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五 涙の行方
小樽の朝。カモメが飛ぶ運河沿いの道。潮の匂いの中、荷上げをする者達の威勢の良い声が響いていた。その中を繭子は歩いていた。白いブラウス、紺のスカート、革の靴。長い髪はまとめて結び、顔の傷はそのままで進んでいた。
宿泊している寮は変わらず。硬い板間で寝るのも慣れた今日この頃。朝と夕刻はこの大部屋ではトロッコ仲間と会話ができていた。そんな繭子は青山ビルに入っていった。元気な挨拶をした彼女、秘書室に入っていった。
秘書室の奥には社長室。静也も森田もまだ来ない早い時間帯。繭子は仕事を覚えようと先に作業を進めていた。そんな秘書室に足音が響いてきた。
「おはよう」
「社長。おはようございます。今朝もお早いですね」
「ああ」
最近の静也。早く出社していた。仕事が溜まっていたとか、朝の方が涼しいとか。色々言い訳していたが、今は繭子との仕事が楽しいのが本音の彼。それは言わずに仕事をしていた。
「社長。今朝はお紅茶をいかがですか」
「紅茶か」
「はい。昨日、いらしたお客様に頂いたお紅茶です」
笑顔いっぱいの繭子。静也、眩しくて見られずにいた。
「俺は、お前が淹れたものなら何でも飲むぞ」
「はい!」
繭子は元気に部屋を出て行った。新聞を読んでいた静也は、やっと顔を上げた。
……はあ。なんというか。
今まで彼のそばにいた女性と違う繭子。清楚で真面目。そして頑張り屋。静也はそんな繭子が可愛らしくて仕方がなかった。自分が贈った服を着ている彼女。あの夜。洋服を着るのは初めてと不安そうな瞳。静也は忘れられなかった。
……だが。あいつは秘書だし。
真面目な娘は自分の秘書。私情を出したら、彼女は辞めてしまうかもしれない。静也はそれほど繭子を思うようになっていた。しかし。彼には婚約者がいた。今のままではいけない。静也はそう思っていた。その時、部屋に森田が入ってきた。
「おはようございます。社長。今日も早いですね」
「ああ、仕事が溜まっているのでな」
そこへ。元気な声がした。
「失礼します。森田さん、おはようございます」
「おはよう!」
森田にも同様の笑顔。眉をひそめる静也。そんな彼へと繭子は進んだ。
「これは昨日いただいた紅茶です。セイロン産です。社長、どうぞ」
先に静也に渡した繭子。静也、ニヤと笑ってこれを飲んだ。
「うん。飲みやすいな」
「香りが高いですよね。森田さんもどうぞ」
「ああ。いただくよ」
飲んでいる二人。繭子は自分の席についた。こうしてこの日も一日が始まった。
◇◇◇
この日の夕刻。静也は森田とホテルの集まりに来ていた。
「緊張しますね」
「落ち着け。やっと招待されたのだぞ」
経済、政治界の名士が居並ぶ夜会。北海道の大物が参加していた。静也が社長をしている青山物産は元は中規模な商店。彼の父が亡くなり後を継いだ静也が大胆な投資と、創造性あふれる貿易にて、数年で大きくした会社である。このため彼は成金と嫌われ、老舗会社の大物の集まりにはなかなか招待されなかった。今回は、取引先の社長の導きで、ようやく参加に漕ぎ着けた静也。この夜会デビューに力が入っていた。
燕尾服で決めて来た静也。身なりは申し分ない容姿。夜会に参加の女性達は、頬を染めて彼を見つめていた。そんな静也は、知っている顔を見つけた。
「北海水産さん!」
「ああ。青山さん。これはどうも」
立食パーティー。北海水産の社長は笑顔で静也と乾杯をした。
「どうですか。このような席は」
「不慣れなのでお恥ずかしいです。ところで、先日、お手紙に書いてあったアラスカの鮭の話ですが」
「ああ……それは、また、その時に」
「は、はい」
……ん?急に機嫌が悪くなったようだ。何か気の触ることを言ったかな。
