡ちゃん、何かそーゆーのに凄く気をつけてるみたいでさ。まったくもう、ガードが硬くて」 「それで追いかけてるんだ。知りたくて」 「そ。ツレなくされると、燃えちゃうワケよ。俺としては」 「おやおや」  口調は冗談めかしているものの、その表情は切なそうで。徳衛は小さく首を振った。  ほの蒼い照明に沈む店内は静かで、凪いだ水底の様だ。その静けさの中で篠原は、先刻、山岡と会った時の事を思い出していた。  そして。  粋を凝らした建築物が多いオフィス街で、ひときわ目を引いたビル。  山岡が行っていたであろう、ミカド航空の本社ビルの事も――――― - 2 -  そう言えば、グノーシスというのは「知識」とか「認識」を意味するギリシャ語だったな・・・と、不意に山岡は思い出した。  乗務している機が、厚い雨雲を掻き分けるように離陸上昇し、上に出た時だった。  曖昧糢糊とした暗さの中を進むと、見える光。地上はどんなに天候が悪くても、上空に上がってしまえば365日、常に晴天。明るい光と成層圏の濃青色が広がっている。  サングラス越しにそれを見て、山岡は小さく息をつく。  グノーシスの神話では、この世界は創造神の失敗作で不完全さと悪に満ちていると、たしか若い頃に読んだ本に書いてあった。それには、もともと人間は神の子で、この堕落した世界の中で、自己の本質を見失い、眠り込んでいるのだとも。  そこから解放されるには、至高神が光の国から発する啓示者が到来し、人間本来の「神性」を覚醒させなければならないらしい。  ちょうどそれは、深い水底から空を仰ぐような感じだろうか。  重く汚れた身体を捨て、光に導かれるまま息苦しい水底から浮かび上がり、清々しい空気の中へと…  それは確かに、解放かもしれない。  この世には、捨て去りたいしがらみが、数えられないほどあるのだ。    水平飛行に移った機体が安定しオート・パイロットに切り替えると、やっと一息つける。  キャビン・アテンダントが持ってきたコーヒーを飲みながら物思いに耽っていると、視線を感じた。 「何です?」  視線の主がいる機長席に目を向けると、珍しく篠原が口篭っている。 「どうかしましたか?篠原機長」  拗ねているのだと気付いて、つい笑みが漏れる。重ねて名を呼ぶと、やっと愁眉を開いた。 「いや、考え事してたみたいだからさ。山岡ちゃん。邪魔しちゃ悪いかと思って」 「おや。そんなに深刻そうに見えましたか?私」 「おう。眉間にシワぁ寄せてさ。何かこの世の終り…みてぇな顔してたぞ」 「それはまた…」  大袈裟な、と笑う。 「実は、先日連れて行って頂いた、あのバーの事を考えてたんですよ」  山岡の言葉に、篠原が目を丸くする。 「徳さんの?」 「ええ。ろくな挨拶もせずに帰って来てしまって、拙かったな…と」 「ああ…」  その言葉をどう取ったのか、成る程という様に篠原は頷いた。 「また行こう。徳さんも山岡ちゃんの事、気に入ってたみたいだから。喜ぶよ」 「ええ。機会があれば」  山岡はまだ何か言いたそうな篠原に、優しい笑みを返した。  サングラスをかけたまま…。    今回のフライトは、前回と同じコースを飛ぶというモノで、ステイ先も同じだった。 「何か、変わり映えしねぇなぁ」 「何、言ってるんです」  不服そうな篠原と山岡は連れ立って、夜の街を歩いていた。 「だったら、たまにはホテルで静かにしてますか?」 「う~ん…それも嫌だな」  賑やかな事が好きな篠原の足は、結局いつもの店に向かう。 「静かなバーで、ゆっくり酒を味わうのも嫌いじゃないんだけどさ」 「ええ」 「それってある種のタイミングと、相手が必要だと思うワケよ」 「タイミング…ですか?」 「そう。店との間合い?とでも言うのかなぁ。ほら、酒は良いのに、何か楽しくない店ってないか?」 「ああ…有りますねぇ」  少し考えてから、山岡は肯く。 「だろ?だったら多少酒の品揃えは悪くても、いつも陽気に騒げる店に行っちまえ~!と思うワケよ。俺は」  篠原は我が意を得たりとばかりに力説し、山岡の肩を叩いた。  行きつけの店は、すでに半分ぐらいの席が埋まっていた。ざわめきの中から、顔見知りの客が篠原に声をかける。それに挨拶を返しながら、山岡と並んでカウンターに座った。 「宜しいんですか?」 「何が?」  オーダーを取りに来たバーテンダーにテキーラサンライズを注文すると、篠原は不思議そうに山岡の顔を見た。 「あちらの席で、お友達が機長をお待ちのようですよ」  篠原が山岡の示す方を見ると、何人かの常連客たちが大仰な手振りで手招きをしてる。いつも一緒に騒いでいる連中だ。 「へー。今日も来てたんだ、あいつら。いや、別に約束してたワケでも無いしさ。それにたまには山岡ちゃんと飲みたいなぁと思って」  何しろこの間、逃げられたし…と、篠原は笑みを含んだ声で囁いた。 「ははぁ…」  山岡は困ったような笑みを浮かべると、小さく息を吐く。 「今夜は大丈夫ですよ。ちゃんと最後までお付き合いしますから。まずお友達と騒いでいらしては如何です?」  それに…と山岡はわざと人の悪い笑みを浮かべる。 「どうせ最後に貴方を連れて帰るのは、私の役目ですからねぇ」  山岡の言葉に、篠原は大袈裟に顔をしかめると、次いでにやりと笑った。 「さすがに良く判ってらっしゃる。俺のコ・パイ殿は。んじゃお言葉に甘えて、少し騒いできますか!」 「ええ。楽しんでらっしゃい。私はここに居ますから」 「んじゃ、後でな」  篠原の背中を見送って、山岡はバーテンダーにラスティネールを注文する。スコッチの薫香と深いコクが、しばし周りの喧騒を忘れさせた。  『錆びた釘』とは、またエスプリの効いたネーミングだと思う。しかし今の山岡の気分には、ぴったりの名だ。  このまま自分の役目を遂行できるのか、それとも埒も無くぽっきりと折れてしまうのか…そんな今までに感じた事の無い逡巡が、山岡の身の内を侵食しているのだ。  不意に肩を叩かれ顔を上げると、見覚えのある大柄な男が横に立っていた。以前、この店で篠原にしつこく絡んでいた男だ。たしか大手IT企業のブレーンだとか言っていた。 「何か?」 「君に話がある。ちょっと来てくれ」  鷹揚にそう言うと、店の奥へと顎をしゃくる。  