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1章 少年君主
1.1 転生ミニバン
私が、私のたぶん前世、『新井若葉』としての記憶を思い出したのは、その馬が立ち上がった大きなシルエットが、太陽光を背後にして黒々と見えた瞬間だった。
前の人生で私が身をもって学んだことは、人生は甘くないということだ。
私は歴史が好きだった。
子供の頃から勉強はそこそこできて、親の勧めに従って、理系選択で大学に入ったけれど、歴史の勉強をしたい気持ちは諦められなかった。それで、大学院で科学史を専攻することにした。
けど、私は、苦汁を舐めることになった。
なんというか、私は歴史が「ただ好きなだけ」だった。
歴史の道を諦めたのは三年目の中途半端な時期だ。そこで、先に進むことを諦めて就職先を探したのだ。
で、その後が本当に間違いだった。それなりの企業のSEになったけど、ブラック企業ランキングに毎年上がってるような会社だった。私はそういうのに目端が利かない人間だったわけだ。ブラックな会社がそのブラックさでアイデンティティを獲得すると、人を使い潰すことをむしろ誇るようになる。
深夜二時を超えていて、私は帰宅の途にあった。今日が私の誕生日だったけど、もう昨日になっていた。これで正式に私は二十九歳だ、そんな年齢になってしまった。せめて、コンビニでケーキでも買って一人寂しく祝おうと思ったけど、もう過ぎてしまった誕生日を祝うこともない。それに、こんな時間にはとっくにめぼしいスイーツは売り切れている。
自動車のヘッドライトが照らしては過ぎていく、そんな薄暗い路地を私はふらふらと歩いていた。その時の私の格好は、髪型は何の工夫もない一つ結びに、ダークグレーのパンツスーツで、上にはっきりしない色のトレンチコートを羽織っていた。こういう服を格好よく着こなせる女性には憧れるけど、背が低くて地味顔の私には似合っていなかった。
(あー。こんなことだったら、真面目に将来を目指すんじゃなくて、もっとチャラく面白おかしく生きればよかったなー)
なんて、私は思っていた。
(生まれ変わったら今度は、男心を狂わせるような妖しい魅力のある女性に転生して……)
そんなどうしようもない妄想も、辛い今を誤魔化すためには必要だった。その翌日も、その翌日も、今日と変わらない日常が続いていくのであれば。
だけど、次の瞬間。
私の視界は強い白で埋めつくされる。
それから赤くなって、それから色が引いていく。
覚えているのは、自分が道路に転がっていたこと。
(……あー、やっべー)
そんな軽薄なノリで、私は自分の状況を分析していた。
生暖かい液体が頭や肩の後ろを流れている気がしたけど、それは私の血だったのか、それともガソリンか何かなのか、手にしていたコンビニのカフェラテをぶちまけただけだったのか。脳漿だったらどうしよう。
私は私を轢き逃げしていった車のことを思い出す。転生トラックじゃなかった、明らかに。トラックだったら今頃ミンチになっているだろう。まだ意識があるのが幸いなのか、そうでもないのか。確か、白のミニバン。ナンバープレートは思い出せる? 思い出せるわけがなかった。だって見てないんだもの。どうやら、私は私を殺した人間を警察に突き出すことには貢献できそうもない。そこまで思ってからやっと、私は自分の考えに慌てふためく、心の中だけで。
(うそうそうそうそ今のなし、死んでない死にたくない、生まれ変われたらなんてただの妄想、そんなのありえない、そんなの望んでない、死んじゃったら何にもならない)
そんな風に私は念じていたと思う。
(神様仏様、誰でもいいから私の運命を変えられる誰か。ダサい今の私のままでいいから、もう一回私のままで生きることを認めて、許して、お願いします、誰か、どうか)
ずっと勉強したかった歴史への愛とか、親への感謝の言葉とか、そういうんじゃなくて、本当にどうしようもない生への執着が、私の脳に最後に浮かんだ思考だった。
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