1章 少年君主

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1.12 些細な兆候 「殿下」  謁見室を去ったアリーシャを見送った後謁見室に取って返したエックハルトは、リヒャルトに声を掛ける。 「…………」  リヒャルトは無言だった。椅子に斜めに腰掛けて片膝を立てており、何か考え事をしているかのように拳を口元に当てている。 「品が悪いですよ。その姿勢」  人目のない所ではリヒャルトは姿勢を崩しがちだ。そういう行動が無意識に人前で出ないとは限らず、目にするたびにエックハルトは注意している。  エックハルトの言葉にリヒャルトは座り直すが、なおも何か考えているようで、片手で顔、それから口元を覆う。 「何だ、今の」 「先程の彼女ですか?」  エックハルトは少し訝しむ。 「なあ、何だったんだ今の会話は? あんな女いるか? 今まで見たことあるか?」  リヒャルトはそんなことを言いながら、顔を赤くしてすらいる。  先程の謁見で、リヒャルトが肩を震わせていたことをエックハルトは見過ごしていなかった。普段のリヒャルトは冗談を解する素振りを見せることはないし、ましてや笑いを堪えていることなどほとんど無かった。 「そうですね、私の経験では……」  答えかけたエックハルトをリヒャルトは遮る。 「いや、いい。お前の女性経験は聞いてない」 「まだ何も言ってませんが」 「女に関するお前の話がろくなもんだった試しがないからな」  いかにもませた、それでいて少年じみたそのリヒャルトの言葉に、エックハルトは軽く嘆息する。 (色気づいたか?)  そんな不敬な物言いがエックハルトの脳裏を過ぎる。  リヒャルトに言わせればろくなもんではないというエックハルトの経験だって、彼の役に立たないとは言えない、特に、歳若い君主という特殊なリヒャルトの立場を鑑みれば。女であることを武器にして、リヒャルトの弱点に付け入ろうとする女がいないとは言えない。むしろ、いると考える方が自然だ。  幸いにしてと言うべきか不幸にしてと言うべきか、これまでずっと、リヒャルトは女には冷たかった。理由はただ一つ、少年だからだ。  女に冷たいこと、それにはリヒャルトの生育環境や気性も影響しているだろう。この公国の君主となるべく、リヒャルトは幼少の頃から英才教育を受けている。生来より才気煥発としていたリヒャルトはその影響を十二分に受けていて、ナイフで切るような会話のテンポを好んでおり、それについていけない人間には冷淡だ。  またそれは、リヒャルトが本当に賢いことを必ずしも意味しない、と、エックハルトは思っていた。十三歳という年齢でありながら君主として振る舞えるだけの教養を身に付けていたリヒャルトだが、裏を返せばその教養は、君主として振る舞う以上の目的はない。リヒャルトが通り一遍以上の深い見識があるかどうかはエックハルトにすら分からない。  それに人間との微妙な力関係の問題、特に男と女のことは見識だけでは語れないのは言うまでもない。リヒャルトと近い年齢で、才走ったリヒャルトに釣り合う女はなかなかいないだろうが、大人は違う。人の心を捕らえるのは才気だけではないし、結局のところ、その色香で彼を惑わすほどの女性が今までリヒャルトの前には現れていなかった、それだけの話だ。  女性に疎いとか、関心が薄いとか、それ自体はむしろ良いことだった。なぜなら、リヒャルトには婚約者がいるのだから。ヴォルハイム同盟諸国に名を連ねるリンスブルック侯国の侯爵令嬢、ヴィルヘルミーナ・フォン・リンスブルックだ。  リヒャルトには後ろ盾がない。若年のうちにその⾎族を⽴て続けに失い、⼋歳で君主である公爵位に即位していた。⽗である先代ランデフェルト公ヴィクターは災厄による戦死だった。⺟である公妃ヴァイオラは産褥で命を落としたが、元々が病弱だったらしい。これは、⺟⽅の縁戚関係が薄く、後ろ盾が存在しないことを意味している。リンスブルック侯国との縁戚関係は、今後のリヒャルトの地位を保証する上で重要だ。従って、リンスブルック侯爵令嬢ヴィルヘルミーナとの成婚を恙無く進めることは、公国の⾂下にとっての責務だったのだ。  エックハルトは、さっきの女、アリーシャ・ヴェーバーについて思い返してみる。社交術に長けた完璧な貴婦人、その怜悧さで周囲を静かに圧倒する才女、男心を惑わす魅惑術を心得た毒婦、そのどれでもない。ここで見過ごしてしまえば問題になることもないだろう、そう思えた。  だが、と、エックハルトは思う。だからと言って、アリーシャは普通の女でもない。どこがどう普通でないのかはエックハルトにも上手くは言い表せない。それに、今日のようなリヒャルトの様子を、エックハルトは今まで見たことがなかった。  エックハルト自身のこととは打って変わって、リヒャルトの身辺を綺麗に保っておくことはエックハルトの責務であり、命題だった。些細な兆候でも見過ごせない、だが、何が問題なのかもはっきりとは掴めない。 (この話、このままで済むか?)  エックハルトはそう思い、片手で空を掴んだ。 
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