だから相手は選ばないと…そう呟きながら、山岡は席を立った。  奥まった通路を抜け、ドアから出ると、そこは細い裏路地だった。表通りのネオンの光が、途切れ途切れに汚れた壁を照らしている。 「それで?何の御用ですか」  先に路地に出た男に問い掛けると、男は判り切った事だ言うように指を鳴らす。その音に応える様に、暗がりから屈強の男が数人現れた。  まったく絵に描いたような舞台設定だなと、山岡の口元に笑みが浮かぶ。それを見咎めた相手の男の顔がますます不機嫌になる。それでもプライドが許さないのか、平静を装っていた。 「君は篠原の何だ?」   やはりあの人絡みかと、知らず溜息が漏れる。 「私とあの人は、職場の同僚ですが」  まぁ嘘ではない。 「恋人では無いのか?」 「違いますよ」  まさか!と言うように鼻で笑う山岡を、男は馬鹿にしたように睨む。 「恋人でも無いのに篠原について来て、私の邪魔をするな」  結局これが言いたかったらしい。予想はしていたが。多分この男は、今までにも、こうやって欲しい物を手に入れてきたのだろう。 「そうは言われましても…現在コンビを組んでいますのでねぇ。あの人に何かあると、職務に影響が出て困るんですよ」  ことさら無関心な態度で応えて肩を竦めると、山岡は店に戻るために踵を返した。 「待ちな!」  野太い声と共に、ドアの前に一人の男が立ちはだかる。見上げるような大男だ。 「おやおや…」  自分を取り囲むように屈強な男たちが近付いてくる足音を聞きながら、ふう…とひとつ、山岡は大きな溜息を吐いた。  路地の壁を染めるネオンの光が、同じパターンを何度か繰り返し、照らしていた。  山岡はその光を眺めながら、スーツの襟を直すと、わずかに乱れた髪を撫で付けた。足元には先程の男たちが呻き声を上げて倒れている。その手元には、割れた酒瓶や大振りのナイフが転がっていた。 「ふうむ…」  手近なナイフを拾い上げると、振り向きざまに投げつける。それは鮮やかな軌跡を描き、壁に縋る様にして逃げようとしていた大柄な男の顔のすぐ横に突き刺さった。 「ひ…ひぃぃ…っ!」  壊れた笛のような声を上げてへたり込もうとする男に山岡は近付くと、襟を持って無理矢理立たせる。そしてその顔を覗きこみ、温和そうに微笑んだ。 「すみませんねぇ。私…今、手加減してあげられる気分じゃ無いんですよ。だから、あまり手間をかけさせないで下さいねぇ」  その優しい口調とは裏腹に、目には射竦める様な光があった。そんな山岡に、男はただただ頷く事を繰り返していた。  何事も無かったように店に戻った山岡が、同じスツールに座ろうとカウンターに手をかけた時。突然後から抱きつかれた。 「うわっ!」  肩越しに見ると、赤い顔をした篠原が睨んでいた。 「何ですか、機長。もう酔ったんですか?」 「山岡ちゃん…」 「はい?」 「捨てられたのかと思った…」  そう呟いて、篠原は山岡にしがみつくように、腕に力を込めた。 「何、馬鹿な事言ってるんです。私はここに居ますよ」 「だって…」  くすんと鼻を鳴らすと、篠原は額を山岡の肩に摺り寄せる。 「山岡ちゃん、俺とコンビ組むの嫌になったんじゃないかと思ってさ」 「どうして、そう思うんです?」 「先日街で会った時。あれ、本社からの帰りだろ?上から何か言われたんじゃないのか?」  一瞬、山岡が身を固くしたのがわかって、篠原は眉を寄せた。 「やっぱり…そうか…」 「違いますよ」  妙にきっぱりと言い切った山岡は、自分に抱きついたままの篠原の腕を軽く叩く。 「機長を連れて帰るのが、私の役目だって言いましたでしょう?」 「うん」 「私は、嘘なんか言いませんから」  安心してくださいと言う様に、もう一度篠原の腕を優しく叩いた。  珍しく早めに帰ると言う篠原に頷いて、山岡は店の外で勘定をしている篠原を待っていた。  煌くネオンが、その横顔を照らす。 「機長…」  見上げれば、地上の彩りに星は見えない。 「私は嘘は言いませんが…」  言ってない事もあるんですよ…と、山岡は暗い夜空を見上げながら呟いた。  バーからステイ先のホテルに帰る道すがら、珍しく篠原の口数は少なかった。  珍しいといえば、自分の足で歩いて帰っている事自体、そうかもしれない。これはこれで、案外気まずいものだなと山岡は思っていた。  いつものように泥酔して絡んできてくれた方が、こちらも遠慮が無くていい。沈黙の時間が、余計な事を考えさせてしまうのだ。  山岡はその立場上、目立たない事を心掛けてきた。人の目を引く行為や、印象に残る事。そんな事をして、何か有った時に自分の存在を言及されては困るからだ。  だから会社の同僚たちの間では、『温厚な万年コ・パイ』という評価になっている。それ以上でもそれ以下でも無い、誰も興味を持たない平凡な人間。それは山岡本人が望んで作り上げた印象だ。  しかし。  何故か篠原だけは、最初から、その作り上げた印象を信じていなかった節がある。  ただでさえ元自衛隊の戦闘機乗りという経歴と、若くして機長になったという事実が人目を引くのに、本人はそれ以上に賑やかで、派手で、印象深い。一度でも篠原に会えば、大方の人間は忘れないだろう。  そんな人間が妙に懐いているとなれば、衆人の注目を集めてしまうのは必至だ。  だからなるべく関わらない様にしていたのに…そう内心、舌打ちする。  今夜、あの店の裏路地であった事は、まず表沙汰になる事は無いだろう。しかし、山岡が見かけどおりの人間では無い事を、知ってしまった者ができたのは確かで、これがどこかで遺恨を残すかもしれない。  そういう不確定な因子は、極力作りたくなかったのだ。 「山岡ちゃん?」  不意に名を呼ばれ、山岡は我に返った。 「はい?」 「何。また考え事?」 「え?いえ…何ですか?機長」 「いや…ここスゴイよ。眉間のシワ」  篠原の指が、山岡の額を軽くつつく。 「そんなに考え込んでると、早く老けちゃうぜ?」  屈託の無い笑顔で自分の顔を覗きこんでくる篠原に、山岡の胸中は複雑だった。 「なんか、やっぱり飲み足りないなぁ…」  山岡の困惑など知らぬ気に、篠原は夜空を見上げて言う。 「なぁ。