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青山女子独身寮にて。
「ただいま」
「あ。繭ちゃん、お疲れ様」
「うん……あのね。ナオちゃん」
夕食時に一緒になったナオに、繭子は封筒を盗られた話をした。ナオは黙って聞いてくれた。
「そうだったの。怖かったね」
「ええ、でもね。あれは私の勉強用のノートだったのよ。だから持って行っても。仕方ないと思うんだけどな」
ここでナオは笑った。
「そんなの。封筒の中身なんて犯人にはわからないじゃないの」
「そうか」
「大方。犯人は封筒の中に大切なものがあると思ったのよ、きっとそうよ」
「大切なもの……」
そして就寝。硬い布団で繭子は思った。これは歓迎会の時の事務員の仕業ではないかと。
……私が抱えているのが大切なものだって。知っているのはあの事務員さんだけだもの。
となると。彼女は何でもない資料を盗んだことになるが、繭子が嘘をついたこともわかってしまったことになる。布団の中の繭子は悶々と思い悩んでいたが、いつの間にか寝てしまった。
翌朝。静也と森田は出張で不在日。繭子が一人で秘書室にいたが、用事で廊下に出た時、事務員に声をかけられた。
「篠原さん」
「はい。ああ。昨日の先輩。お茶会は大変失礼しました」
「これ。道で拾ったわよ」
笑顔の事務員は腕を組みどこか挑戦的だった。
「あなたのでしょう」
「……はい」
繭子の名前など、どこにも書いていないはず。しかし事務員は微笑んでいた。
「ところで。今日こそは来るでしょうね」
「え」
「あなたのために延期したのよ?では、会社帰り、迎えに来ますね」
有無を言わせず。彼女は約束をして去っていった。繭子はこれに応じなければならない雰囲気。時間まで繭子は色々考えたが、時間になってしまった。
玄関前で待っていたのは五人の事務員達。彼女達は慣れた様子で夜の繁華街に進んでいた。
「あの、私、お酒は」
「私たちが飲むんだからいいじゃないの?」
「そうよ。あなたは水でも飲んでいたらいいのよ」
五人に囲まれ逃げられない繭子。やがて店に入った。そこは飲み屋のようですでに酒を飲んでいる男達が騒いでた。
……でも。他の人がいるし。
個室に入られるよりはマシ。繭子はそう思っていた。やがて店の一角にて食事会が始まった。事務員達は酒を飲み、繭子は水を飲んでいた。
「そしてさ。課長が急にやれっていうのよ?腹が立つじゃないの」
「聞いてよ!それよも私、せっかく計算してやったのに、あいつ、ありがとうも無いんだよ、ひどくない?」
繭子の歓迎会のはずなのに。一切そんな話はない。むしろ繭子を無視して話が進んでいた。一人、食事もなくポツンと一人の繭子。彼女達はどんどん酒を飲み、ご馳走を食べていた。
「篠原さんは要らないわよね?いつも社長室でご馳走になっているんでしょう?」
「そうよ。お土産とかあるでしょうし。私達なんか、お茶を出すだけよ」
繭子の仕事が誤解されている状況。しかし、繭子はなにも言わずにただ座っていた。早く時間が過ぎるのを待っていた。
「ところで、あなたってどうやって社長に取り入ったの?」
「え」
事務員達は酒が入り、どんどん強気になってきた。
「そんな傷のある顔で、あの社長をどうやってたらし込んだのか聞いているのよ」
「私、そんなことしていません」
「なによ。その態度」
「生意気ね」
「トロッコ風情が、普通にしていて秘書になれるわけないでしょう?何をしたのか言いなさいよ」
酔っている事務員達。下品に笑った。繭子は今のセリフを言った事務員に向かった。
「今の言葉は取り消してください」
「は?」
事務員達は繭子の低い声に動きを止めた。
「私は何を言われても構いませんが、今の言葉は取り消してください」
「なんですって?」
