3章 計画

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スマホで時刻を確認すれば、20時50分だった。 今日のバイトはいつもより終わるのが遅かった。 というのも帰り際、私服に着替えタイムカードを切ろうとしたまさにその時、僕を嫌ってくるパートのおばさんに作業台の不始末を指摘され、それをやるためもう一度着替えてやり直したためである。 なんとなくバイトをいい加減にやっていたところも正直ある。 多分あのおばさんは僕みたいな人を許せない人なのだと思う。でも僕は学生だしそもそもバイトにクオリティを求めるのもおかしい話だ。 でも、所詮バイトでもお金を貰っているから当然責任があるわけだし、そこを指摘されれば何も言い返せない。 とかなんとかあって、とりあえず疲れたが行くしかない。 変な高揚感と足取りの重さが反比例して階段を登り外にでる。 西谷駅は相変らず閑散としていた。 昨日の雨が、どことなくしみ込んだアスファルトの匂いがする。 今日はバス停にバスを待つサラリーマンの列は見えない。 Googleマップで彼女の家を確認する。 ここをまっすぐ行ってどうやら少しだけ歩くみたいだ。 僕は地図をチラチラ見ながら歩き始めた。 バス停を抜け大きな一本道を歩く。 先週見た、ツタが好き放題伸びている家を抜ける。 汚い。あの家、本当に人は住んでいるのだろうか。もう一回ちらっと見ると人の気配はなかった。車もないっぽいし、住んでいないのかもしれない。 また歩きながらスマホを見た。 どうやら向かいの信号機を右に抜けたところが彼女の家みたいだった。 虫がじーじー鳴いている。 そういえば、スマホの充電は大丈夫だったか。 …62%。まあ、大丈夫か。 …。 …。 向かいのビルを右に抜ける。 灰色や薄赤色のアパートがポツンポツンと広がる場所にきた。 横の駐車場、駐輪所を抜け1号と描かれたアパートについた。 ピンはまさに僕の目の前を指している。 アパート内に入り階段を登る。5階…なら見た感じ、多分最上階である。当然エレベーターはない。 息が切れる。苦しい。 だいぶ体力が落ちている。 中学の時は陸上部に所属していたためそれなりに体力はあった。部活は自分なりに頑張った。しかし、代表選手には1度も選ばれることはなく3年の最後の陸上大会では結局補欠として、代表選手のサポートに回った。 2年近くまともにスポーツをやっていないと、こういう事になる。というか高校も、もしかしたら楽しいかもしれないということでテニス部に所属してみたが、蓋を空けたら人間関係が最悪だった。 陸上部に所属すれば良かった。 はあ。やっと5階についた。 表札には三上と書かれている。 多分逆だ。 しかし逆側に行くと、表札は鳥谷と書かれている。 どういうことだ。間違ったのかもしれない。 しかしスマホを見て確認しても確かにこの場所であっている。 しかも住所的には、三上と書かれた表札の場所だ。 ということは…つまり離婚か何かだろうか。訳あって椎木という名前を使っているのか。 色々考えても仕方ない。三上と書かれた表札のインターフォンを鳴らした。 少し緊張する。 …応答がない。 いきなりガチャっという音がした。 「あれー遅くない?」 ドアノブを掴んだ姿勢で彼女はこっちを見ながら笑っている。 二重瞼の大きな目が吸い込むように僕を見た。 「一応バイトが長引いて」 「そっかそっか。お疲れ様。さあようこそ我が家へー」 「…お邪魔します」 「ちょっとリビングは散らかってて恥ずかしいから見ないでねー。」 「曲がって右!私の部屋にいてー。適当に座ってて。お茶とお菓子持ってくる」 まさにアパートといったこじんまりした閉塞感がある。 