これから、俺の部屋で飲み直そう」  飲み直すなら、ホテルのバーでも良かったのでは…  そう思いつつ、一旦自分の部屋でラフな服装に着替えた山岡は、篠原の部屋を訪れていた。ルーム・サービスで注文した氷をグラスに入れる。酒は途中のリカー・ショップで何本か買ってきていた。 「フロントの奴。俺が自分で歩いて帰って来たもんだから、驚いてやンの」  けらけらと、篠原は陽気に笑う。 「俺、そんなにいつもヒドイのかなぁ」  たくさんの酒と喧騒に満ちたバーでも、実用性一辺倒のホテルのシングル・ルームでも、篠原の陽気さは変わらない。 「山岡ちゃんも、安心して飲んでくれよ。今夜はもう、俺を担いで帰る必要は無いんだからさ」  そう言って、手にしたグラスに、なみなみと酒を注いだ。 「ありがとうございます」 「またそんな、固い事言う。いくら俺の方が上司だってもさ、山岡ちゃんの方が年上なんだからさぁ。そんなに気ィ遣わないでよ」  立ったままの山岡に、篠原は自分の座るシングル・ベッドの横を示す。 「ごめんなー。シングルだと、ここぐらいしか楽に座れるとこ無くてさ」 「…いえ」  一瞬躊躇したものの、山岡はベッドの端に腰を下ろした。そのままグラスに口をつける。先刻、バーで飲んだ酒と同じ、苦い味がした。  こつん…と山岡の肩に、篠原の頭が乗ってきた。  見ると、篠原は目を閉じて、山岡に身を任せきっている。 「機長?どうされました。お休みなるんなら、横になったほうが…」  篠原の返事は無い。 「機長…」  グラスをワゴンに置いて、篠原の身体を支える。そのまま肩を抱いて、ベッドに横にならせた。  刹那。篠原の両腕が山岡の頸に回り、引き寄せられる。拒む間も無く唇が重なってきた。 「何するんです!」  何とか顔だけを離して問う。身体はまだ、篠原の腕の中だ。 「キス」 「冗談もほどほどに…」 「冗談なんかじゃ無いし、酔っても無い」 「だったら」 「山岡ちゃん、前に言ったじゃないか。素面の時なら…って」 「これが素面でする事ですか?」 「うん」  悪びれもせず頷いて、山岡の髪に指を絡ませ乱してゆく。その感触に酔ってしまいそうになる。 「…いい加減にしないと」 「いい加減にしないと?」  篠原は、山岡の口調を真似して睨み返す。なのにその表情はどこか、強がっている子供のように不安げだ。それに気付いて、山岡は困惑したような声で囁いた。 「痛い目に遭いますよ」 「大丈夫だ。相手は選んでる」  不敵に笑うその唇を、山岡は望みのままに自身のそれで塞いでやる。  これでまた、不確定な因子が増えると知りながら。もう後戻りはできない事もわかっていた。 「そろそろ…潮時なのかもしれませんねぇ」  仄暗い部屋の中。山岡は乱れた髪を片手でかきあげる。傍らには篠原が、安らかな寝息をたて、幼い顔をして眠っていた。  いつものように、その大好きだった髪を弄びながら、山岡は静かな声で呟いた。  黄昏時。デパートの屋上に設営された遊園地には、人影は皆無だ。  最近はあまり、こういう単純な施設は流行らないらしい。もっとも今日は、まるで寒の戻りのような気温で、用も無いのに風当たりの強い屋上には居たくないだろう。 「人目が無いのは結構なんだが…」  篠原は腕時計で時間を確認しながら呟いた。  「人を待たせるなら、もっと快適な場所を選んで欲しいよな」  ぶつぶつと独り言を言いながら、また時計を見る。こうでもしないと落着かないのだ。今回のフライトから帰って来てからこっち、ずっと誰かに監視されているような、そんな気がしていた。 「こんにちは」  小さな声に振り向くと、自販機の陰に三条るいが立っていた。 「また、あんたか…」  篠原はうんざりとしたように肩を竦める。この落着かない状況で、運び屋をアルバイトと豪語する女の子の相手をするのでは、更に疲れる。 「また、とは失礼ね。女性には優しいんじゃないんですの?篠原機長さん」  るいの言葉に、篠原の表情が一気に険しくなる。 「どうして俺の名を?」   今までとはうって変わった厳しい眼で、るいを睨んだ。 「やだ…そんな怖い顔しないでよ。偶然だったんだから」 「偶然?」 「そ、偶然。先週、友人を見送りに成田に行ったのよ。そしたら…」 「ああ…」  篠原は納得したように小さく呻く。 「いろんな航空会社のCAが集ってて、何だろうって思ったの。そしたら、その中心に居たのがあなたで、びっくりしちゃった」  るいはそんな篠原にお構いなく、少し興奮気味に先を続けた。 「パイロットの制服姿が、カッコ良かったわよ、機長さん」 「そりゃどうも」  気の無い返事を返す篠原に、るいはムッとした顔をする。 「何よ。ほめてるのに!空港に居る時と、全然違うのね。態度が」 「まぁね。TPOに合わせてるんでね。さ、もういいだろ?さっさとお仕事を済まそうぜ」 「もう!同僚の人に、そんな態度とったら嫌われちゃうから」 「同僚?」  ふっと篠原の脳裏を、一人の面影がよぎる。 「そうよ。一緒に居た、副機長さん?おヒゲが素敵なオジ様タイプの人。あの人と並んでる姿が素敵だな~と思ったのに」  どうやらるいは、華やかな表の世界の篠原の姿を見て、若い娘らしい興味を持ったらしい。 「あんたには関係無いだろ」  ことさら素っ気無く答えて、篠原は溜息を吐く。その、おヒゲの素敵な副機長さんとは、日本に居る間は連絡が取れなくなっているのだ。フライトの時だけ一緒に居られる、そんな『仕事』だけの付き合いだが、嫌われているとは思わない。そうでなければ、あんな事……  知らず指で、唇をなぞっていた。 「ねぇ」  取り付くしまの無い篠原に、るいはおずおずと声をかける。 「んー?」  篠原も大人げ無かったかと思い直し、投遣りながらも返事を返した。 「あのおヒゲの副機長さんは知ってるの?あなたが、こんな事やってるの?」 「はぁ?なんでそこに、彼が出てくるんだ」 「だって…」  るいは急に口篭った。  当初、山岡とコンビを組めと言われた時。篠原は若い自分が無茶をしないように、年も上のベテランコ・パイをお目付け役に付けたのだと解釈した。それに反発する気持ちあって、ステイ先でわざと羽目を外したりもしたが、今となっては、もうどうでもいい事だ。 「さぁ、もういいだろ?