「確かに私の顔にはひどい傷があります。でも。それとトロッコの仕事と社長は関係ありません」
「何よ。私たちに歯向かう気?」
繭子。真っ直ぐ反論した。
「とにかく。社長を侮辱しないで下さい!」
「私に向かって、なんて生意気な!?」
「失礼じゃないの」
怒る先輩事務員。これに繭子はもっと怒っていた。
「失礼なのはそっちです。これが私の歓迎会ならもう結構です!失礼します!」
繭子、自分のお代として紙幣を一枚置いた。そしてさっさと店を出ようとした。これに一人に事務員は追いかけて腕を掴んだ。
「待ちなよ。それが先輩に対する態度かい」
「そちらこそ。それが後輩に対する態度ですか。手を離してください」
「この、傷者が!」
カッとなった事務員、繭子の頬を打った。店がシーンとなった。
「謝れ!今すぐ土下座しろ」
怒号、しかし繭子はじっと睨み返した。
「私はなにも悪いことをしていません。失礼します」
繭子、勢いで店を出た。あたりは宵の街になっていた。繭子は打たれた頬を押さえながら、運河の帰り道を帰っていた。口の中は血の味がした。
……顔にこんな傷があるだけなのに。
本当の繭子。顔の傷は治っている。紅い口紅で傷を描いている毎日。それは自分の身を守るため。しかし、静也はこの顔の自分に仕事をくれた。繭子はそんな静也が、馬鹿にされていることが無性に悔しかった。
……社長は、本当に毎日頑張っているのに。確かに見栄えがいいから軽薄に見えるかもしれないけれど、誰よりも会社のために尽くしているのに。
色仕掛けで繭子を雇ったと言う静也への中傷。それが悔しい繭子。夜の中、涙で歩いていた。夜風が流れる小樽の夏は、繭子に冷たい思いをさせていた。
この夜、ナオやトロッコ仲間に心配された繭子、経緯を話した。仲間達は話を聞き、慰めてくれた。翌日、繭子は仕事に向かったが、会社にいた静也と森田は元気がない繭子に心配をした。
良く見れば頬が腫れている繭子。しかし彼女は何でもないと理由を言わず仕事をしていた。これに静也はたまらなくなり、昼休み、青山倉庫を訪れた。
「おい。あ、いた!お前は篠原の友達だな」
「あ。社長さん」
トロッコを押していたナオ。静也の声に止まった。彼は自らナオのそばまで走ってきた。
「なあ。篠原のやつ、元気がないんだ。何があったか聞いていないか」
繭子が静也に理由を言わないこと。ナオはその気持ちもわかっていたが、今は、繭子のために話そうと決めた。
「繭ちゃんは。青山ビルの事務員さんに歓迎会を開いてもらったんですよ」
「よかったじゃないか。それでどうして元気がないんだよ」
「意地悪を言われたみたいですよ」
「何だって」
静也、途端に眉を顰めた。
「それはあれか。顔の傷のことか」
「いや、そうじゃないみたいです。繭ちゃん、昨夜は社長のことを悪く言われたって。泣いて帰ってきたんです」
「俺の事?……あ。荷物が来るからこっちに来い」
二人は荷物の影に移動した。静也はナオの肩を掴んだ。
「それで。なぜ俺の悪口を言われて泣いて帰ってきたんだ」
「繭ちゃんははっきり言わないんですけど。たぶん、急に秘書になったから。社長に色目を使ったとか嫌なことを言われたみたいです」
「色目?」
「そうだと思います。でも繭子ちゃんは、それは社長に失礼だって!怒って帰ってきたんですよ」
「怒って……」
なぜか胸がドキドキの静也。不思議そうなナオは目をパチクリさせた。
「そうなんです。顔もちょっと打たれたみたいで腫れてますけど、社長を悪く言うのは許せないって、そればっかりで」
「……そうか、わかった」
自分のことで心を痛めていた繭子。これを知った静也、胸の鼓動が激しかった。赤くなる頬を必死に隠すとナオが自分を見ていた。
「あの、社長さん」
ナオはじっと静也を見上げた。
「な、なんだ」
