3章 物乞いの子

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3.2 叶わぬ恋 「エックハルト様ぁ……」  そんな風に泣いている子を、私は少し椅子を引いて眺めている。  それは夜になっていて、私たちはメイド部屋の階下の広間にいた。メイドが起居する建物は寄宿舎のような構造をしていて、両翼には二人から数人が起居する寝室、その中央には椅子やテーブルが置かれた広間がある。私たちはその広間で食事を取ったり、仲間内で駄弁ったりする。公宮でのお勤めは、個人の屋敷で働くメイドに比べるとずっと待遇は良くて、平民としてそこそこの家の女性たちにとっての花嫁学校のような立ち位置だった。と言っても連日遅くまで重労働が続くことには変わりなく、自由時間は深夜に限られていたが。その点では、前世でブラック企業に勤めていた時と大した違いはなかった。 「あんた、冷たいんじゃないの?」 「えっ……ははは……じゃなくて、そんなことない、ですけど?」  突然食ってかかってきた泣いている子に対して、私はそんな風に答える。生返事と言わざるを得なかった。  なんというかお察しの状況だった。メイドの中で一人、エックハルト様に叶わぬ恋をした女の子がいて、玉砕覚悟で告白して、案の定振られた、そういうことだった。振られた女の子の名前はハンナ。 「でも優しかった、エックハルト様!」 「しょうがないよね、相手はお貴族様だもん。身分が違いすぎるよ」  そんな風に、べそべそ泣きながらもエックハルト様への幻想を壊すまいとするハンナに、同調する周りの女の子たち。一方で、私はエックハルト様の、表で見せている慇懃で物柔らかな一見の人当たりと、その裏にある剣呑で疑り深い人間性のギャップに思いを馳せずにはいられない。 「……そんな、違いすぎるってことないんじゃない?」  余計な口を出してしまう私。彼は準貴族だから、平民から頭一つ抜けた程度の身分で、ここにいる女の子たちとはまあ違う。だけど、そういう身分の男性が平民の女性を娶ることはありふれた話だった。 「何それ! あんた、何様のつもりなの?」 「うっ……ごめん。でもそんな、身分にこだわることないってば」  私は遠慮しつつもそんな返事をする。  私の前世である現代日本の女性『新井若葉』にとっては、身分は単に、そういう両親の元で生まれたというだけの話。若葉は歴史好きだけど、きらびやかな王侯貴族への憧れとはむしろ縁が遠かった。若葉の記憶を思い出す前のアリーシャとしてはそこまで急進的な考えを抱いたことはないけど、野心が薄くてゆとりがある田舎の家に生まれ育っていたためか、とにかくそういう話には疎かった。  でも、この世界の普通の人にとっては違うのだ。貴人、それはある種聖別された侵すべからざる概念で、そんな身分のないものとしては丁重に振る舞うことが一種の喜びになるような存在だった。 「そりゃ、あんたはいいよね。いいとこのお嬢さんだもん。私らみたいな庶民とは違うから」 「えっ? 別に、そんな……」 「農園持ちのどこが庶民だって?」 「でも、私が相続しないし」 「相続なんて話が出てくるのがお嬢さんだって言ってるの! これだから……」  こんな話になると余計なことを口走ってしまう私は、どうやらヘイトを買っている。つまりこれは私の家、ヴェーバー家は平民としては良い家で、私は恵まれているということだ。貴種としての神聖さを持たないで、だけど家の資産を鼻にかけてお高く止まっていると見られているのかもしれない。 「それにあんた、メイドやめるんじゃないの? もっと上の職階に取り立てられるって」 「それは……まだ、分かんない。具体的なことは何も決まってない。いろいろ忙しいみたいだし」  俯いて私は答える。  公爵の相談役などを務めているのだから、そろそろメイドという職名は相応しくないと、私は上の人たちからそういう判断をされていた。今の同僚たちにはその詳しい内容は伝わっていない。ただ、公爵殿下から何度かお召しがあって、取り立てられているという話だけ伝わっていた。 「アリーシャそのうち、玉の輿に乗ったりして」 「えっ、誰の! そんな話はまだ……」 「とぼけんじゃないわよ。殿下に決まってんでしょ、で・ん・か」 「うぅ……違うって。