俺に渡すものが有るんじゃないのかな」  そう言うと、篠原は気分を変えるように手を差し出した。 「あ…え、そう。そうね。ゴメンナサイ。これ、預かってきたの」  るいは慌てて肩に下げたバックの中から、何の変哲も無い茶封筒を取り出す。 「この間のお返し」 「はい。たしかに受け取りました」  冗談めかした口調で、篠原が封筒を手にした刹那。  空を引き裂くような銃声と共に封筒が飛び散った。中に入っていた外国紙幣が、その身に焦げ痕のついた穴を空け、折からの風に乗って辺り一面に舞い落ちる。  その中を、篠原はるいを庇うように抱きかかえると、近くのゴミ箱の陰に身を隠した。 「な、何?」 「しっ!黙ってろ」  辺りが夜の帳にすっかり閉ざされた頃、狙撃者の気配は消えていた。  篠原はもう一度辺りを確認すると、漸くるいの手を引いて、ゴミ箱の陰から立たせた。 「もう大丈夫だろ…行っちまったようだ」 「どっちを狙ったのかしらね…」  気丈そうにそう言うものの、るいの語尾は震えている。 「それは…」  と、篠原は口篭る。あれは自分達のどちらかではなく、封筒を狙ったのだという妙な確信が有った。  どこからの狙撃かはわからないが、大方隣接するビルのどれか。そこからこの薄闇の中、手にした封筒のど真ん中をぶち抜くのは、まぐれで出来る芸当では無い。それ程の腕を持った奴が、標的を間違えたとは思えない。  嫌な相手に狙われたな…と、知らず溜息が漏れた。 「何にせよ、早くここを離れた方がいい」  そう言って、さっさと出口の方に向かう。 「あ。ちょっと、篠原さん。待ってよ」 「バイバイ、お嬢ちゃん。早くおうちにお帰り。ママが心配してるよ」  追いかけて来ようとするるいに手を振って、篠原は素早い動きで、階下へと階段を降りた。  先程までずっと感じていた視線を、今は何処にも察知する事ができなかった。 - 3 -  蒼い水底に人魚の影が躍る。  BAR『グノーシス』の店内の雰囲気に、そんな幻影が見える気がした。  前に来た時の失礼を詫びようと山岡がここを訪れたのは、フライトから帰ってから暫くたっていた。  篠原に連絡を取ろうかとも思った。一応、仕事時の連絡用にと、専用のモバイルが支給されている。  それでも結局一人で来てしまったのは、いろいろと屈託があるからだ。  山岡は己の神経の太さには自信が有るつもりだったが、こと篠原が絡むとそれも怪しくなってくる。そんな自分に苛立ちを感じ始めていたせいもあった。  この店の入り口は、見過ごしてしまいそうなほど判りにくい所にあるのに、天窓は結構な大通りに面しているらしい。時折射し込む車のライトが道行く人の影に遮られ、店内の青味を帯びた光を撹乱しながら散ってゆく。その様がまるで、泡となって消えた人魚のように感じられて、知らず溜息を吐いた。 「心配事ですか?」 「…え?」  不意に声を掛けられ、顔を上げる。  雪のように白い髪のバーテンダーが微笑みながら、こちらを見ていた。  そういえばここはバーだったな…と今更ながら思う。今までその存在を忘れていたほど、徳衛は気配を感じさせなかったのだ。 「思ったより、お飲みになるんですねぇ。山岡さんは」  空になったグラスを下げ、次のオーダーは?と言う様に首を傾げる。 「強いの、お作りしましょうか?」 「お願いします」  山岡はなげやりに呟くと、カウンターに頬杖をついて、天窓をぼんやりと見上げた。  きらきらと泡になって堕ちてゆく人魚…蒼い水底は仄暗く静かで、何も動かない。気がつけば、疎らに居た客は皆帰ったのか、残っているのは自分だけのようだ。頭に靄がかかったように、何も考えられなくなる。   微かな音に我に返ると、グラスを置いた徳衛と目が合った。 「ドライ マンハッタンです。お口に合いますかどうか」 「どうも…」  御座なりに礼を言って、その琥珀色のグラスの中身を口に含む。アロマチックビターのほろ苦さと、ドライベルモットの刺激が口の中に広がり、目が覚めるようだ。 「ああ…美味しいです」 「それは、どうも」  ありがとうございますと微笑んで、徳衛は両肘をカウンターについて、山岡の顔を覗きこんだ。 「何か見えましたか?」 「え?」 「天窓。ずっと見てらしたでしょう?」  ほら…と目で示す。 「ああ…」  山岡も目をやり、小さく笑う。 「人魚が…人魚が泡になって消えてゆくのが見えたような気がして」 「人魚が泡に…ですかぁ。アンデルセンの人魚姫ですね」 「可笑しな話ですが…」 「そんな事、ありませんよ」  徳衛は莞爾と笑った。 「私、実は人魚姫が好きでしてねぇ。この店を造る時に、ある程度、彼女をイメージしてたんですよ」 「人魚姫…ですか」 「ええ。人魚姫です。あの、恋のために声を失い、その恋のために最後には泡となって消えてしまった…」  そう言いながら、徳衛は少し照れたような笑みを浮かべる。 「私はねぇ、彼女の強さに憧れてるんですよ」 「強さに?」 「そう。あの思い込んだら一直線…と言いますかねぇ。周りの意見に左右されず、自分の好奇心の赴くまま行く強さに、です。その過程で失うものがあっても、結末がバッドエンドでも、彼女は潔かった」  それに憧れてるんですよ、と言い切った。 「好奇心だったんですか?人魚姫を陸に上げたのは」 「そうだと思いますよ。きっと彼女は仄昏い海の底から、きらきらと光る海面を、いつも見ていたんだと思います」  海の底での生活は平和で静かではあったろうが、ただそれだけで。  あの煌く海面の上には、きっと何か楽しいことが自分を待っていると、そう思ったのかもしれない。船上の王子様を見初めて恋に堕ちたのは、平坦な毎日から逃れるためのきっかけに過ぎなかったのだろうか。 「新説ですね」 「お恥ずかしいです」  山岡の言葉に、徳衛ははにかんだ様に笑った。 「でもねぇ…」  と、徳衛は続ける。 「彼女の様に生きられたら、幸せだと思いますよ。もっとも周りの者は気が気じゃないでしょうがねぇ。でもそれ故に、彼女は魅力的だったと思いますよ」  ああ…そういえば…と山岡も物語を思い出す。 「姉達も彼女を元の姿に戻すために、自分達の髪と引き換えに魔法の剣を貰って来ましたっけ」 「そうなんですよ。