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1.4 人生の命題
「それで、例の子とはどうなの? ヨハン」
「……うるせえババア」
せっかく私が聞いたのに、弟、ヨハンはぶっきらぼうに応じるだけだ。
暴走事件から一ヶ月ほど経った頃のことだ。私は久々に実家に帰っていた。実家といっても、首都郊外にあるのだから、馬車を使えば公宮からは日帰りできる距離だ。初めてお休みが取れたので、実家で久々に羽を伸ばしている。
アリーシャ・ヴェーバーの実家は農家だ。農家と言っても、小さいながら農園を持っていて、人を使って経営しているような、この世界の基準としてはかなり裕福な方の平民だ。中庭ではガチョウが鳴いていて、使用人がそれを柵に戻そうと追い立てているところだ。
実家はやっぱり落ち着く、と、アリーシャとしての私は思っていた。アリーシャはどっちかというと引っ込み思案な田舎娘で、首都の生活にもあまり慣れていない。
「んな話はどうでもいいんだよ。それより、お前のことだよアリーシャ。どんくさいアリーシャが宮殿のメイドなんか、本当にやってけんのか?」
「ど、どんくさい……」
ヨハンは私、アリーシャ・ヴェーバーの一つ歳下の弟だ。今は、家業を手伝っているが、それと同時に上の学校に通うための準備をさせていた。
ヨハンは私とよく似ていた。正直言って同じ顔だった。ヨハンは私よりずっと背が高くて面長だが、髪、肌、目の感じ、その辺りが似通いすぎていた。
私はヨハンの言葉を、心の中でなぞる。なんで宮殿のメイドなんか。それを説明するのは難しい。特に、弟のヨハンには。膝の上で握った自分の手を私は見つめていた。
アリーシャ、前世の記憶が蘇る前の私が元々思い描いていた夢は、実現しそうもない野放図な夢だったと思う。
アリーシャが子供の頃に夢見ていたのは、いろんな国を旅することだった。世界のいろいろな物事が書かれた本を読んでは、自分がその場にいたらどんな風に感じて、どんなものを見るのか、そんな想像で日々を埋め尽くしていた。
そんな夢は、しがない平民の娘、格別美しくもなければ特別な能力も持ち合わせていないアリーシャには実現は難しい、それは大人になるにつれて分かることだ。だがアリーシャは少しだけ、他の女の子たちより諦めが悪かった。自分の代わりに、弟のヨハンに自分の夢を叶えてもらおうとアリーシャは思っていた。ヨハンが出世して偉い官吏になれば、ヨハンはいろんな国に出かけられる、それがアリーシャの考えだった。
それには先立つものが必要だったと、それがアリーシャの宮仕えの理由だった。実家の資産をかき集めれば、ヨハンが上の学校に通う費用だって捻出できたかもしれないが、アリーシャとヨハンの両親は野心が薄く、現金収入にも貪欲ではなかった。
この時代、女性が働きに出たい、そして、それなりの地位が欲しいと思った場合、選択肢は少ない。良家の子女の家庭教師になるほどの幅広い教養は身につけていないし、家柄も釣り合っていない。庶民の子供のための私塾の先生であっても、コネがなければ覚束ない。その点、為政者の宮殿に仕える召使の身分は、直接現金収入になり、平民の女性としては将来に向けて箔を付けるのにも適している。身分や教育程度から鑑みても適当な働き口と言えた。
これが、記憶を取り戻す前の私が、これまで生きてきた人生を決定づける動機だった。一方のヨハンだが、アリーシャの宮仕えにはいつも辛辣だった。間の悪いアリーシャの性格が人に使われるのには向いていないと、そういう考えのようだった。
「アリーシャ。……姉さんは、その鳥の巣頭さえなかったら、結構美人なんだから。そのくせどんくささは人一倍ときてて。タチの悪い男に目を付けられるなよ」
「…………」
私は無言で苦笑いした。どうやらヨハンのアリーシャの外見に対する評価は、アリーシャの自己評価よりも高い。
それから私は、少し考え込む。アリーシャ自身は、貧乏臭いしあまり女らしくもない、高貴な殿方が見初めるなんておよそ起きそうにもない、そんな平凡な外見と思っていた。でも若葉として見たときにはどうだろうか。身長百六十五センチぐらい、せめて百六十センチは欲しかったと、若葉はいつも思っていたし、赤毛に緑がかった目は人類全体から見るとかなり珍しい部類だ。そんな風に前世の記憶を踏まえた私の考え方は、それ以前のアリーシャと同じままではいられないのだった。
私は死んで、多分生まれ変わった。アリーシャ・ヴェーバーとして、この世界のこの人生に。
だけど問題がある。私には物語の筋書きが与えられていない。ということは、私は自分の物語、人生の命題を、自分で見出さなければならないということだった。と言うと格好良さそうだが、要するに人生設計をもっと真面目に考えろと、それだけの話だった。
アリーシャは、私は、自分のために生きなければならない。
ヨハンを官吏にすること、そしてそのための宮仕えは、ある意味ではアリーシャ自身の不純な動機に拠っている。だけど、自分の人生を自分のために生きているという感覚ではなかった。
そんな風に代替欲求を何重に構築した上で、それが叶うのを見たら、自分は平穏な人生に着地する。それが今までのアリーシャの人生設計だった。
ねえ、本当にそれでいいの、私?
今まではそれで良かった、前世なんてものを思い出す前だったら。私は死んだ、世界中で一番孤独だと思って、自分自身の生温かい血の感触に震えながら。どうだっけ、あんまり痛みは感じてなかったっけ? もう痛みを感じなくなっていたのか、それとも記憶が薄れているだけなのか。でもそんなことはどうでもいい、今の私には。
私は死んだのだ、せめてこの人生ではその取り返しが付かないと、私は死んでも死にきれない。異世界転生を司る上位存在から与えられていない強烈な物語を、私は自分で作り上げないとならなかった。
でも、私に何ができる? 何か私に出来ることってあったっけ?
アリーシャが知らないことを若葉は知っている。
前世の世界では、新井若葉が得ていたのは大した知識ではなかった。私は偉大な知識の殿堂の入り口で挫折して諦めた甘っちょろい学生で、何も知ることができなかった。
でもそれは、あくまで元の世界での話。
近世ヨーロッパに近い発展度と思われるこの世界では、若葉の知識で打開できる物事だってそれなりにあるかもしれない。特に、若葉は『科学史』が好きだったのだから、この時代の発展度に合わせた知識を提供することで、有益な技術革新に貢献することだってできるかもしれないのだ。
私は多分、自分の人生の主人公になりたかったんだと思う。新井若葉として、そして、アリーシャ・ヴェーバーとして。
「……ねえ、ヨハン」
私は口を開く。
「なんだよ。ずっと黙ってるからどうしたのかと」
「あのさ。私、やりたいことがあるんだ。今の私の仕事と、あんたの力を使ってさ」
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