殿下はまだ……もうすぐ十五歳、か」  そう、そろそろリヒャルト様も十五歳で、この時代の君主なら婚礼を挙げてもおかしくない年齢だった。それは君主や大貴族には政略結婚が多いからで、そうでない男たちの結婚年齢はもう少し上だし、また中年や老年になってからの結婚も珍しくはない。一方の私は今年で十九歳になる、まだ誕生日は来ていないけど。この時代の女性としては行き遅れの烙印を押されてもおかしくない年齢で、周りの女の子たちはだいたい私より一、二歳若かった。その事実は私も少し頭が痛いけど、それよりも、前世である方の二十九歳の女、新井若葉の頭痛を引き起こす。 「あのさ。冷静に、考えてくれないかな。私だって単なる平民だよ? 身分が違うなんて、それこそレベルが違うじゃない。君主様の奥様になるなんてこと、あるわけがないでしょ、そんなの馬鹿馬鹿しい話」  私は口を開く。私はリヒャルト様とのことで、自分が冷静に振る舞えていると思っている。玉の輿を狙っているような濡れ衣は晴らしておかなければならない。しかし、周りの反応は私の虚を付くようなものだった。 「は?」 「は? って、は? 私がは? なんだけど」 「誰もあんたがお妃様になれるなんて言ってないんだけど?」 「えっ? えっ?」 「公妾って知ってるでしょ。君主様の寵姫のこと。身分考えるとまあ……無理すれば滑り込めるんじゃないの、あんただったらね」  有り体に言えば愛人だが、国家から許され、公的な支出を受ける愛人だ。愛人と聞くとついついイメージしがちな、蔑まれるような存在ではない。社交界の華として持て囃される貴婦人で、宮廷に出仕する女性としては一番の出世と言えた。なんせ、公妾になれば、廷臣として政治の場に参画する機会すらあるのだ。ちなみに、公妾は別に未婚である必要はない。君主であればそんな割り切った関係が許されているということだ。 「いやいやいやいや! そんなの、ないから! そういうのって普通はもっと身分が上の人だから! 無理すればとか、無理です! 無理っていうのは無理だってことです!」  泡を食って否定する私を、同輩たちは冷たい目で眺めている。 「やっぱりね」 「何がやっぱりなの!」 「あんたがまんざらでもない、ってこと」 「私否定してるけど? なんでそう、言葉の裏の裏の裏ばっかり読むかな? 私の話を聞いて?……ええと、その」  それから、私は軽く咳払いをする。自分の考えをまとめないと。 「君主ともなれば、他の国からお妃様をお迎えする、それは愛情だけのことではないでしょう。その方だって、覚悟して嫁がれると思う。だけどそこに愛人がいたら、やっぱり傷付くと思うんだ。自分の一番大事にしないとならない人に、他にそんな人がいたら」  ここで、私が思い返しているのはヴィルヘルミーナ様のことだった。もし婚約が解消されていなければ、公国にお妃様としていらっしゃっていた。あの方がリヒャルト様の愛情を期待してはいらっしゃらないとしても、他に愛人がいたら、傷つかないなんてことがあるかな? やっぱり傷つくと思う。 「それにさ! 私だって、一番大事な人の一番大事な人になりたいよ。愛人って、所詮は愛人じゃん。自分を一番の存在にしてくれない人を、自分の一番にできる? 無理無理、私には無理」 「へえ。それ、殿下に言える? もしその座を持ちかけられたら」 「やだやだやだやだ無理無理無理無理、そんなこと言われたら引っぱたいちゃうかもしれない、たとえリヒャルト様だとしても!」 「今の発言聞いた?」 「聞いた」 「聞いた聞いた」 「え何どういう意味」  どうやら私は、逆に追い詰められているらしい。 「殿下を引っぱたけるぐらいの仲ってこと、ねえ」 「うわーいやらしい」 「引っぱたけません! 言葉のあやです! そんなことしたら無礼打ちにされかねませんから!」  本来の意味での無礼打ちが許されているのは、昔の日本だけだっけ? とにかくそんな感じのことを言っていた。リヒャルト様に関して言うならば、あれだけ強くて身のこなしに隙が無いリヒャルト様を、この戦闘能力のせの時もない私が引っぱたけると思う? 私は無理だと思う。 「だいたい、誰よりも一番に自分を愛せって言えちゃうところがねえ」 「いやだから別に、殿下に対してとは言ってないんですけど?」 「じゃ、別に男がいるわけ」 「い・な・い・か・ら! んーーー!!!!」  