大事な髪を手放してまで助けに来たのに…まぁ、他人の忠告を聞く耳を持ってたら、最初から陸には上がりませんよ。人魚姫も」 「だから、その決着を自分でつけた、と?」 「たぶん」  一度刺激に満ちた世界を知ってしまったら、もう戻れないのだろう。平穏ではあるが、退屈な毎日に。 「だから彼女は、恋に殉じて泡になる方を選んだじゃないでしょうか」  沸き立つ心を深く沈めて生きるのは、死ぬよりも辛いのだと――――  不意に黙った二人は、それぞれに深い溜息を吐いた。  入り口の方で聞こえた音に、二人は夢から覚めたように瞬きした。  徳衛が怪訝そうに入り口に近付くと、ドアが開いて男が一人入ってきた。足元がかなり怪しい。 「篠原ちゃん…」 「こんばんは。徳さん」  口調はいつも様に陽気だが、声には力が無い。 「何?階段、踏み外した?」 「まぁね。ちょっと…」  篠原は急に身を固くして黙ると、店内を凝視する。視線の先を追うと、そこにはカウンターに座る山岡が居た。 「山岡…!」  一瞬。空気が帯電して火花が散ったような気がして、徳衛は二人の顔を交互に見る。 「ああ、山岡さん?今日は宵の口から来てくれてて。篠原ちゃんも、もっと早く来れば良かったのに」 「宵の口から…ずっとここに?」 「そう。彼、見かけによらず酒豪で、驚きましたね」  徳衛の言葉に、篠原の身体から力が抜ける。 「そっか…」 「機長!」  篠原は、山岡の叫び声に嬉しそうな顔をして、その場に崩れ落ちた。 「篠原ちゃん!?どうしたの?大丈夫?」  慌てて駆けつけた山岡は、屈んで篠原の口元に鼻を寄せる徳衛の様子を覗き込む。 「大丈夫ですか?機長は」 「う~ん…これは、だいぶ飲んでるようですけど…」 「ええ?」 「それ以上に、疲れてるみたいで」  寝てますよ。と徳衛は溜息を吐いた。  奥に休憩用の部屋があるからと、山岡と徳衛は眠っている篠原を運ぶ。その部屋のベッドに篠原を寝かせると、徳衛は山岡に後を任せて店に戻っていった。  篠原の呼吸が安定しているのを確認して、山岡は安堵の息を吐く。何しろ、篠原の様子は尋常ではない。  いつもお洒落に気を配っているはずの篠原の服は、あちこちがほつれ汚れていた。更に手の甲には殴り合いをしたような痕がある。足も痛めているらしく、服の上からではわからないが、多分他にも怪我をしているはずだ。 「機長…」  山岡は眠る篠原を見下ろし、小声で囁く。 「私では、あなたを止められませんか?どうして私に助けを求めてはくれないんですか?このままじゃ、あなたは…」  続く言葉を飲み込んで、天を仰ぐ。  きらきらと光が揺らめく、海面が見えたような気がした。  山岡が店に戻り、そのまま帰る旨を告げると、徳衛はカウンターに座るように手招きした。 「何です?」  怪訝そうに再び座った山岡の前に、私の奢りですよ、と背の高いグラスが置かれる。深いブルーの酒の中、底に沈んだレッドチェリーから、細かい泡がはじけて昇っていた。 「これは…」 「うちのオリジナル・カクテル。マーメイド・ハートです」  泡となった人魚姫の無垢な心は、天使が受け止めて神様の許へと…  物語のそんなラストを思い出す。 「無垢といえば無垢だったんでしょうけどねぇ…」  徳衛は複雑な笑みを浮かべて、奥の部屋の方を見る。 「周りは結構、振り回されますよ」 「はぁ…」 「篠原ちゃんもねぇ…」  そう言って溜息を吐いたきり、徳衛は黙ってしまった。 「機長が、どうかしたんですか?」  恐る恐る訊く山岡に、徳衛は困ったような笑みを向ける。 「一緒にお仕事している山岡さんなら、気付いてるでしょう?篠原ちゃん、トラブルに遭いやすいのを」 「ああ…」  それは思い当たる節が有り過ぎるぐらいだと、山岡は肩を落とす。 「特に何て言うか…色恋沙汰が多くてねぇ。ここでも常連客同士がもめたりして」 「そうなんですか…」  ステイ先でも、まま有る事だとは言えなかった。 「ところで山岡さんは、男の色気ってどんな物だと思います?」  突然の違う事を訊かれて、山岡は怪訝そうな顔をしたのだろう。徳衛が済まなそうに笑う。 「ああ、すみません。変な事、訊いて。実は前にある歌手の方が言ってたんですがね」  色気と言うのは、口説けば落ちると思わせてしまう風情だと。  徳衛は、それが篠原に在るという。 「機長に・・・ですか?」 「ええ。それはもう、本人の意思に関係なくね。だから篠原ちゃん、口説かれる事は有っても、口説く事はあまり無かったんじゃないかと」  そう言って徳衛は、山岡の顔を見て意味ありげ笑った。  結局、青いカクテルに手をつけないまま山岡が帰った後、徳衛が店を閉めると、篠原が奥の部屋から出てきた。 「人が悪いなぁ。徳さんも」  山岡ちゃんをあまり苛めないでよ。と言いながらカウンターに座る。 「何言ってるの。ずーっと貴方を待ってただろうに。それをワザと避けるような事して」 「うん。悪い事したと思ってる」  篠原はカウンターに頬杖をつくと、大きな溜息を吐いた。 「何?」 「泣いてた…」 「ええ?」 「ずっと上向いてて。そのまま涙だけが頬を伝って来るのが見えた…」 「それはまた…ショック?」 「かなり」  「そう思うんなら、もう止めたら。危険な事してるのは解ってるんでしょ?こんなに怪我までして」  溜息混じりの徳衛の声に、篠原の唇の端が微かに上がった。 「山岡が宵の口からここに居たんだとしたら…」  くぐもった篠原の声に嬉しそうな音を感じて、徳衛は不思議に思う。 「居ましたよ、彼は。ずっと」 「だったら今夜、俺を殺そうとしたのは山岡ちゃんじゃ無い…」 「あの人まで疑ってるんだ」 「うん。多分、一番危険なのはアイツだよ」 「あなたのために泣く人が?」  呆れたような徳衛の声に、篠原は小さく笑う。 「アイツにだったら、今までのツケを払ってもいいかもね…」  妙に晴れ晴れとした声だった。 - 4 -  三条るいから急な呼び出しが有ったのは、篠原が会社に休暇届を出した日だった。  大概のアクシデントは巧く処理してきた篠原だが、さすがに今の精神状態と体調では、三百人からの乗客の命を預かる事には不安がある。その辺、軽薄そうに見えても、パイロットという職務に対しては常に真摯な気持ちで臨んでいた。  