1章 少年君主

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1.7 リヒャルトの論述  私の話に、リヒャルト様は無言だった。  私は膝の上で俯いて、拳を握っている。  その日のうちのことだ。ここは公宮内の一室。テーブルを挟んで相対するのはあの少年君主。しかめ面で腕を組んでいる。  私がエックハルト様に出した条件は、『リヒャルト様に、私の正体を話す』事だった。エックハルト様ではなく。リヒャルト様がいる場所には、エックハルト様も同席するわけだけど。なぜって?  エックハルト様は、私の話を信じない。嘘をついていると判断されれば、私の未来は閉ざされる。リヒャルト様が信じるかどうかは分からない。信じてもらえる可能性は低いと思う。けど、エックハルト様の疑念を覆して私の運命を変えられるとしたら、多分、彼だけだ。  自分の前世の記憶について、私はリヒャルト様に、喋れる内容を簡潔に語った。もちろん私が挫折しましたとか、ブラック労働で追い詰められましたみたいな話はしていない。前世については、大学まで出ていた記憶と、元の世界の特徴を簡単に、その記憶が先日の暴走事件で蘇ってきたことだけを私は伝えていた。大学院については伝えない、だって私はそれを修了していなくて、単位取得退学だったから。そんな前世の話も情けないけど、それ以上に今の状況は目も当てられなくて、私は破れかぶれだった。  長い事黙っていたリヒャルト様が、口を開く。  「……にわかには、信じがたいな。だが」  私は目を瞑る。  私はやっぱり運が悪い。  私だけならいいけど。  ヨハンまで巻き込んじゃったらどうしよう。  やだ。それだけは絶対に。 「だが、わざわざ信じられない嘘をつく理由もないな。……もういいだろう、エックハルト」  私は顔を上げる。 「殿下。あなたの安全より優先されることなど何もないのですよ。疑問があるかぎりは解決すべきです」  そんなことを言うエックハルト様に、リヒャルト様は彼を見据えて、言葉を続ける。 「手鏡を使って金星号の目に光を当てれば、あいつを暴れさせて、自分の方に誘導することができる。最初のきっかけからして仕組まれたものだった。そういう推測だったな」 「ええ、まあ」 「さすがに無理があるだろう。そんな小細工で、言葉の通じない馬に自分を踏みつける真似だけさせるなんて」 「たとえ金星号が暴れただけで、自分の方に向かってこなかったとしても、単なる事故で片付けることができますからね」 「お前は金星号を理解していない。そんな真似をされてみろ、あいつが踏みつけないわけがない、実際に」  エックハルト様は小さく溜息を吐く。 「あなたこそ、金星号の気性に信頼を置き過ぎではないですか? どのみち、彼女が何らかの目的を持ってあなたに近付いた可能性を否定できない」 「もう少し焦点を絞ってくれ」 「では、最初の邂逅についてはとりあえず置いておきましょう。どのみち問題は、件の『蒸気機関』について、何故彼女が知っていたのかです。それを製作して披露しようというのは、格別の厚意を得ようという意図が感じられる」  そう言ってエックハルト様は、涼やかな、そのガラスのような目で私を見る。 (くっ……)  私は歯噛みする。弟を取り立てて欲しいからという理由で披露するには、蒸気機関の実演はこの時代の人にとっては効きすぎる代物だったのか。 「で、なぜ知っていたのか。その理由を彼女は、その奇妙な『前世』とやらの知識だと主張していると。やっとここまで辿り着いたな」 「それはとても信用できるものではない。それはそうでしょう」  リヒャルト様は少しだけ考えていた様子だったが、すぐにまた口を開く。 「お前の疑問には一つ欠けている点がある。何のためだ?」 「は?」 「もし彼女が私に近づく目的で送り込まれていて、学識を披露することも最初から計画していたのだとすれば、それを突っ込まれた場合でも、もう少し自然な言い訳を準備しているだろう。わざわざとても信じられない話を用意する必要がどこにある?」 「そんな理屈であなたが彼女への疑いを解こうとしていることが、一番の理由と成り得ます」 「そういう論理を構築するのであれば、お前にも逆のことが言えるぞ。お前がそもそも彼女を疑った理由が、まだ実現していない技術について述べたことだ。自分を疑わせないことが目的としたら、そんな大それた話について語る理由がない。その理由について、尤もな可能性を指摘できるか?」 「直ちには」 「ほら見ろ」 「では、あなたの主張の方をお聞きしましょうか。彼女が……そうですね。彼女がどこかから送り込まれた間者ではない、そう考えられる論拠はありますか?」 「そうだな。……アリーシャ・ヴェーバー。身元は確かで、紹介者にも不審な点はない。それが意味するところは、その経歴が真実か、よっぽど上手く偽装したかだ。偽装したとして、その目指すところがその奇矯な身の上話の裏書きというのは成立しない。それが一つの論拠だ」  エックハルト様は無言になる。 「そして、もう一つの論拠だ。……こんな、間抜けな間者がいるか?」  そう言ったリヒャルト様は、楽しそうな、ちょっと意地悪そうな、でも眩しいくらいの笑顔で。 (くっ…………)  私はたぶん、赤面していたと思う。