中学の時、クラスメイトの家に行って感じたその家独特の匂いを久しぶりに思い出した。彼女の家もまた特有の匂いがする。若干香水の匂いが強いような、そんな感じ。 すぐ横の靴入れの茶色の棚の上には、大きな鍵輪が置いてあったり、スマホの充電器や柔軟剤が乱雑に置いてあり、スノードームの置物的な何かが一応飾ってあったりする。 靴を整え室内に入る。 スパンコールやらでデコレーションされた木の板に、なつみと書かれたものがドアラックにぶら下がっている。 さっきから変にずっと緊張している。落ち着く。 「入っていいんだよね?」 近所に配慮しながら少し大きな声を出して、向こうにいる彼女に確認する。 リビングは一応見るなと言われたから目線はなんとなく伏した。 奥の方からいいよーと聞こえた。 失礼します、と一人でに呟いてドアを空けた。 6畳ぐらいの彼女の部屋は、案外広さを感じた。 まず真ん中に木の小さな丸テーブルが置いてある。 右には小学生の時から使っているであろう勉強机があり、上にはサボテン的な何かの観葉植物がある。左にはベッドが部屋の割合を大きく占めている。ベッド横の戸棚には教科書やら本屋らがまぁまぁ置いてあり中央のクローゼット扉は閉まっている。 統一感があって普通に綺麗だった。というのも不登校故になんとなく部屋も汚いのではないかという先入観があった。 行ったこともないけど、なんとなく割と女子の部屋っぽい。 アニメキャラクターのうさぎがデザインされたカーペットに座り、若干体操座り的な姿勢で彼女を待った。 「お待たせー」 彼女は丸い木のトレイにコーラが入ったコップ2つと、ポテトチップスやチョコなどが盛り付けられている大きな皿をのせ、若干前かがみの姿勢で入ってきた。 そういえば白の無地のテーシャツに、黒色の半ズボンを履いている。 髪は肩ほどまで伸びそれとなく整えられいて、二重瞼に大きな目とその丸い輪郭は相変わらず子供っぽい印象を受ける。ただ身長が高いためかそれが中和され、子供っぽさと大人っぽさがどちらも残る印象。 客観的に見て彼女の容姿はやはり良いものだと感じた。自分が容姿に対してコンプレックスがあるから、余計に。 彼女は好きに食べていいよ。と言って、あぐらをかくように体勢を崩し、お菓子を置いた丸テーブルを挟んで僕の前に座った。 「どう、案外女子の部屋って思ったでしょ?」 「…うん、まあ」 「ククク、掃除した甲斐あった」 彼女はいたずらに笑っていてどこか嬉しそうだった。 ポテトチップスを何枚かとって、全然遠慮しないで、と言ってパリパリ食べている。 「あ、これコーラだけど炭酸いける?」 「一応大丈夫」 「良かった。じゃあ学校のことなんだけど」 ついに本題に入る。 「私がさ、不登校になった時期っていつら辺か覚えてる?」 「大体…去年の10月あたりとか」 「惜しいー。文化祭の時にはいないから9月の中旬」 「ああそっか」 「でね、去年の文化祭は、ずばりどんな感じだった?出し物とか何やった?」 「出し物は何か何だっけ。お化け屋敷だったような、気がする」 「ほー!結局お化け屋敷になったんだ!色々何やるか9月あたりからクラスで話していたからさ!」 「そっかぁ。いいなあ」 彼女は呟くように言った。 「そういえば私んちここって迷わなかった?」 「ちょっと確かに迷ったけど」 表札のことはあえて言わなかった。彼女のプライベートのことを掘り下げるほどの勇気もないし、そんな仲の関係性でもないし。 「だよねー!もうなんとなくわかったと思うけど、親離婚してるの。」 彼女は軽い感じでそう言った。何となく重い雰囲気にしないように努めている気はした。 「ああ、そうなんだ。」 反応に困ったから僕も軽い感じで、一応可にも不可にもつかない答え方をした。 「そう。