じたばたする私。そんな私たちの会話を尻目に、エックハルト様に振られた子、ハンナはぷいとそっぽを向き、テーブルの上で組んだ腕に顎を乗せて、溜め息を吐く。 「……はあ。なんで私は最愛の人に心を打ち砕かれて、それであんたの幸せ自慢なんて聞かなきゃならないんだろう。私ってかわいそう」 「私ってかわいそう、って、あんた……」  この突っ込みを入れたのは私。どっちかというと、ハンナは悲恋の物語のヒロインみたいな気分に酔っていたのかもしれない。そのお相手がエックハルト様だった理由は、普通のメイドが接する機会がある貴人としては一番上の地位にあって、人間扱いしてくれる人だったから。ちょうど良い妄想の捌け口だったということだ。それは私に関する差し出し口も同じで、みんなそうだったら面白いという理由で囃し立てているだけのことだった。  だって身分違いの恋の成就なんて期待しては駄目なのが常識だし、成就したら逆に困ったことになりかねなかった。メイドは主人に比べると格段に、与えられる権利も選択の自由も劣っている。ただの都合のいい女にされかねない、そんな話はどこの世界でもありふれていた。 「というかさ! エックハルト様なんか、二十九歳でしょ、二十九歳! 十二も違う男に惚れ込んで人生棒に振ることなんてないって!」 「人生棒に振るとかさ、よく言えるよねー」 「だってあの人、自分でそう言ったんでしょ? それに悪い男でしょあの人、絶対そうだって!」  やっぱりエックハルト様に私は点が辛い。だって、勤め始めの頃に私は、エックハルト様に所有物の手鏡を壊されていた。逆にそれがなかったら、ハンナと同じようにエックハルト様に憧れていなかったとも限らない。正直怖い可能性だった。  でもとにかく、ハンナの将来設計のことを考えると、この件に関してもう少しエックハルト様を再評価せざるを得なかった。 『私みたいな人間と関わり合いになって、あなたの大事な人生を棒に振らないでください。お願いですから。あなたが思うほど価値のある人間じゃない、この私は』  エックハルト様はそう答えたらしい、ハンナの話によると。彼女だって本来は、将来の結婚やあるいは他のお勤めで箔を付けることを考えて公宮に出仕しているはずだ。あと一、二年すればそうなるはずだった。そんな使用人の人生設計を理解して尊重できるのは偉いと、たまにはあの人を褒めてやったっていい。  エックハルト様は公宮の中では個人的な人間関係を持たない、そういう評判だった。少なくとも宮廷の女性の中に誰それという恋人がいるという話は聞かない。それとは別に、月に何度か外泊しているとか、どこそこの令夫人と懇意だとか、そんな噂も立っていたが、それこそ下衆の勘繰り、余計なお世話というものだ。  職場で恋愛関係を発展させないことは、公私混同しない清廉さを表すとも考えられたが、いざとなったら手を切れる女たちとしか付き合わないという可能性も考えられる。そんな風にスレた考え方をするのは、アリーシャというより、むしろ前世の方、新井若葉の気がするけど。若葉は実体験がないくせにそういう方向に妄想を発展させがちだったのだ。  とにかくそんな感じだった、召使の間での、エックハルト様の評判に関しては。  エックハルト様は、私に対しては身分の差を分からせるようなことを言ってくることに変わりはなかった。でもそれは、私の身分や職階に対して公爵殿下の扱いが良すぎるからだ。分を弁えないとならないのは確かで、それは私のためでもあったのだ。だから、エックハルト様はきっと、根本的なところでは信頼を裏切る人間ではない。そんな風に私の評価は変化していた。  それだけに、エックハルト様の持病の話には、なんとなく暗い雰囲気が漂う。そんな他愛無い恋話に花を咲かせていたのはついこの間で、その頃はエックハルト様には特に変わった様子はなかった。それなのに今は明らかに様子がおかしい。それにエックハルト様が伏せっているのなら、公宮の仕事に支障が出ることだって考えられたし、誰かが困っていても彼の助力は得られない。  何よりも、この『持病』の期間のエックハルト様の噂は、そんな風に下の者たちからの信頼を勝ち得ている彼には似つかわしくない噂の立ち方だった。
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