あの、最初の謁見。間抜けだって思っていたけど、本人から改めて言われると辛いというか、恥ずかしいというか。でもその自分の間抜けさのおかげで助かったわけだけど。 「そもそもな。怪しい、までは言えても、それが何を意味するか、までは言えないだろう。ただ単に怪しいからと言って処断はできないだろ」 「そのあなたの甘さが命取りにならなければいいですが」 「彼女に命を取られるほどは私も落ちぶれてはいないぞ」  まだ何か二人は話している。それは私にとって、不名誉な事実を指すのか、そうでもないのか。脱力していた私にはよく分からなかった。  でも一つ、私にだって言えることがある。  この少年、本当に頭がいい。 「殿下は本当に口が立つ。誰に似たのか」 「血の呪いだよ、大叔父上殿」  私はあらためて二人の様子を眺める。処置なしという顔のエックハルト様に、リヒャルト様はなんといか、ニヤニヤしている。  大叔父って。エックハルト様は公爵筋の庶子ということか。それにしては準貴族って、地位が低い気がしないでもないけど。それに、叔父じゃなくて大叔父? 「まあ、お前は気にするな。それにな、エックハルト」  リヒャルト様は椅子に座り直して、鷹揚な笑みを浮かべて続ける。 「私はあれが気に入った。ヘロンの蒸気機関も、それから、その未来の応用の話も。できるというなら、やってもらおうじゃないか」 (えええ……えええええ……)  その時の、私の気持ちを説明するのは難しい。なんというか、急展開イベント、みたいな。完全に萎んでいた希望の芽が生き返って吹いてきた、みたいな。でも何気に、ハードル上がってる、みたいな。 「我が父祖エルンストの掲げし家訓は『使えるものは何でも使え』だ。お前の力を借りたい」  リヒャルト様は立ち上がる。そして近づき、私の手を取って、跪く。 (え、なんで? 仮にも君主様が、やめてよ。いや、やめてじゃなくて)  私はジタバタしていたんじゃないかと思う。私の手を取るリヒャルト様の手に力が入る。 「大人しくしろ。……なんと呼べばいい?」 「……前世の名前は、『新井、若葉』と。でも、殿下。どうか、アリーシャ・ヴェーバーとお呼びください」  悩ましい、とは思った。若葉の知識で今のシチュエーションに至っているのにその名前を名乗らないことは、新井若葉の人生を不遇なままで捨てることになるのかもしれない。  でも、これはもしかして、アリーシャの人生のクライマックスになるかもしれなかった。私が今アリーシャではなかったら、アリーシャの人生はどうなる? 自分だけど自分ではない誰かに、人生の大事な場面を乗っ取られるのは、アリーシャが可哀想だ。  それに、なんか普通の日本人の名前で呼ばれるの、なんか、嫌じゃない? 「……私、リヒャルト・ヘルツォーク・フォン・ランデフェルトは、理学士『新井若葉』、こと、アリーシャ・ヴェーバーに、その学識と智慧を伝授することをここに嘆願する」  部屋を退出する私の後ろから近づいてくる、背の高い人影があった。  エックハルト様は、私に耳打ちする。 「失礼ながら、あなたの行動には目を配らせていただきます。どうか、おかしな真似はされませんように」   私は冷たく、横目で彼を睨み返した。 「ええ。注意させていただきます。それから」  そして、紫の袋と、白いリボン、それに銀の手鏡を突き返す。 「これ、お返しいたします。田舎娘には、やっぱり似合いませんから」  真っ二つに割れていた方の手鏡、お茶会の尋問。  私は今、考えている。  尋問のきっかけを作るために、私のポケットからエックハルト様が盗ませて、二つに割って返したと。わざわざ手鏡を選んだのは、彼が疑っていた、金星号の暴走のきっかけを尋問する流れを誘導するためだったのかもしれない。  これはもしかしたら私の邪推で、私が偶然落とした手鏡を見て、この作戦を思いついたのか。あるいは彼の言う通り、手鏡を踏んで二つに割ってしまったところまで真実なのか。いや、これは信用しすぎだと思う。こんな風な人を信じない人間をこちらが忖度して余計に信じてやることなんてないし、計算済みで行動していると考える方が自然だろう。  とにかく、アリーシャにとっては。あの手鏡は、十三歳で初めて、自分で選んだ思い出の品だった。 「あなたにはご無礼を」  エックハルト様は手鏡を受け取って、そう返事する。彼から引き出せそうな謝罪はこれが精一杯のところだろう。 「リヒャルト様は我らに取ってかけがえのないお方です。下手な失策で傷つけるわけにはいかないのです。……リヒャルト様がどんなお方なのか、あなたにもお分かりいただけたでしょう」  この時点での、私の気持ちはこうだった。  リヒャルト様は切れ者の君主様。ちょっと言葉が過ぎるけど、それでも私を信頼し、尊重してくれている。だから、私もその信頼に応えたい。  だけど、エックハルト様はなんか、ひたすら腹立たしい。瀟酒で優雅なお貴族様だけど、信頼できない人だし、あちらも私を信用してはいない。だから、今後はなるべく関わり合いにならない方がいい。  ところが、また彼とは関わり合いになってしまったのだ。それも、予想外の形で。
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