だからさ、今はお母さんと二人暮らしでお父さんは今どこにいるかわからないんだよね」 淡々と話す彼女に悲しさや憂いみたいなものは一切感じなかった。 「だから今はお母さんの方の三上(みかみ)を使ってる。名前が二つあるって何か変な感じなんだよね」 彼女は笑って、コーラを飲んだ。今度はチョコを取って包み紙を空けている。 「ほら全然食べてよ!私一人でこの量は無理だって」 ほれほれ、と言ってポテトチップスを1枚取って手渡ししてきた。 無言でなんとなく会釈をして、彼女の手からポテトチップスを受け取って口に運んだ。 「あの、お母さんは今リビングにいるの?」 さっきから気になってソワソワしていた質問をした。いるとなれば帰る時間やこれ以降の対応など色々支障が出る。 「今は家にいないよ。どうせ帰り遅いだろうし」 良かった。 「ここまで来る途中でツタの生えまくった家あったでしょ?」 「うん」 「あの家の人とさ、うちのお母さん付き合ってるの」 「え、ああそうなの」 さっきから彼女は反応に困るようなことを言う。 「あの人さ。うちの母さんね。昔から自分の機嫌がいい時だけいっちょ前に母親してきて、可愛い時だけ可愛がるの。」 少し重い雰囲気に気づいたのか、彼女は少し笑みも交えながら話した。 「で、自分が機嫌が悪い時は私のこと知らずにどっか行っちゃうこともあってさ。流石に中学生ぐらいになってから、もうほぼ自分で色々できるようになったけどね」 「…そうなんだ」 「お父さんがいなくなってからお母さんなんか変わっちゃってさ」 「そっか」 「誕生日だって、私8月31日なんだけど前からもうずっと祝ってもらってないよ。」 「それは嫌だね」 「だから私夏嫌いなの。嫌な季節。色々」 「…うん」 「あ!全然重くならないでよ。今はなんとも思ってないし。」 学校の話ではなくっているが、彼女にも色々あったのかと少しながら同情した。 「でもそれでも母親のことって嫌いになれないんだよね。なんでだろうね」 「立石君はさ、クラスのこと先週嫌いって言ったけどどんなとこが嫌いなの?」 「え」 「先週言ってなかったっけ?」 「まあ言ったけど」 少し考えた。彼女は僕の言葉を待っている。 「色々嫌い。なんというか、うん。みんな上辺っ面で変に笑いっつくって。それで窮屈で」 本当に思っていることを言った。理由はわからないが彼女が自分の母親について言ったことは、僕の彼女に対する壁を少しだけ壊した。 「まあ僕がクラスになじめないだけってのも、あると思うけど」 「そんなことないよ」 彼女は間を破って入ってきた。 「私もおんなじこと不登校になる前は思ってた。」 「私は逃げた。それと色々耐えきれなくて、不登校になって。私はそれは正解だと思ってる。でもその分、立石君はその思い抱えて学校行ってるのは凄いと思う。」 彼女は平然と言う。 「でも椎木の方が全然明るい印象というか、あのクラスに行かないって選択肢を取った方が、自分で考えられて自立できている気がする」 彼女に同情しているのかリラックスできているのかわからないが、普段の僕が思っても言わないことを彼女に打ち明けた。 「そうかな…。」 彼女は呟くように、そして嬉しそうに笑った。 「やっぱり君になら打ち明けてもいいかな」 「え」 彼女は急に立ち上がったと思えば、ベッド横の戸棚からピンク色のcampusノートを取り出してテーブルにおいた。 黄ばんだピンク色のcampusノート。 そのノートの表題の部分に黒のマジックペンで大きく「青色計画」と書かれていた。 「なにこれ」 「私の極秘ノート」 「極秘ノート?」 「私さ、あのクラス嫌いって言ったじゃん?」 「うん」 「なんでか言ったっけ?」 「言ってない」 彼女の目は、どこか血走るように感じた。 