1章 少年君主

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1.6 エックハルトの誘い  ヘロンの蒸気機関のお披露目から、数日後のことだった。 「アリーシャ殿」  そこは公宮の外郭の廊下だった。私を呼び止めたのはエックハルト様だ。この宮殿で、アリーシャ殿、なんて私のことを呼ぶのは、エックハルト様ぐらいのものだ。 「なんでしょう」  私は少し緊張しつつ、エックハルト様の前に立つ。 「こちら、アリーシャ殿のものでしたか?」  差し出されたのは、小さな手鏡。 「えっ……あっ」  確かに私の所有物だった。実家から持ってきた小さな手鏡。  でも、今、それは、真っ二つに割れている。 「先日廊下を歩いていたら、何かを踏みつけましてね。足元に、これが落ちていたのです」  ちょっとだけショックだった。  その手鏡は傍目に上質なものではなくて、公宮の人たちの前でこれを使っている姿を見せるのは気が引ける。でも、朝から時間が経つとだんだんボサボサしてくる私の頭のことを考えたら、持ち歩かないわけにもいかない。  ということでポケットに入れて、隠れるように使っていたのだが、二、三日前から見当たらなくなっていた。でも、こんなものに半狂乱になるのははしたないと思われそうで、ちゃんと探すことができないでいた。 「そうです。私のものですが……どうして、エックハルト様が?」 「偶然拾ったと」 「そうではなくて。どうして私のものだと、分かったのですか」  私の疑問に、ふふ、と、エックハルト様は笑う。 「使っているところを、拝見してましたから。……何度か、ね」 (み、見られてたーーー!!!)  私は羞恥心で爆発しそうになる。こっそり使っていると思ってたのに。それも、その相手が、貴族文化代表みたいな瀟洒なイケメンで。 「どうやら私は、あなたの大切なものを壊してしまったらしい。この埋め合わせをさせていただけますか?」  そう言ったエックハルト様が提案してきたのは、公宮の一室内でのお茶会だった。 「お口に合うでしょうか」  目の前のグラスのカップには、青い液体が注がれている。 「青い、ですね」  私は言わずもがなのことを言った。  お茶会の日だ。私が通されたのは、公宮内の奥まったところにある一室だ。  ティーテーブルは置かれているが、いわゆるティールームではなくて、どちらかというとゲストルームのような雰囲気だった。部屋の一区画には寝椅子と、サイドテーブルのようなものも置かれている。  まあでも、これはお詫び、だから。  私のようなものが正式な賓客であろうはずもなく、手頃な部屋に通されたところで、私にはなんの不満もない。 「丸葉葵の花と、ニワトコの花のブレンドです」  エックハルト様は、お茶の成分を一言一言説明してくれる。丸葉葵の花とニワトコの花、つまりブルーマーロウとエルダーフラワー。つまり植物種は元の世界と共通しているらしい。 「は、はあ」  私はそう言って、お茶を飲み干した。ブルーマーロウやエルダーフラワーのハーブティは元の世界にもある。やっぱりこの世界は、いわゆる『異』世界と比べると、元いた私の世界と近い。 「いかがです?」 「美味しいです、とっても」  そう答えたものの、緊張して味なんかわかるはずもなかった。  エックハルト様とは何度か会話していて、親しみすら覚えるようになったけど、こんな二人っきりの会合はやっぱり緊張する。  エックハルト様は目を細める。 「そろそろ、本題に入りましょう。あなたの手鏡の、埋め合わせの品ですよ」  エックハルト様が差し出したのは、紫色の可愛らしい包みで、白いリボンがかけてある。 「開けてください」  私は包みを開ける。  入っていたのはもちろん手鏡。だったのだが。  その色や光沢から、銀製と思われた。細かい装飾が施されて、柄には小さなアメジストの飾りまで付いている。 「すごい、です」  それは、私のお給金が何回分か吹っ飛ぶような品かもしれない。豪奢で繊細で、こんな私には、とても似合うとは思えないような品だ。 「お似合いですよ、とても」  私の内心を見透かしたようにエックハルト様は言った。いつの間にか私の側に立っていて、手鏡の柄を握る私の手を軽く、その指の長い手で包む。 「ヒッ!」  素っ頓狂な声を上げてしまう。 「そんなに、警戒しないでください。私は、あなたを知りたいのですよ」 「ご存知でしょう?」  アリーシャ・ヴェーバーはなんの変哲もない、平凡な庶民だ。エックハルト様が改めて知る必要があることが何かあるとも思えない。 「そうでしょうか?」 「私の身分も、身元も。就職の際に、散々照会されましたから」 「あなたはご自分のことを語ってくださらない。ご自分自身の言葉で、ね」  そう言ってエックハルト様は、片手で私の頬を撫でる。 「何が、知りたいんです、か」 「あなたが、何を知っているのか。そして、何を知らないのか。どうやって殿下の関心を、それだけ短い期間に獲得できたのか」  そして、最後のエックハルト様の言葉は、まるで、突き刺さるようだった。 「あなたは本当は、誰なのか」  私は答える。出来る限り冷たく聞こえるように、動揺は伝わらないように。 「これは、個人的な興味や、交友のためではない。そう仰りたそうですね」 「私が、そんなことを言いましたか?」  エックハルト様の口調は、柔らかくて、そして冷たい。 「個人的な興味や、交友のためではない」とは、確かに言っていない。だけど、「個人的な興味や、交友のため」だとも、最初から言っていない。  何を知っているのか。何を知らないのか。私は本当は、誰なのか。 「失礼します」  出来る限り白けたように振る舞い、冷淡に立ち去ろうとする。私の声は震えていた。 「……困りますね、それでは」  エックハルト様は私の腕を掴む。 「離してください」  掴まれた腕はぴくりとも動かなかった。 「これは、尋問ですか?」 「そう取っていただいても構いませんよ。……あなたは、先日の謁見で仰いましたね。『この蒸気機関を応用すれば、馬に引かせるのではなく、燃料を燃やして動く車も、いずれは実現することができます』なぜです?」 「なぜって、なぜ?」 「まだ起きていないことを、なぜあなたが知っているんですか?」 「今後の可能性を論じる事は、未来を予言することではありません」 「ほら、それだ。普通、そういう話し方はしないんですよ。普通の田舎娘だったらね」 「…………!」  どうやら私は失言したらしい。 「アリーシャ・ヴェーバー。首都郊外の農園出身。十二歳まで近隣の私塾に通って読み書き等を習得。その後は家業を手伝いつつ、弟の進学のために雇われた家庭教師に、ついでに教育を受けていた。それより上の高等教育を受ける機会はなかった。……でしょう?」 「私がもっと……愚かであるべき、だと」 「腹を割って話し合いましょうか。あなたは、一体誰なんですか」  私の抗弁をエックハルト様は軽く受け流す。論点を逸らすな、とでも言いたげに。  田舎娘、か。 「いいでしょう。ただし、条件があります」
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