第三章 予感

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 あの日から数回のチャレンジを経て、彼はついに洗濯のコツを掴んだらしい。石鹸はナイフで一削り分、風は少し弱めに、乾かすのは太陽で。  ヴィラのやり方だと、シーツやカバーなどの大きい物でも簡単に洗えるから、つい色々とお願いしてしまう。二人になってからは洗濯物の量もぐんと増えたし、これにはかなり助かっていた。   「あ、ほらあそこだよ。小さい湖だけど、案外綺麗なとこだろ」 「あぁ、綺麗ではあるが……やけに静かだな」 「動物たちがいない分、そう感じるのかもね」  今日は遠出をして、家から少し離れた湖に来ている。この森には全部で三つの湖があるのだけど、この場所は、とある理由から動物たちも寄り付かない。  その理由に当たるのが、この湖の辺りに自生しているキノコ。通称 "スリープマッシュ" だった。濃い紫色の傘と赤い斑点が特徴で、いかにも毒があります! と宣言しているような見た目だが、意外なことに有毒性はそこまで高くない。しっかり水洗いすれば、一応食べれる部類ではあるのだ。  ただ、このキノコの最大の危険要素はにある。つつく、もしくは振るなどの刺激を与えると、大量の胞子が放出されて、脳の働きを抑制するのだ。簡単に言えば、頭が回らなくなって眠くなる。  これだけ聞くと大した事じゃないようにも思えるけど、大量に摂取すれば幻覚や頭痛を引き起こし、大型の魔獣ですら死に至らしめるのだ。  そのため、薬師や医師の免許を持つ者のみに採取が許可されており、もし免許を持ってないものが採取すれば厳罰を受けることになる。……つい長々と話してしまったけれど、それほどまでに恐ろしいキノコなのだ。 「いい? 絶対それ以上近づかないでよ」 「あぁ、わかった」    本当はヴィラを連れて来たくなかったけど、危険性をこんこんと説明しても、ついて行くと言って譲らなかったので、離れた場所で待っていることを条件に許してしまった。  清潔なタオルで鼻と口を覆い隠すようにして結び、その上から、さらに編み目が細かい布で顔の下半分を覆う。両手に布手袋をはめ、最後にゴーグルをつければ準備は完了だ。  採取用の密封できる試験管を取り出して、スリープマッシュへと近づく。  ゆっくりとしゃがみ込んで、道中に拾っておいた木の枝で何度か突つついた。途端にボワッと膨らんで胞子を吐き出したので、素早く試験管を近づけて採取。これをキノコを変えながら三~四度繰り返すと、試験管には親指ほどの量の胞子が溜まっていた。これだけあれば十分だ。  服にも胞子がついてしまっているので、湖の中に服ごと入って、隅々まで綺麗に洗い流す。  息を止めたまま口元の布を取り、これも素早く洗い流した。ついでに試験管の胞子も拭い、最後にゴーグルを洗えば、ようやく肩の荷が降りる。水を滴らせながら、鞄を置いていた場所に戻ると、ヴィラにタオルを被せられた。 「ありがと」 「随分厳重なんだな」 「そりゃあ、実際に死んだ人もいるからね」  粗方水気を拭き取ると、ヴィラが風魔法で乾かしてくれた。今までは濡れたまま家に帰って、浴室に直行していたから、とてもありがたい。  ヴィラは最近、前にも増して魔法を使うようになった気がする。最初の氷剣以降は魔法を使っている姿を見なかったから、重力操作を見た時は尚のこと驚いたのだ。  あの後から段々と魔法を使うことが増え、かくいう自分も結構頼ってしまっている自覚はある。考えたくはないけれど、これではヴィラが居なくなった時に困るだろう。……いい加減反省しなければ。 ▽  さて、今日のご飯は何にしようか。鳥肉の蜂蜜ソテー、豚肉のトマト煮、マッシュグラタンでもいいな。とりとめのないことを考えながら、帰り道を歩いていると、いきなり割れるような大声が耳をつんざいた。 『グゥルルギオァガ!!!!!』  咄嗟に耳を塞いで体勢を低くする。  ヴィラに目で合図を送り、近くにあった茂みに隠れた。長くこの森に住んでいるが、あんな魔獣の声は聞いたことがない。声の大きさからして、かなり近くにいる筈だった。  下手に動けば狙われかねない、今はここで身を隠すのが最適解だろう。バキバキと左の方から木を踏み倒すような音がして、茂みの間から目を凝らす。  なんだ………あれ…………。  現れた魔獣は、見たこともない程の大きさだった。ゴツゴツとした岩のような鱗が全身を覆い、大きく開いた口からは、人の腕程もある鋭い牙が覗いていた。巨大なトカゲのようにも見えるが、大きさからして全てが規格外すぎる。  その魔獣は地面を揺らし、木を踏み倒しながらも、確実にこちらに向かって来ていた。あまりの恐怖に体の震えが止まらない。あ……どうしよう、…怖い。 「大丈夫」  浅い呼吸を繰り返していると、ふいに強い力で手を握られた。 「ヴィラ………」  大丈夫だと言った彼の手は、ほんの僅かに震えていた。当たり前だ。あんなもの怖くないはずがない。  光を全て吸い込むような黒い目玉が、ぎょろりとこちらを捕らえて(またた)いた。  ああそうだ、なんですぐ思い出せなかったんだろう。昔、お爺さんが持っていた図鑑で見たことがある。ゴツゴツした鱗、鋭い牙、真っ黒な目玉。図鑑で見ただけで怖くなってしまって、その夜は一人で眠れず、お爺さんのベッドに潜り込んだ。あれは……そう、エレメントデビル。  別名を─── 「元素喰いの、悪魔」
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