「ちょっとごめんね」 彼女はフッーと深呼吸をした。 どこか具合が悪そうに見えた。 「えっと大丈夫?」 「ん?何が」 またいつもの彼女の調子に戻った。 「今日は特別に君に私の計画を話してあげよう」 彼女はノートを開いた。 「私が不登校になったのは他でもないあのクラスが原因だって、前には言ったよね」 「…聞いてないけど」 「じゃ、そういう事なんだよ」 僕のいう事はサラッと受け流された。 「だからさ、ほらこうしてやるの」 彼女はノートを指さして言った。 指さす方向を見ると、ひときわ大きな字で「教室を青色で染める」と書いてあった。 「どういうこと…」 困惑する僕を面白がっているのか、彼女はにやけていた。 「来週の19日の火曜日、教室を青色ペンキでぐちゃぐちゃにしてやるの」 意味がわからない。 「そんなこと…しちゃダメでしょ」 「まあダメだね。本当は」 「でもさ、これは戦いなの。私とあのクラスの」 彼女はふざけているのか真面目に言っているのかわからない口調でそう言う。 「夏休みが始まるのが25日でしょ。19日にやったら25日まで、まだ丁度1週間ぐらいあるから教室の掃除も大変だしね。」 彼女はそう言って笑った。 「それに教室がぐちゃぐちゃになった上に、クラスの人達にとっては最悪な気持ちで夏休みが始まるかもしれないし」 「どういうこと?」 「どういうことだろうね」 彼女は何故か笑って誤魔化した。 気になったが特段追求するのもやめた。 「とりあえずさ、必要なものはもういくつも買ってあるの」 「本気で言ってる?」 「本気だよ。」 「なんでそんなこと僕に言ったの?」 「君が私の気持ちを理解できそうな唯一のクラスメイトだったからかな」 彼女はまたポテトチップスを手にとってバリバリ食べた。 この人はやっぱりどこかおかしいというか、危険な思想を持っている気がする。 「僕はあのクラスを嫌だと思っていても、教室を青色ペンキでぐちゃぐちゃにするようなことはしないよ」 「私、過激派なんで」 彼女はそう言って笑った。 「そのさ、なんでっていうかあのクラスのどこが嫌なの?」 あえて直接的に不登校になった原因を聞くのは避けた。 「まあ全部かなー」 「例えば?」 「窮屈でいじわるくて、汚いとことか」 これには完全に同意だった。 「ていうかさ、今のクラスは誰がムードメーカーなの?」 「ムードメーカーっていうか1軍みたいなのは三屋とか…」 「やっぱ三屋君なんだ。へえ、凄い」 「…あいつそんな面白くないよ」 「あれ、仲良かったっけ?」 「一応それなりにつるんでる」 「なんだよー。案外うまくやってるじゃん」 嘘をついた。あいつに虐げられていることなんて言えない。 「女の子の方はどう?」 「三屋とかに絡んでる宮下麻里奈とか、中村美玖とか須藤玲奈とか、あいつらがうるさい。」 「確かに1年生の頃から凄かったからねー。」 彼女は笑った。 「よし、君は色々教えてくれたし、とりあえずそんなクラスメイトなら、特別に私の変身も見してあげよう」 「変身?」 「変身には時間を要するのだ」 彼女は急に立ち上がって部屋を出た。 「ちょっと待っててー」 奥の方で彼女がそう叫ぶ声が聞こえた。 スマホを見る。 終電がそろそろ迫っていた。 彼女のノートをもう一度見る。 なにやら色々書いてあった。 汚い字であまり読むことはできないが、持ち物らしきものなどが書いてあった。 学校、バケツ。 青色ペンキ、3つ。 学校、モップ。 懐中電灯。 ロープ。 どうやら本当に物騒な事を計画していた。 こんな彼女は僕に、君なら分かり合えそうだと言ったがそれは絶対にない。 向こうの方でドタバタ足跡が聞こえた。 「お待たせしました」 彼女はいつの間にかドア付近に立っていた。 