1章 少年君主

3/12
前へ
/74ページ
次へ
1.3 二人の人生の記憶  自室に帰った私は呟く。 「つ、疲れた……今日は、散々だったな」  私の居室であるメイド部屋は本来二人部屋だったが、同室者はおらず、私は目下のところ一人部屋としてのびのび生活できていた。  私、って一体誰。散々だったというのは、昨日や一昨日と比較して、その日が特に酷かったということだろう。昨日、大事件に遭遇したアリーシャ・ヴェーバーの、一昨日やその前の日は、特に何も起きていない平和な日だった。  でも、死んだ方の私の一昨日や昨日って何だろう。新井若葉は、記憶に残る一瞬前に車に轢かれて死んだ。でも、それが本当に一瞬前だったのかは分からない。  私は前の人生で、二つのことを願っていた。 『生まれ変わったら今度は、男心を狂わせるような妖しい魅力のある女性に転生したい』 『ダサい今の私のままでいいから、もう一回私のままで生きることを認めて』  今の私は、どうなんだろうか? この部屋に大きな鏡はなくて、やっと顔が写るような簡素な手鏡しか持っていない。ピカピカに磨いてガラスを張って酸化を防いだ、元の世界では珍しくもない鏡は、この世界の現代では贅沢品で、貴婦人の所有物だ。  前世の私は、身長一四九センチメートル、いかにも気の弱そうな優等生スタイルのパッとしない女だった。背は、その記憶にある『自分』より、かなり高くなっていたと思う。背の高さに相応して手足が長く、どちらかというと大人っぽい顔立ちで、前世の自分とは違う顔だ。  問題は髪だ。見た目にもゴワゴワしたまとまりの悪い赤毛だ。仕事中には何とかまとめ上げているが、朝には櫛を通すのも苦労するほどだ。それに肌も。色が白い代わりに、雀斑が、顔だけではなくて腕や足にも浮かんでいる。  こういう外見上の特徴は、元の世界では、個性の範囲かもしれない。でも、この特徴は、庶民であることの証左なのだ。それを、アリーシャ・ヴェーバーとして生きてきた十七年が私に伝えている。  私はアリーシャ・ヴェーバーでもある。でも、新井若葉でもある。記憶は私にそう伝えていた。十七年と二十九年、二人の人生が、自分のこととして記憶の中に残っており、別々のエピソードとして主張してくる。そのことから、今のところ私がどうなったのか、考えられるのはこれぐらいだ。  新井若葉は死に、アリーシャ・ヴェーバーとして転生して、ゼロ歳から新しい世界で人生を生きてきた。新井若葉の人生の記憶は、アリーシャ・ヴェーバーの人生の十七年目で蘇ったのだ。  パッとしない女が転生して、パッとしない女に生まれ変わるなんて、ちょっとあんまりなんじゃないの? 不幸な人生を生きてきて、それで転生トラックにはねられて死ぬと、超強いスキルや超スペックを手に入れて、強くてニューゲームできるんじゃなかったっけ。トラックじゃなくてミニバンだったから駄目なのか?  と、あまりに異世界転生ノベルのテンプレな思考、もっと言えば偏見を巡らせるのも馬鹿馬鹿しくなり、私は、エックハルト様より頂戴した褒美の包みに集中することにした。恭しく封蝋がしてある。 「へへ……いいなあ。こういうの」  私はちょっと機嫌を直す。こういう『歴史』っぽいアイテムは、前世の私の憧れだった。  見舞いの品は、上質なペンと、上質な紙束だった。こういうものは、この国では贅沢品だ。紙なんかは、現産地的に東洋の方が上質なものが、安く手に入っていたんじゃないかと思う。  かなり厚かましいお願いだったけど、でもこれを所望したのには、ちゃんと理由があった。  私はペンを取る。  頼りない燭台の灯の下で書こうとしているのは、私が覚えている、前世のことだ。自分のことじゃなくて、自分が得てきた知識のこと。この世界と違う世界があって、そこで生きてきたことは、今の私にとっては細い糸のようなものに思えていた。  そんな風に前の世界の歴史に思いを馳せつつも、同時に今いるこの世界について、私は現世の自分、アリーシャとしての知識を呼び起こす。  ランデフェルト公国が属しているのは、ヴォルハイム同盟諸国、と呼ばれる国家群だ。数十の大小の領邦諸国を公や候が統治している。貴族階級の形成は『失われた帝国』の所産だった。『失われた帝国』が置いた統治府の役職が世襲されたことが、現在の貴族階級を形成している。『帝国』の首府は南方にあって、その昔、この地は辺境にあった。  栄華を極めた『帝国』は突然消滅した、その理由はよく分かっていない。帝国滅亡後の百年ほどの歴史には分からないことが多い。  主君を失った辺境諸国は混乱に叩き込まれたが、やがて、元の統治システムを基盤にして、地域国家の体勢を整えていった。  