るいからの呼び出しが何を意味するのか、それは判らない。しかし、これが最後になるだろうという予感があった。多分、機は熟したというヤツだろう。  そんな事を考えながら、篠原はチェストの引き出しを開けた。  中には、意外なほど整然と並べられた小物と共に、一つの平たい木箱があった。 「単なるコレクションのつもりだったんだがな…」  溜息混じりに呟きながら、箱を出して蓋を開ける。小型の銃が光を弾いた。  センチニアルM40。1952年、S&W社創立百周年を記念して作られた銃。外国映画などでよく観る、私服刑事たちが携帯しているM36チーフスペシャルと同じく、小型軽量で、38スペシャル弾5発を装填できる。  面白いのは、ハンマーがフレームにすっぽりと内臓されて見えない事だ。これなら上着の裾やポケットにハンマーが引っ掛かって、動作が遅れるという事は無いだろう。  これは以前、海外で知り合った友人から贈られた物だ。  銃の収集家である彼にコレクションを見せて貰った時、その変わった形状が目について、興味を持った。そう告げると、彼はすぐさま譲ってくれたのだ。  その時の彼の助言に従って、折に触れ手入れはしている。しかし日本では撃つ機会など有る筈も無く、調整に自信は無い。第一、銃に関しては素人なのだ。 「ま…お守り代わりって事で」  弾を装填し、構えてみる。細身のグリップが思ったより手に馴染む。 「ふうん…」  感嘆の息を吐き、その時一緒に贈られたホルスターも出してみる。  ビアンキのモデル9R1アップサイドダウン・ショルダーとか言っていたのを思い出す。二枚貝のようにスプリングで銃を締め付けて固定するから、いちいちストラップを外す手間が無くていいんだ…とも。   その時は聞き流していたものが、今こうして現実になるとは―――――  ショルダー・ハーネスで肩から吊るすと、銃が脇にあっても違和感はあまり無い。これで上着を着れば目立たないだろう。しかし何となく違うような気がして、篠原はホルスターを取った。 「何だかなぁ…」  自分には合わない気がするのだ。銃とか、そういった武器の類が。スポーツとしてなら、または単に訓練としてなら全く構わない。でも合わせた照準の先に人が居るとなると、話は別だ。  この期に及んで、まだそんな事を…と篠原は自嘲する。やはり自分はアマチュアなのだろう。  暫く迷った末、ショルダー・ハーネスを外してヒップホルスターにした。  カジュアルなジーンズの上に長めのレザー・ジャケットを羽織ると、篠原は、今一度懐かしそうに部屋の中を見回して、出て行った。  指定された場所は、港の近く。  バブルの頃に相次いで建てられた箱物の一つで、今は営業してない劇場だった。一応「敷地内立ち入り禁止」の表示はあるが、それに構わず裏手に周ると搬入口が細く開いていた。  オペラ座を模したと言われるこの劇場の内装は、やたら豪華で古色蒼然とした造りだ。再開発の計画も出ているらしいが、今はまだ、破れ落ちた緞帳などがそのまま残されていた。元が豪華なだけに、余計凄まじく感じられる。その舞台の上に、華奢な人影があった。  薄ぼんやりとした灯の中に、るいの姿が浮かびあがる。  ヒューッ!と篠原は意外そうに口笛を吹いた。  今日の連絡も決められた方法で届いたものだったが、当のるいは居ないだろうと思っていたのだ。 「篠原さん」 「これはこれは。思ったより、凄まじいな。この荒れぐあい…ホコリだらけだ」  篠原は下手の階段から舞台に上がると、中央辺りに立つるいに向かって肩を竦める。 「何言ってるのよ!自分で選んだくせに」 「俺が?」  その時、何の前触れもなく劇場内の灯が点いた。 「危ない!」  るいの悲鳴と共に、篠原の上にライトが落ちてくる。咄嗟の判断でダッシュしてかわすと、そのままるいの身体を抱えて、舞台のソデに駆け込んだ。 「な、何?何が有ったの?」 「しっ!」  篠原はるいの口を手で塞ぐと、緞帳の陰から辺りを窺った。 「いいか。黙って聞けよ」  抱いたまま、小声で囁く。 「どうやら罠にはまったらしい。何者か知らんが、俺が引きつけておくから、あんたは逃げろ」  篠原の言葉に、るいの目が大きく瞠られる。それに笑いかけて、篠原は先を続けた。 「俺が客席側に飛び降れば、後を追ってくるはずだ。そいつらを隠れて遣り過ごすんだ。なるべく派手に音をたてるから、それとは反対側に行け!出口は判ってるな」  るいは首を横に振りながら、篠原の身体にしがみつく。 「頼むよ、お嬢ちゃん。あんた抱えてちゃあ、万に一つも勝ち目が無ェんだよ」  俺はそんなスーパーマンじゃない…と篠原は呟いた。  涙に濡れた目で見上げてくるるいの口から手を離すと、その額に軽くキスする。 「じゃあな!」  そのまま緞帳の陰から飛び出した。  舞台から転げ落ちるようにして、客席の陰に走り込む。屈んだままヒップホルスターから銃を抜くと、勘を頼りに1発撃つ。途端に5発の銃声が返ってきた。 「5人もかよ…ひでぇな」  どこか楽しんでいるような口調で呟いて、篠原は移動を始める。それにつられて動く気配を感じる。とにかく今は、るいが逃げる時間を稼ぎたかった。  ホールに出た途端、銃声が響き、篠原のレザー・ジャケットに穴がふたつ空く。しかしそれはジャケットだけで、篠原の姿は無い。舌打ちする狙撃者の一瞬の隙をついて、篠原はホールへ飛び出すと発砲した。  相手は2人。致命傷では無いにしろ、動けないぐらいの傷は負わせた。取り落とした銃を、手の届かない所まで蹴飛ばし、すぐに物陰に潜む。  こめかみの辺りに生暖かい物が流れるのが判り、無造作に手の甲で拭う。見ると赤く汚れている。 「チッ!」  相手の弾がどこかを掠ったらしい。そういえば髪の焦げる匂いがしていた。  さて、問題は…と篠原は気を取り直す。  残りは3人。しかし手持ちの弾は後2発しかない。  相手の銃を奪う事も考え無いでもないが、気が進まなかった。所詮アマチュア、そんなに射撃精度は良くない。それより接近戦に持ち込んで、銃以外の方法で戦いたかった。  そんな篠原の思考を断ち切るように、舞台の方から銃声と、悲鳴が聞こえた。 「ンの馬鹿ッ!」  