しかも高校の制服を着ている。 「どうよ?」 「どうって」 「可愛い?」 「…」 「ハハハ。私の制服姿って実際何点ぐらい?」 「…普通ぐらい」 「えー絶対もっと普通より可愛いって」 彼女はそう言って制服のまま、また僕と向かい合った。 「このまま一生着ないかもって思って親友の前では着ちゃったよ」 「親友?」 「私達もう親友みたいなもんじゃん」 「まだ会って2回だけだよ」 「会った回数なんて関係ないよ」 彼女の定義では、もう僕と彼女はどうやら親友らしい。 彼女はスマホを見た。 「もうこんな時間じゃん。終電大丈夫?」 「一応それなりに、大丈夫じゃないよ」 「だよね。じゃあ駅まで送るよ」 「別に一人で帰れるよ」 「そう言うなって。親友は冷たいなぁ」 彼女は立ち上がって部屋を出る。 勝手に駅まで送ることを了承された。 「このおかし、このままでいいの?」 「うん。大丈夫。行こ」 片付けた方がいいかと思ったが、彼女の家ならばそれに従った。 少し遅れて部屋を出ると、彼女はドアを半開きで開けながら僕を待っていた。 「え、その恰好で行くの?」 「うん。ダメ?」 「ダメとかはないけど」 流石に着替えるだろうと思ったが、彼女は制服のままだった。 「久しぶりに外で制服着たいし、君も制服だから不自然じゃないでしょ」 彼女についていくように階段を降りて行く。 外に出れば相変らずの静けさだった。 彼女は僕と並ぶように歩いた。 手を後ろに繋いでユラユラと歩く彼女。 「立石君の家ってマンション?」 「一応、一軒家」 「一戸建ていいなあ。ワンちゃんとか飼ってるの?」 「いや、母親が犬ダメな人だから飼ってない」 「そっかあ。私も一戸建てとか住んでみたい人生だったなぁ」 「ずっとここに住んでいるの?」 思わず聞いてみた。 「ほぼそうだよ。ぼろっちいアパートだなあって思ったでしょ?」 「いや、別にそんなこと」 「いいの。実際ぼろっちいし。」 一本道を歩きながら隣の茂みからずっと虫の鳴き声がしている。 さっきから真ん中の車道には全く車が通らない。もうほぼ、歩行者天国みたいなもんだ。 「小学生の時とかさ、よく家に友達呼んだりするじゃん」 「うん」 「そしたら順番にその子のうちで遊ぼうっとかさ、今日何々ちゃん家ねーみたいの。私の時もあってさ」 「うん」 「でも私、小学生ながらうち呼ぶのがなんか恥ずかしくてさ。いつも色んな理由つけて断っていたの」 「あー…そうなんだ」 「まあ、それでも仲良くやってたんだけどある時急に友達がみんなよそよそしくなってさ。なんでよそよそしくするの?って聞いたの」 「うん」 「そしたらある子が、なつみちゃんちとは関わらない方がいいってお母さんに言われたみたいなこと言ったのね」 「あー…うん」 「その時に私はあーお母さんのせいだって思ったの。小学生の時からあの人おかしかったし」 「その、実際お母さんのせいだったの?」 「わからない。でもちょうど新学期前だったからクラス替えでその子達とは離れて、その後話すこともなかった」 僕たちはそうやって話しながら、歩いた。 気づけば30メートルぐらい先横にあのツタの生えた家が見えた。 当然ここで、あの家について触れるようなことはしなかった。 彼女も黙っていた。 お互いの間に気まずい雰囲気が流れるのを肌で感じながら、なんとなく家を横切ろうとした。 「そこに車止まってるでしょ?」 急に沈黙を破ったかと思えば、彼女が指指した方向に黒いワゴンアールが止まっていた。 「あれうちの車。というかお母さんの車なんだよね」 「え、あぁそうなの」 「来た時あの車あった?」 「いや見てない気がする」 「ああじゃあ今日もそうだ」 彼女の様子もなんとなく察知して僕はここで質問することはやめた。 