静也にしてみれば、せっかく会えたので話したい内容だった。しかし。他の参加者もなぜか仕事の話には顔を暗くしていくこの会。静也もだんだん話をしなくなっていた。その時、森田が血相変えて静也の元にやってきた。
「社長、大変です」
「どうした」
「あ、あれ」
「ん……え」
そこには。真っ白なドレスで微笑むムギがいた。彼女は嬉しそうに静也のそばにやってきた。
「こんばんは」
「どうして、ここに」
驚きの静也。ムギは化粧で盛った顔で微笑んだ。
「静也様のお母様に聞いたのよ?今夜はパートナーと一緒の席なんでしょう」
「だが、お前」
勝手にやってきたムギ。甘えるように静也の腕を絡んだ。ムギは小樽で一番の高利貸し娘。彼女が静也の許嫁候補であるのは周知の事実。二人の様子を一同は見ないように見ていた。
「ね?いいでしょう」
この雰囲気。帰ろとは言えない静也。諦めた。
「大人しくしているんだぞ」
「わかってる!あ、私、あのお酒を飲んでみたい」
はしゃぎ出したムギ。静也は必死に他の参加者と懇談しようとしたが、会話は空回り、ムギは大興奮。結局、何の成果も得られないまま、静也は夜会を終えた。
◇◇◇
「はあ」
「どうなさったんですか。社長」
翌日の青山ビル。昨夜の夜会の失敗を静也は引きずっていた。繭子はそれに構わず彼にお茶を出した。
「あの、社長。先日、いただいたお紅茶ですが」
「ああ」
「礼状と、お返しの品はいかがされますか」
「ん。なんだそれは」
じっと見る静也。繭子の方こそじっと見た。
「え?あの……下さったお客様への礼状と、今度お見えになった時に、お返しのお土産を考えようと」
「そんなことをするのか」
「……していなかったんですか」
無言の二人。ここに電話が鳴った。見つめ合ったまま繭子が取った。それは今、話をしていた紅茶をくれた取引先だった。
「はい。おります。お待ちくださいませ……社長、紅茶のお礼を言ってくださいね」
「わかってる!代わりました、青山です。先日は美味しい紅茶をありがとうございました……え?どこが良かったかって」
繭子はそっと使っていない耳に囁いた。
「セイロン産の貴重なもので、飲むのが勿体無いです、と」
「はい。セイロン産の貴重なものとかで。秘書が飲むのが勿体無いと申しております」
おかげで朗らかな会話になった電話。このまま取引の返事を聞けた静也、ほっとした顔で電話を切った。
「助かった」
「礼状はこれで不要ですね」
笑顔の繭子。これを静也はジッと見た。
「……篠原。お前、秘書の仕事は初めてだよな?」
「はい」
「では、以前は何をしていたんだ」
真っ直ぐに聞いてきた静也、繭子。ドキとした。正直に言えば、自分は呉服屋の娘。札幌の繁華街の女性が着物を買いに来る店を手伝っていた。さらに顧客はお茶の先生、生花の先生、日本舞踊の先生など。礼儀作法にうるさい相手に、亡き父は細やかな対応をしていた。
……なんと言えばいいのかしら。
戸惑っている間。静也は顎に手を当てていた。
「あの私は」
「……そうか。お前は華原家の親族であったな」
元華族の親族という触れ込みの繭子。これを思い出した静也。繭子の礼儀作法の良さに一人、納得した。
「おい。篠原」
「はい」
「お前が気がついたことは森田と相談して進めてくれ。俺は、時間なので出かけてくる」
夜会が失敗に終わった静也。精神的に応えていたが、それでも仕事に向かった。そんな疲れた彼の背を、繭子は心配そうに見ていた。
◇◇◇
繭子、静也と森田が出かけた後、秘書室にて書類の整理をしていた。すると積んであった資料が崩れてきた。
「……これは、何かしら、え」
そこには、お見合いの資料がたくさんあった。繭子は驚きで一瞬、止まった。見るつもりはないけれど。片付けるためにどうしても見ることになってしまった。数々のお見合い女性の写真。どれも美麗であった。すると、一枚の申し書きを発見した。そこには『青山静也の許嫁の条件』とあった。
……わかった。これは許嫁の条件で、お写真は応募してきた方なんだわ。