幾多の国家滅亡や体制転換を経た後に、この地域の小国家群が形成したのが、『ヴォルハイム同盟』だ。同盟の意思決定の中心にあるのは、盟主であるヴォルハイム大公家を中心とした、『七人委員会』であり、ランデフェルトは小国ながら、七人委員会の末席にある。  一つだけ言えることがあるとすれば、こんな世界の物語を前世の私は知らなかった。  いわゆる異世界転生の物語では、主人公は現世で死んだ後、何かのストーリーの世界に転生する。そして主人公は、その世界でこれから起きるのかを知っている。待ち受けるのが想像を絶する悲運だとしても、どこを目指せばいいのか、最初に道標を得ている。一方の私には、この世界の設定も、筋書きも分からない。  だから私の物語は、異世界転生の物語としてはイレギュラーなのかもしれない。単に私がジャンルに不見識なだけという可能性も有り得るが。でも、異世界に放り出されたにしては、なんというか、いかにもな異世界感に欠けていた。  むしろこの世界は、私が知っている元の世界の歴史にどこかしら似ており、一種の疑似歴史、パロディのような世界だった。  歴史用語で例えるなら、『失われた帝国』は古代ローマ帝国。ヴォルハイム同盟は神聖ローマ帝国。七人委員会は選帝候会議。とすると現在私がいるこの国は、神聖ローマ帝国の影響下の、ドイツ領邦国家のどれかに対応しているはず。  でも違いもあった。同盟の性質が違うし、固有名詞も前世では聞いたことがない。歴史的な事件が起きている年代も違うと思う。それに、『帝国』の滅亡が西ローマ帝国の滅亡のことだとすれば、その理由が後世の人々に何も分からないことはないはずだ。ということは、今のこの世界の歴史は、元の世界の歴史とは明らかに違う。  それだけじゃなくて、今私が生きているこの世界の文化、風俗、歴史は、どこかしら全て、元の世界の私が知るそれとはずれが生じていた。言語すら元の世界とは違っていたと思う。大枠ではインド・ヨーロッパ系の文法的特徴を備えた言語であり、語彙にも共通点があったのだが。  このずれた感覚が気持ち悪いというか、何故かは分からないけど少し怖い、そんな感覚だった。だけどそれ以上の詳しいことは言えなかった。歴史オタクぶっているけど実際には私は無教養だと認めざるを得ない。 「疑似歴史パロディ世界観転生、かな?」  なんて、私は呟く。  その発想はどうなの、この世界を生きていく人間であるアリーシャとして、自分の生きている人生をフィクションとして捉えるのは。ちゃんと考えると嫌な話かもしれない、だけどこの時の私は、ちゃんと考えていなかった。私はこの世界の実相を知らないのだから、どっちだって大した違いはない、そんな程度の認識だった。  それよりも私は、昔の思い出に浸っていた、新井若葉としての。  ちゃんと歴史を学ぶ道を諦めたときは、趣味で歴史妄想の同人誌でも細々と書いて、コミケで出版して、十数冊でも売ったりできたらいいな、なんて思っていた。そういう媒体で真面目な歴史研究の書籍を出す人もいるにはいるけど、心が一度折れてた自分にはちょっと厳しい。こういうのは大手ジャンルにはかすりもしないで、同好の士だけで回してお互い楽しむような、文字通りの同人誌だ。  とは言っても、一冊も売れなかったら悲しいけど。 「でも私、絵描けないからなあ……。同人誌出したことだってなかったし」  私はボソッと言った。一度就職したら最後、そんな時間の余裕なんて全然なかった。それとも、私が絵に描いた餅だけで、それに向かって努力しようとしなかったのか。  誰も見向きもしないようなささやかな夢だったとしたって、ないよりはある方がずっといいし、実現できずただ日々を生きているよりは、一ミリでも夢に向かって何かできていた方がいい。 「…………あれ」  私は泣いていた。なんだか無性に悲しかった。新井若葉はどっちかというと不遇な人生を生きて、その特に不幸を感じていた瞬間に、とびっきりの不運が襲いかかってきて、それで死んだってことが。そこに、救いなんて一個もなかった。  そう、これは、私の人生に関する物語だ。  歴史学、それは、今まで数えきれない人間が建設に携わり、もう手を入れるところがないまでに完成された黄金の殿堂のようなものだった。まだそこに探求の余地があったとしても、付け焼き刃の徒手空拳では歯が立つはずもない。新井若葉はそれに挑んで、敢えなく敗れた。そして新井若葉の人生は、その過去の失敗に押し潰されていた。  新井若葉には未来が必要だった、それはもうなかったけど。そして、アリーシャ・ヴェーバーには未来があった。
/74ページ

最初のコメントを投稿しよう!

194人が本棚に入れています
本棚に追加