「あの家で何やってるか知らないけどさ。大人ってホント無責任だよね」 「…」 「お母さん夜中帰ってくるとき、毎回お酒と香水の匂いがするの。だから家も香水臭かったよね。ごめんね」 「いや…全然別に大丈夫だったけど」 「酔って私に絡んでくる時なんて、なつみに兄弟ができるかも〜とか言ってさ」 「…うん」 「あーあ、生まれてくる家間違えたのかなー」 彼女は家を横切りながら、少し大きい声を出してそう言った。 また沈黙が流れ、一言も発さずに僕らは駅に歩いた。 そうしてついた目前の駅は、相変らず閑散としていた。 駅の電光掲示板に目をやって電車を確認した。 10分後電車がくる。 「ありがとう。今日は楽しかったよ。学校のこと色々知れたし」 「良かったよ」 「もう君を拘束することも今日で終わり。バイトの件は言わないし。というかそもそも言うつもりなんてなかったけどね」 「絶対嘘でしょ。その件については真剣そうだったし」 「演技でしたー。騙されたね」 電車のアナウンスが地下の方から反芻して聞こえた。 「そのさ、教室の件本当にやるの?」 「やるよ」 「これも演技?」 「さーてどっちかな」 彼女はシシシと笑った。 ほんの一瞬、どこか今の拘束の関係が終わってほしくないと思ってしまった。 「じゃあ」 「はーい。じゃあねー」 彼女は僕に手を降ってきた。変な恥ずかしさもあり、僕は手を降らずただそれを見て階段を降りようとした。 その時、遠く後ろで「ぎゃはは」と笑い声がした。 どっかの高校生が夜中に騒いでるのかと思って気にせず降りようとしたけど、どこかその笑い声に聞き覚えがあった。 急に嫌な脂汗がジトっと背中に湧いたのを感じた。 スッと後ろを振り返れば、彼女も後ろを見ていた。 僕らの視線の先には、間違いない。三屋達がいた。 6人ぐらいで、須藤や宮下もいる。彼らは大声で話しながら駅に向かって歩いていた。 なんであいつらがいるんだ。 嫌な汗を感じて少し動悸がしながら僕はすぐにその場を離れようとして、前を向いた。 しかしそういえば、彼女はどうしているのかと思って振り返った。 彼女はその場から離れずただ彼らを見ていた。 そうしてる間に彼らは僕らと近い距離にいた。 まずい。 「あれ?え?待って。え、なつみじゃん。ウける。なんでいんの?」 最初に声を発したのは須藤だった。 「え、なつみ?誰?」 三屋が須藤に聞いた。 「え、ほら。去年辺りから不登校の椎木なつみ」 「あ〜、え、椎木なつみ。あーなんかいたような。え、やっば。なんでいんの」 「てか制服着てるじゃーん。えーなんで制服なの。流石に笑うんだけど」 椎木は何も言わずただ彼らを見ていた。後姿が震えているのがわかった。 どうしよう。僕はどうすればいいのか。 どうすればいい?いや、でももう僕と彼女は関係ない。 僕は階段を降りることを決意した。 彼らがまだ僕を見つける前に、僕はここから逃げることにする。 それでいい。それが僕の人生だ。 前に向き直した。 「ちょっと待って。あれ立石じゃね?」 三屋の声を背後に受け、また尋常じゃない動悸がした。 はあ。最悪。 「おい立石やん。え?どういうこと?」 僕は彼らに向き直して笑顔をつくって見せた。 「おつかれー」 「おつかれーじゃねーよ。え、お前ら何付き合ってんの?」 駅構内にドッと彼らの笑い声が響いた。 「これ絶対付き合ってるだろ。えーマジでお似合いじゃん。俺は全然いいと思うよ」 「ちょっと晴樹、やめてよ。冗談きつすぎだって」 彼らはゲラゲラ笑う。 「えーいやー全然そういうのじゃないよー」 変な雰囲気にならないよう、笑顔を保ちながら僕は言った。 「は?じゃあ何お前ら仲いいの?友達?なにこれ」 「うーん友達とかでもないかなー」 「きっしょ。