考えるより先に身体が動いていた。  客席中央のスロープを一気に走り抜ける。足元を掠める銃弾は上からの様だ。2階の桟敷席に人影が動くのを目の端に捕らえた途端、左の腿に焼け火箸を突き刺したような激痛が走った。  そのまま転げて舞台の壁に背中からぶつかった。泣きながらるいが駆け寄ってくる。 「馬鹿!来るな!!」  叫びながら、桟敷席に向かって撃つ。それと同時に右肩に激痛が走り、銃を取り落とした。  どさり!という鈍い音に遠退きそうな意識が戻る。サイドの客席の椅子の上に男が一人、転落していた。 「え…?」  続いて別の桟敷からも男が転落してきた。 「何?どうしたの…」  身動きできない篠原に、るいがしがみつく。 「わからん…でも…」  舞台に近い『非常口』と表示のあるドアが開いて、銃を構えた男がゆっくりと歩いてくる。篠原が落とした銃を左手で拾い構え様とした時、その男は糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちた。  後はただ、痛いほどの静寂。 「そこか!」  篠原が左手で銃を向けた瞬間、銃が弾き飛ばされた。 「―――- やっぱりお前か…」  そう言う篠原の声は、どこか嬉しそうで。  相変わらずしがみ付いているるいが、怪訝そうな顔をして篠原の視線を追う。その先には、先程の男が入ってきたドア。それに架かるカーテンの隙間には、細く硝煙が上がる銃を持った人影があった。 「…あなたは…」  るいが息を飲む。 「篠原さんの…副機長さん…」  カーテンの陰から現れた山岡は、何も応えない。ただ静かな表情で篠原を見ていた。 「これって会社の命令?」  篠原は意を決したように、倒れている男たちを顎で示して訊ねる。 「いいえ。違います。この者たちは別口です。大方、そちらのお嬢さんの関係じゃないですか?」  山岡は銃を構えたまま、殊更冷たく言い放つ。 「あなたの処理は、私に一任されてますから」 「そっか…」  篠原は小さく笑うと、息を吐いた。 「殺るのか。俺を…」  その時、るいの悲鳴のような声が二人の間に割り込んだ。 「あなたも篠原さんを殺しに来たの!?何故?何故、あなたが!」 「…よせ!」  今にも山岡に掴み掛かって行きそうなるいを、篠原は止めようとした。しかし出血のためか、身体が思うように動かない。霞む意識の中で、るいの声を聞いていた。 「だってあなた空港で、篠原さんの事、ずっと見てたじゃない!すっごく優しい目で。その顔がとても幸せそうで、私、羨ましかったのに!!どうして…!」 「それが、私の…仕事ですから」  感情を欠片も感じさせない声で、山岡が応える。 「酷い…!」  震える声で呟いたるいは、がっくりと膝を落とす。 「お嬢さんも同じ世界に居るんですよ。嫌なら、早く去りなさい」  その方が手間が省ける・・・と、山岡は冷たい声で宣言した。 「早く行きな・・・」  篠原が苦しい息の下から呟く。とにかく早く、るいをこの場から去らせたかった。  山岡が危害を加えるとか、そんな考えは毛ほども浮かばなかった。ただ、これ以上、山岡に負い目を負わせたくは無かったのだ。 「でも…」  傍らに座り顔を覗きこんでいる、るいの涙で汚れた頬に手を添える。 「いいから…」  いつかは、こうなる…て判ってたんだ…と篠原は笑う。 「アンタも、もう止めなよ…アルバイトなんかさぁ」  しゃくり上げて何も言えないるいの唇に、そっとキスをしてやる。 「バイバイ…」  まだ躊躇しているるいの耳に金属音が聞こえ、二人の間を切り離すように、篠原の眉間に銃口が向けられた。  るいは「さよなら」と囁くと、逃げるように立ち去った。  どこか遠くで、船の汽笛が聞こえた様な気がした。    篠原の眉間に向けた山岡の銃口は、微動だにしない。  それでいて意識は、別の所にあるらしい。去って行くるいの気配を探っているのだろう。  不意に緊張が緩んで、銃口が下がる。息を吐くと、そのまま銃を懐のホルスターに納めた。 「大丈夫ですか?」  ようやく山岡は心配そうな表情をして、篠原の傍らに屈んだ。 「肩に受けた弾が、動脈を傷つけてます。止血しないと…」  言われるまでもなく、篠原の着ている白いシャツは、すでに真っ赤だった。腿からの出血も止まらず、床に黒々とした血溜りが出来始めていた。  肩に手をかけようとする山岡の手を、篠原は掴まえて強く握る。 「無駄な事はやめようぜ。あんたの仕事は、そんな事じゃないだろう?」 「機長…」   困ったような、そのいつもの口調に、篠原は嬉しそうに笑う。 「デパートの屋上での狙撃。あれもあんたの仕業だろ?」 「ええ」  やっぱりね…と篠原は溜息を吐いた。 「いつ…気付きました?私だと」  山岡の問いに、篠原は目を細め遠くを見る。 「そう…だなぁ。やっぱり、あのハイジャックの時…かなぁ?銃の扱いが尋常じゃ無かったから。ああ、こいつはプロなんだなって…」  だからさ…と篠原は山岡の顔を見て笑いかけた。 「俺が始末されるんなら、それは山岡ちゃんになんだ…て漠然と思った。そしたらなんか安心してさ。変な話だけど」 「馬鹿な事、言わないで下さい!」 「うん。ごめん」  素直に謝った篠原は、握り締めていた山岡の手を放す。 「でも、あのデパートでの時。封筒じゃ無くて俺の頭を撃っておけば、こんな面倒無かったのに」  さらりと物騒な事を言う篠原に、山岡は眉を寄せた。 「あれは私なりの警告のだったんですが…」 「警告?」 「ええ。危険が迫っていると。それであなたが警戒して派手な動きを抑えてくれれば、少しは時間が稼げるかと思ったんですがねぇ」 「時間を稼ぐって…何のために?」 「・・・会社の上層部を説得するために。ですよ」 「え…?」  意味が判らないという様子の篠原に、山岡は溜息を吐く。 「あなたは目立ちすぎるんですよ。お陰で複数の組織に目を付けられてます。それで会社としては、他所に行かれるぐらいなら消してしまえと。でもそれじゃあまりに性急過ぎるでしょう?」 「え…いや、俺はそんな事、全然知らないぞ。別にそんな接触も無かったし…」 「何か組織同士で牽制しあってたようですねぇ。何しろあなたは優秀ですが、リスクも大きい」  にやりと、山岡は意地の悪い笑みを浮かべる。 