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1.9 災厄
私が今いるこの世界は、昔のヨーロッパと少し似ている、と、私は思っていた。ところが、とても大きな違いがあったのだ。
栄華を極めた『帝国』は千年以上前に消滅した。その滅亡の原因は、『災厄』、と呼ばれていた。災厄がどんな性質のものだったのか、詳しい事は伝わっていない。
そして、災厄は、今でも世界にあった。
人間の文明を、歴史を、裏側から浸食し続けていた。
あの路地裏での邂逅の後だけど、私は実家に向かわず、公宮の自分の部屋に帰ったのだった。なぜって、エックハルト様の異様な雰囲気に動揺したから。それ以来ずっと、私はエックハルト様から逃げていた。手鏡を突っ返した時には曲がりなりにも啖呵を切ることが出来ていたのに。
いや、やばいでしょあの人。他の表現が見当たらない。
誘惑的と言ってもいいぐらいの態度でこちらをお茶に誘っておいて、内心では全く信用してはいない。人との距離を躊躇なく縮めるけど、好意の意味なんて微塵もない。
何の警告もない状態から、ごろつきの顔面に暗器を食い込ませる、それも一切躊躇なく。バレたらただではすまなさそうな嘘を平然と吐く、相手を威圧しながら。
こちらが嫌ったりとか、啖呵を切ったとしても、一切意に介してはいなさそう。喧嘩慣れしているというのだろうか。でもそれにしては、行動言動がいちいち危うすぎる。危険な綱渡りをすることこそが彼の趣味に合っているのかもしれない。
でもそんなのに巻き込まれたら、こちらの方はただではすまない。私はしがない小市民、小心者だし運だって別に良くない。ロシアンルーレットは私がいない場所でやってほしい。
そんなわけで、リヒャルト様の槍術の公開演習があると聞いた時も、それを見学させてもらうことは躊躇われたのだった。
若干十三歳のリヒャルト様だけど、実は槍術の達人であるらしい。そりゃあの、どっちかというと可愛い少年が、勇ましく槍を振る姿が観られるとしたら、興味が湧かないはずはなかった。だけど。
リヒャルト様がいるとしたら、エックハルト様もいる。あの人と関わり合いになったらろくなことはない、絶対に。
公開演習の当日、私はお休みをもらっていた。首都の中央広場近くで開かれている市場をそぞろ歩く。その日は平日で、そんなに人は多くなかったし、あまりめぼしいものもなかった。
良い場所で公開演習を見学するなんて、公宮に勤めていることの唯一の特権みたいなものだったはずだ。それをただ単に、エックハルト様が怖いというだけの理由で逃げ出したのは、惨めというか、敗北感というか。
そんなこんなで、せっかくのお休みなのに、気分は複雑だった。市場では特に何か買うこともなく、帰路につこうとした時にはすでに夕方になっていた。
黒い影。
私の思考はその時、かなりバグっていたけど。
新たなバグが、思考に注入された気がする。
不適切なものが、視界に捕らえられていた。
ここには存在してはいけないもの。
アリーシャの私が考えたこと。
災厄。
話にだけは聞く、その恐ろしい存在。
鉄の脚とガラスの目を持つ蜘蛛。
その目に見られてはならない。
その脚に触れられてはならない。
若葉の私が考えたのは、それとは全く違うことだった。
いや……何だ、このメカ?
金属の脚部は六本で、長い足で小さな直方体形状の中枢部を支えている。可動式の足先にはダンパーのような機構が付いていて、大きさに反して身軽なことを感じさせる。中央にはカメラアイが一つだけ搭載されていて、それを自在に回転させることで周囲を観測しているようだ。
街の広場に、数体の怪物メカ、あるいは『災厄』と呼んだ方がいいかもしれない、が、降り立っていた。
ほとんどは二メートルぐらいの体高で、周囲をそのカメラで油断なく計測している。広場のほぼ中央に立っている大型の怪物メカだけは、静止しており、胴体の中央から、棒杭のようなものを地面に突き刺していた。
私は反射的に、後ろに向かって駆け出す。
それが正しかったのか分からない。むしろ、間違っていたような気がする。
私の動きに反応して、二体の怪物メカが私を追いかけ始めた。
私はここまで、かなりイージーに考えていたと思う。現代人基準ではものすごいスキルは持っていなくても、そこそこの技術知識でこの時代の技術知識に先んじることができる。実際にヘロンの蒸気機関には感心していただいたことだし。こちらの世界では、前世よりはイージーに人生航路を開いていくことができる、と、そういうイメージだった。
人生は甘くない。
私は自分が間違っていたことを悟った。
この世界では、敵の方が強い。
すぐに私は、壁際まで追い詰められる。2体の怪物メカは、私の方ににじり寄ってくる。そのカメラアイを、まるで首を傾げるかのように、こちらに向けて。
測定されている。
彼らは、何かを探している。
私は、なぜかそう思った。
「お前の相手はこっちだ」
聞き覚えのある声がした。
その人物は、頭上の建物の、屋根の上にいた。
そして、落ちてくる。
長い槍を携えて。
小柄な少年。
リヒャルト様だった。
私の目の前にいた怪物は、リヒャルト様の一撃で串刺しになり、動きを止める。続いてもう一体が、こちらに向かって来ていた。
リヒャルト様は跳躍する。自分の身長よりもずっと長い、二メートルを超えるような金属製の槍を手にして。
並外れた跳躍力を武器に、空中から攻撃を仕掛ける。怪物の装甲を貫くために、自分の体重も武器にするのだ。そして極端な槍の長さのために、怪物の脚の間合いの外から攻撃を加えられる。
「リヒャルト様」
声が掛けられ、長槍が投げられる。
リヒャルト様はそれをキャッチして、得物を交換した。地面や怪物に突き刺した槍がすぐに抜けるとは限らないから、次々に槍を交換していくスタイルらしい。
そんな戦い方で、リヒャルト様は大型の怪物に迫る。
大型の怪物の中枢部に十分接近すると、リヒャルト様は腰袋から何かを取り出す。それは、リンゴ大のガラス玉のように見えた。
至近距離でそれを投げつけると、地面に突き刺した槍から手を離して着地した。怪物の胴体にそれは命中し、火炎に包まれる。
ギリシアの火、だ。
硫黄、石油、瀝青、松脂などを原材料とした、原始的な手榴弾。元の世界では製造法が失われたものだったはずだ。
着地が遅れていたら、リヒャルト様まで炎に巻き込まれていたかもしれない。それは、自身を危険に晒してのゼロ距離攻撃だった。
私は唖然としていた。
こんなの知らない。
こんな戦い方見たことがない。
使えるものはなんでも使う。こういうことか。
エックハルト様は銃を掲げている。怪物のカメラアイを狙っているようだ。先込め式のマスケット銃は装填に時間がかかり、また命中率が低い。それでもエックハルト様は、効率的に怪物のカメラに命中させて、その視力を奪っていった。
稼働する怪物メカの数が少なくなったところで、ある変化が起きる。
怪物の挙動が変化した。個別行動をやめて、一斉に撤退を開始したのだ。撤退の際に、動かなくなった仲間を回収していく。
その跡には、いくつかの折れたり、焼け焦げた金属片が残っているだけだった。
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