死ねよ」 ハハハと僕は笑った。 「なんでこいつ馬鹿にされてるのに笑ってんの」 彼らもゲラゲラ笑う。良かった。この場をまた乗り切ればいいだけだ。 「ねえ、なつみー。なんで学校きてないの?来なよ。また一緒にテニスやろうよ」 宮下が彼女に向かって言った。 彼女はずっと下を向いていた。 「いやいや麻里奈。こいつめっちゃ部活で痛かったじゃん。下手なくせに頑張ってハキハキして。先輩とかにめっちゃ言われてたでしょ」 中村が彼女に向かった言った。 「でも私達は優しくしてた方よね〜。なつみが高1の10月?そこらから学校来なくなった日からずっと気にかけてたし」 「美玖とか玲奈、なつみ来なくて学校つまんないって言ってたしねー」 「色々な意味でね」 彼女らの高笑いが駅に響く。 「ちょっとさ〜制服近くで見してよ」 須藤はそう言って彼女に近づいていく。 僕はただそれを傍観していた。 「やめてよ」 彼女は今、確かにそう言った。僕には聞こえた。でもとても小さな声だったか、須藤には聞こえてないのか、椎木の目の前まで近づいた。 「やめて」 彼女はそう言った。今度は駅にも響く大きな声だった。 「は?なに。こわ」 須藤も思わぬ反応に怯んだのか、一歩引いた。 一瞬急にシーンとした空気が流れた。 焦ったような口調で、須藤は言った。 「え〜てか、なつみ制服なんで着てるの。付き合ってるとかゴブリンとかよりそっちがツボだわ」 中村もすかさず言ってきた。 「ていうか晴樹。晴樹が一番カラオケ下手だったんだから、何かこの人達にラブソング歌ってあげなよ」 「そこのカラオケ屋がひどすぎただけだわ。俺らでも酒飲んで歌えるらしいから、こんなとこまできたのによ」 「ほら早く歌ってー」 「あ〜じゃあこういう時なんだっけ。ハピバスデーだっけ?」 三屋はそう言って笑いながら、バースデーコールを歌い始めた。 彼等らも笑いながら、三屋に続いてバースデーコールを歌う。 「ハピバスデーツーユー。ハピバスデーツーユー。」 彼らのバースデーコールが駅に響く。 嘲笑や蔑みを肌でひしひしと感じるバースデーコールに、僕は黙ってなんとなく笑みを浮かべてただ耐えた。 動悸や不安が入り混じって、とにかく早くこの場が終わることを祈った。 逃げたい。ただ逃げたい。椎木はどうだろう。戦うとかなんとか言ったって、椎木だって逃げたいはず。 その時、急にバンっと音がして椎木は彼らを追い越すように走った。 一瞬何が起こったかわからずたじろいでしまった。 椎木はもう、彼等を追い越して駅を去るように走っていった。 ああやっぱり逃げた。 まあ仕方ない。戦うなんて所詮口だけだ。 「え、怖すぎだろ。なにあれ」 彼らも流石に少し驚いた様子で、彼女の後を見ていた。 「まもなくー西谷駅、各駅停車が参ります」 地下の方でアナウンスが聞こえた。 糸が切れたようにハッとして、僕は無言で息を荒くし階段を駆け降りた。 後ろの方で僕を笑う声がする。 結局僕一人が残った。何もできず逃げることもできなかった。ただ耐えて焦って動悸がして吐きそうで。 もういい。もう嫌だ。このまま電車に飛び込んでしまえば全部楽だろうか。 明日学校でこれをネタにされて今までの日常よりもっと酷い事が起きる。動悸と汗と震えが止まらない。 ポケットの方でラインの通知音がした。 ゴオオオと音をたてて、電車が来た。 …よし、飛ぼう。 最後に今きたラインを見ることにしよう。 誰だ。母親なら最後にありがとうと送ろう。 彼女から、一件ラインが来ていた。 お前か。逃げたくせに。 先週送られてきたウサギのグースタンプの下にはこうあった。 「やっぱり今日、青色計画する」
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