「繭ちゃんは、とても頑張り屋さんで、優しいんです」
「そ、それがどうした」
「……秘書のお仕事だって、きっと頑張ると思うんです。でも、あの。どうか、その、守るっていうか、もっとこう、なんとか」
気がつくと、倉庫の他の作業員も自分を見ていた。
……そうか……あいつを秘書に預かるって言うことは、そう言うことだったんだ。
トロッコ係の娘を秘書にしたこと。静也にとってはただの抜擢であるが、それによって繭子は妬まれたり虐められるかもしれない立場であった。それを危惧していた作業員達は心配そうに静也を見つめていた。
……そうか。ここの者達は、それを心配していたのに。俺はまた自分のことばかり……
静也は繭子を秘書にした責任をようやく理解し、未熟な自分に怒り込めた拳を握った。
「わかったよ。篠原のことは心配するな」
「お願いします」
「作業を止めさせてすまなかった」
そうナオに話した静也、足早に青山ビルに向かって歩いた。
新人秘書の元気がない様子。顔の傷を誰かに意地悪言われたのかと思っていたが、まさか自分のことで、傷ついていたなんて。静也は驚きと戸惑い、そして嬉しさを抱いていた。
石造倉庫にはたくさんの作業員が行き交っている運河の道。静也はいつの間にか走っていた。そして青山ビルの階段を駆け上がり、秘書室に飛び込んだ。
「はあ、はあ」
「まあ。社長。そんなに急いで……あの、これは麦茶です」
「飲む!」
ごくごくと飲む静也。繭子は驚きでお盆を抱いていた。
「はあ、はあ。もう一杯」
「お待ちくださいね」
「待て」
慌てて給湯室に行こうとする繭子。静也の声に振り向いた。
「篠原。お前は俺の秘書だからな」
「え、ええ」
「くそ!そうじゃない?ええと、その……」
不思議そうに小首を傾げる繭子。静也、彼女を愛しく感じた。
「……俺は、お前を守るからな」
「え」
「とにかく、そういうことだ。お前の顔の傷なんかどうでもいい。お前は俺の秘書なんだ。だから誰に何を言われても。自信を持ってやればいい」
「社長……」
どこから話を聞いて来たのか。静也の答えに繭子は涙が出てきた。
「はい……」
「全く」
涙の繭子。静也は放っておけなかった。思わずふわと胸に抱いた。
「愚か者。今後は何かあったら、すぐに俺に話せ。わかったか」
「はい」
小さなうなづき。これに静也はやっと安心した。そして胸の中の彼女を見下ろした。
「よーし。ではな、今度はコーヒーを淹れてくれ。そして、お土産のクッキーを一緒に食べよう」
「……はい。淹れてきますね」
彼の胸から離れた繭子。輝く黒髪、黒く大きな瞳の瞬き。白い肌、顔には紅の斜め傷。良くみれば右目の下に涙ぼくろ。その薄桃色の唇は、にっこりと微笑んでいた。
「ゆっくりでいいからな。火傷なんかするなよ」
「はい」
「俺はな。お前が淹れてくれたものなら何でもいいんだ、あ。しまった。もうこんな時間か?」
「ふふふ」
笑顔の繭子。そっと秘書室を出た。小樽の町、経済の坩堝の北の海辺。呉服屋の繭子、その正体を隠し借金先へ奉公に来たこの初夏。子供の世話係から倉庫のトロッコ係。そして今は、借金相手の秘書をする不思議な縁。
身を守るためにわざと醜く傷の化粧をしているのに、彼はこんなにも優しく自分に接してくれている。
繭子は静也の心の清さに、心打たれていた。
ふと見る窓辺からは、遠くの地平線。そこには船がたくさん浮かんでいた。青い空、白い雲、眩しい海、白いさざなみ、飛ぶカモメ。これに微笑んだ繭子は、お盆を抱えて給湯室に向かった。
初夏の小樽、青山物産のビル。北の港町の午後、静かで優しい時間が流れていた。
第五話「涙の行方」完
第一章「北の運河」完
第二章「硝子のこゝろ」へ
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