「しかし私としては、これからもずっと、機長とご一緒したかったので。その辺を会社に判ってもらおうと思いましてね」 「………」  まさか山岡が自分のために、水面下でそんな動きをしていようとは。思いも寄らない事を聞かされて、篠原は言葉を失った。 「私、これまであまり、会社に対して我儘言った事が無いんですよ。ですから、ある程度は聞き入れてもらえる筈だったんですが・・・」  山岡は急に口篭る。 「いろいろと遅すぎたようです。その結果、こんな事になってしまって…」  済みませんと頭を下げる山岡に、篠原は小さく頷いた。  どうやら自分の知らない所で、いろいろと何かが動いていたらしい。押並べて、人生なんてそんな物かもしれない。それでもそこに、自分の事を考えていてくれた者が居てくれた事が嬉しかった。 「ごめん…」  篠原はそれだけ言うと、辺りを見回す。 「何です?」 「俺の銃…どこいった?友人からの贈り物なんだ」 「え?ああ…ここに」  銃を拾った山岡が顔を上げると、篠原は自分の体重が支えきれずに床にへたり込んでいた。 「機長!」  肩を抱いて、上半身を支えてやる。すでにその顔色は血の気を失って、蝋のような白さだ。少しでも楽な姿勢をと、篠原の頭を自分の肩に乗せた山岡のスーツが、みるみる血に染まっていった。 「しっかりしてください!」  山岡の声に、何故か篠原が小さく笑う。 「え・・・?」 「山岡…ちゃんの、匂いがする…」 「なにを…」 「いつも、俺が酔っ払って帰る時…肩貸してくれるだろ?そん時、いつも同じ匂いがして…それで俺は、すごく安心する…山岡ちゃんが居るから大丈夫…て」 「機長…」 「これでもう、いつ眠っちまってもいいんだ…て。だから、今日も…安心して眠れるよ…」 「何、言ってるんですか…!」  言葉と共に抱く手に力を込める。すると篠原の腕が山岡の頸に絡みつき、耳元で途切れ途切れに囁いた。 「ごめん…山岡ちゃん。最後まで面倒かけて、ごめん…でも、嬉しかったよ…最期に会…えて」 「機長!」 「もっと一緒に…飛びたかった…な…」 「私もです!だから…」  血と涙で汚れた顔が、ふんわりと笑う。それは本当に幸福そうな笑みだった。  その笑みを浮かべたまま、篠原の唇が何か言葉を形作る。 「何ですか?聞こえませんよ、機長」  必死に呼びかける山岡の問いに、応えは無かった。 -エピローグ-  季節は初夏になっていた。  陽光が眩しい。それはこの外人墓地にも、変わりなく降り注いでいる。  それ故、死者を悼む墓碑の冷たさが、余計に辛く感じるのかもしれない。  木々の葉の緑も深く、その陰に天使の姿をした像がいくつか点在していた。  それに眩しそうに目を遣りながら、山岡はゆっくりと歩いていた。その手には少々不釣合いな、真紅の薔薇の花束を携えている。  死の天使は、近付いてくる時は恐ろしいが、来てしまえは最大の恵みだという。『死』が救いになるのなら、ここに眠る者たちは幸せなのだろうか…  そんな事を考えながら、ふと顔を上げ、立ち止まる。自分の目的の場所に、先客が居たのだ。  見覚えのあるその姿に、山岡は小さく微苦笑を浮かべる。立っていたのは、三条るいだった。 「いらしてたんですか…」  相変わらずの静かな口調で訊く山岡に、るいは応えない。ただ目の前の墓碑を凝視しているだけだ。  墓碑に刻まれた名は『YUICHIRO SHINOHARA』。  あの後、るいにここを知らせたのは、ある種の警告の意味もあったからだ。二度と危険な『アルバイト』に足を突っ込まないように、と。  それは篠原の意思でもあったはずだ。  何も言わないるいに、山岡は寂しげな笑みを浮かべると、持参した薔薇の花束を静かに墓碑の上に置いた。 「血ね・・・」  るいが呟く。 「あの日、篠原さんが流してた、血の色よ。その薔薇…!私、一生忘れない。あんなに幸せそうに見ていた人を殺せるなんて!」  そう言うやいなや、るいはその薔薇の花束を掴むと、山岡の頬を思いっきり打った。  陽光の中、緑の芝と白い墓石に真紅の薔薇の花弁が散り、まるで白昼夢のように美しかった。薔薇の棘で擦ったのか、山岡の頬に一筋の血が滴る。 「悪い冗談ね…あなたにも、赤い血が流れてるなんて」  そう吐き捨てるように言うと、るいは激情を抑えきれぬ様子で走り去って行った。  山岡は血を拭おうともせず、ただ真紅の花弁が散った墓碑を見詰めていた。 「教えてやれば、いいのに」  不意に背後から声がかかる。肩越しに見ると、長身の男が一人、木の陰から出てくるところだった。  目深に帽子を被るその男に最初から気付いていたのか、山岡は特に驚きもせず溜息を吐く。 「とんでもない。あなたが生きてるなんて知ったら、あのお嬢さん、また何をしでかすか。素人に銃を向ける恐ろしさを、機長はご存知ないんですよ…」  山岡は――他人事だと思って――と言わんばかりに、その男、篠原を睨んだ。 「すまん」  「い、いえ。そんなつもりで言ったんじゃ」  真顔で頭を下げる篠原に、山岡の方がうろたえ気味に押し止める。 「冗談だよ」  そう言って悪戯っぽく笑う顔は、少しも変わっていない。 「機長~!」 「俺はもう、機長じゃないぜ」  笑みを口の端だけに残して、篠原は言う。 「篠原という名前ですら無い。篠原雄一朗というパイロットだった男は、そこに眠ってるよ」  そうだろう?と言うように、山岡を見た。 「ええ…」  山岡は小さく頷いた後、帽子を目深に被った男の顔を真正面から見詰め返す。 「…それでも」  初夏の風が、また真紅の花弁を揺らし、舞い上げる。 「私にとっての機長は、あなただけ…なんですよ」 「………ずるいな」  見合わせた表情が、どちらからとも無く和んだ。 「今夜の予定は?山岡ちゃん」 「特には」 「なら、飲みに行こう。付き合ってくれるかな?」 「喜んで。機長」    並んで歩き出し、山岡はふと目を上げる。  木々の陰の天使の手に、ハート型の真紅の花弁が乗っていた。  その顔は、微笑んでいるように見えた。       -終-
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