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1.8 ごろつきと廷臣殿
「おい、女。どうしてくれんだこの落とし前よ」
男が私の前に立ちはだかる。人相が悪くて、いかにもチンピラ、あるいはごろつき、と言った感じの男だった。その背後からは、仲間らしき男が一人、二人。
そんなベタなシチュエーションで、私はまた、苦境に陥っている。
そもそもが、こんな所を通ってはいけなかったのだ。
なぜこんな状況に陥っているのか、それを説明すると長くなる。
まず、実家との行き来だ。実家は首都の郊外にあるので、行き来には馬車を使わなければならない。だが単なるメイドの私に、個人的に馬車を呼びつけるほどの余裕があるわけじゃなかった。
それで乗合馬車の発着所まで歩いて行く必要があったが、公宮からは結構遠かった。当然徒歩でそこまで行くことになるが、そこに時間を取られていたら、実家に滞在できる時間が少なくなる。
里心がついているのかもしれない。宮仕えする人間としてはよろしくない傾向だ。エックハルト様みたいに、人を人とも思わないような宮廷の人間に関わり合いになってしまって、寒々しい気分に耐えかねているのかもしれなかった。
とにかく、そんな経緯で、私はその日、近道しようと、普段は行かない路地裏に足を踏み入れたのだ。
今立っているのはこの路地裏の中でも狭いあたりで、道幅一メートルほどの建物と建物の間。影になっていて暗いし、頭上では建物の間に渡された紐から、洗濯物がぶら下がっている。そんな雰囲気の場所だった。
「お金だったら、払いますから」
そう言ったのは、『アリーシャ』としての私だった気がする。お人好しで気の弱い、まだ十七歳の世間知らず。言葉に出してしまってから、私の中の別の私が、私を叱責する。
(私何言ってんの? 自分がこの状況にビビってるって表明しているようなもんじゃない。舐め腐った相手に付け入る隙を見せてどうすんの)
そんな心の中だけでイキってみたところで、この状況を変えられるわけじゃない。
どうやら、私は道端で飲んだくれていた男の酒瓶を蹴倒した、そういう話らしかった。だけど、どうもおかしい。道端で踏んでしまいそうな位置に怪しげな男が座っていたら、私だって警戒はする。足元には注意していたはずだ。
「こいつにいくらかかると思ってんだ、女よ。支払ってもらうなら、それなりの覚悟が必要だよなあ」
お決まりのシチュエーションに、お決まりのセリフ。
だったら、お決まりの救いの手が入ってもいいはずだ。
果たして、それは訪れた。
「……勘弁してくれ。くっさい露地裏に、女に飢えた猿ども。んな連中になんで道を塞がれなきゃならない?」
「は?? 何だてめえ」
そんな闖入者の言葉に、ごろつき達は瞬時に激昂する。
何かがおかしい。私はそう感じている。その違和感の正体は、ひとまず置いておこう。
闖入者は背が高く、細身の男だった。地味な黒いコートの出で立ちに、遠目からは人相が確認できないような感じで、灰色の帽子を目深に被っている。
「てめえこそ邪魔すんじゃねえ。この女はな、俺の酒瓶を蹴倒したんだよ。その埋め合わせはすると、今約束したよな、女ァ」
闖入してきた男は、道に流れた酒の跡を見遣る。そして屈んで手を伸ばすと、その跡を指でなぞり、その指を口元へ持って行って、舌で軽くその指に触れる。
「水じゃねえか。大方てめえが自分で倒して女に擦りつけたんだろ。そういう魂胆で」
「……てっめえ!」
どうやら図星のようだ。
でもこの路地裏、決して清潔な感じではない。ねえ、汚くないの?
「さっさと退いてくれ。ああそれから女は置いていけ」
「は? 横取りかてめえ」
「そう思ってくれていいぜ」
そうして、彼は私の肩を、片手で掴む。それは、正直優しくない掴み方だった。
「っざけんなよおい。そうは問屋が卸さねえ」
「……めんどくせえんだよ」
男はそう言った。そして。
一切の躊躇もなく。
ごろつきの顔面目掛けて。彼は拳を叩き込む。
鮮やかな一撃、だったかもしれない。でも。
私は予想していなかった。拳の一撃で、眉間から血が噴き出すなんて。
「……てっめ!!」
さっきから立ち塞がっていたごろつきはその一撃で、堪らず倒れ込む。仲間らしき二人のごろつきが駆け寄り、男に立ち塞がる。
男は手にしていた何かを、倒れている方のごろつきの体に向かってぽいと放った。ちょうど掌に収まるぐらいの鉄の棒に、痛そうな突起がついている。どうやら、寸鉄のような暗器らしい。
「鼠横丁の親分の下の連中にこいつを見せな。俺からだ、って言や分かる」
「てめえ!」
なおもごろつき達は食い下がる風情だった、ものの。
「今なら勘弁してやる。……自分の、立場を、理解しろ」
男の語尾には、有無を言わせぬ響きがあった。
(は? は? は?)
私はずっとそう思っている。それしか思いつく言葉がない。言葉ですらない。
「やれやれ。こういう近道は考えものですね。誰もあなたに注意していなかったんですか」
男は帽子を取ると、今度は顔が見えるように被り直した。
「……まず、なんでエックハルト様がこんな場所にいるんですか!」
「古馴染みの訪問に、少し、ね」
男、そう、エックハルト様。彼は私に向かってウィンクして見せる。古馴染み、の言葉に、奇妙なイントネーションがあった。
というか、なんなのこの人。なんなの今の、チンピラみたいな言葉遣いに、行動。それに、その暗器。
「っていうか、ねえ。何なんですかさっきの。……鼠横丁の親分なんて。そんな人と、お知り合いなんですか?」
鼠横丁の親分。物乞いの王とかなんとか呼ばれる、裏社会の顔役らしい。私でも名前だけは知っているぐらいだ。
「知り合いなわけがないでしょう。ハッタリですよ、ただの」
「あの、逆に困るんですけど? 仕返しされたらどうするんですか、あなたじゃなくて、私が!」
何を言っているのか、この人は。頭が足りなくて喧嘩も弱い最下層のごろつきだって、プライドがないわけじゃない。虚仮にされたらどう思うかなんて分からない。恨みは弱者の怒りである、なんて、前世である昔に読んだ本に書いてあった気がする。
「それだ。あなたは首都には不案内かもしれません、だがこんな場所に足を踏み入れること自体が良くない。女性一人、こんなところにいてはいけない、身を守るものもなく」
エックハルト様はそう言って私に近づいて、私の頬を親指で撫でる。しかし、首都には不案内、とは。
「…………また、田舎者って」
「おっと」
否定はしないのね、田舎者と思っていることは。私はそんな風に、僻みっぽい考えを抱いてしまう。
「とにかく、これを差し上げます。気休めですが護身にはなる」
エックハルト様は私の手に何かを置いた。さっきのと全く同じ形、予備の暗器であるらしい。
「もう、あなたからは何も受け取りませんから! だってあなた、私の大事な手鏡を壊したんですからね! それもわざと!」
私はそれを突っ返す。そして、走ってその場から逃げ出した。裏路地に入り込まないように、少しでも広い道を通って。
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