『容姿端麗、成績優秀、性格は温和で寛容、健康、子煩悩』と書いてある用紙。繭子、そっとこの資料を元に戻した。
……そうよね。こんな大きな会社の社長さんですもの。奥さんになる方は、しっかりした人がいいものね。
寂しいような悲しいような。どこか虚しい思いを抱きつつ、繭子は書類を分別していった。
……容姿端麗か。社長はお背が高くて、足も長くて素敵ですもの……お相手の方も美しい方がお似合いだわ。
いつの間にか。繭子は机に頬杖をつき、先ほどの条件を思い出していた。
……成績優秀っていうのは。女学校を卒業をした人を言うものよね。私のように中退では問題外だわ。
繭子。思わず窓の外を眺めた。
……性格が温和で寛容か。社長はちょっと怒りっぽいから。奥さんになる人はそう言う方が私も良いと思うわ。
窓の外はブルー。立ち上がった繭子、その窓を開けた。
……あとは健康で子煩悩か。これだけかな、私が合っているのは……
長い髪を抑えた窓辺。南風、海の匂い。繭子は遠くの水平線を見ていた。トロッコ係の自分を秘書に抜擢してくれた彼。自分の意見を取り入れてくれる彼。一緒に怒ったり、笑ったりしている彼、繭子はいつの間にか静也のことばかり考えていた。
しかし。自分は借金の返済猶予のために勤めている身。しかもそれは自分の家の負債、遠くの空、光る海面、浮かぶ船、働く人達。繭子は深呼吸をした。それは今の自分の位置。負債を抱えて叔父や周囲の人に迷惑をかけてしまっている自分。幸せなど望んではいけないこの身、この心。繭子は窓辺に手をかけた。
……そうよ。まずはお仕事を頑張ろう。一つ、一つよ。
できることをやるしかない。繭子はそう決意を新たにした。そして窓を閉めて自分の机に戻った。夏の午後、一人の秘書室は繭子が書類を整理する音が、細やかに響いていた。
◇◇◇
この日の午後。繭子が秘書室を出ると、女子事務員が立っていた。
「あのね。この後、あなたの歓迎会のお茶会をしようと思うの。来てくれるわよね」
「え。でも」
急な話。しかも彼女は今まで挨拶をしても無視してくる事務員だった。繭子はこのお茶会には出たくない、そう思った。
「どうせ、用事はないでしょう」
「すいません。私、社長に言われて、届け物をしないといけないんです」
「そ、それは、どこまで行く気なの」
近い場所ではダメ。遠い場所にしてもなんと言えばいいだろう。繭子は考えた。
「言えません」
「なんですって」
「これは大切な書類だから誰にも話すなと社長に言われたんです。申し訳ありませんが、今日は無理です」
「そう……」
悔しそうな顔。とても歓迎会をしてくれる顔ではない。繭子は彼女に改めてお辞儀をした。
「歓迎会のお気持ちだけ、受け取っておきます。では、これで」
繭子。逃げるように青山ビルを出た。腕には仕事内容を書いたノートを封筒を抱えていた。これがまるでその届け物のように、繭子は胸に抱いて歩いていた。とりあえず、駅まで歩くことにした。
……何だろう。歓迎会なんて。でも、雰囲気が怖かったわ。
青山ビルの女子事務員は皆、おしゃれなモダンガール風。反して繭子はつい最近まで着物しか着たことがなかった娘。洋風の事務員達がとてもエレガントに見えていたが、彼女達は顔に傷がある繭子が、秘書に抜擢されてことを、面白く思っていない様子だった。
……そうよね。だって。社長のお嫁さんの条件は、容姿端麗、成績優秀、それに。
「あ」
考え事をしていた繭子。突然、人とぶつかった。繭子は思わず手に持っていた封筒を落としてしまった。これを背後から来た女性がさっと拾い、立ち去ってしまった。
「それは私のです。返して!返してー」
しかし、女性はこの声を無視し、背を向けて走り去ってしまった。繭子は呆然とこれを見ていた。
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