一 悲しき傷跡

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一 悲しき傷跡

「あの。富小路繭子(とみこうじまゆこ)さんですよね」 「はい。あなた様は?」 「……ずっと君だけを見ていました」  中年男は頬を染め花束を持っていた。薄汚れた衣服の男が持つ花束は河原に咲いている雑草の束だった。学校帰りで友人と別れたばかりの袴姿の繭子は、橋の上で見知らぬ男の笑顔にゾッとした。 「わ、私に何か御用ですか」    繭子は不気味な雰囲気に恐る恐る尋ねた。男は口角をあげた。 「はい! やっと結婚の支度が整ったんです。行きましょう」 「え」  中年男は繭子の手首を掴み歩き出した。強く引く力に驚きで青ざめた繭子は必死に払った。 「離してください! 誰か! 助けて!」 「うるさい! 来い! 黙って歩け!」 「助けて! やめて!」  黄昏時の道で繭子のただならぬ叫び声に通行人が集まってきた。男から逃れ必死に助けを求める繭子に男はみるみる怒りを表した。 「……俺がこんなに思っているのに」 「あなたなんか知りません!!」 「裏切る気か? せっかく、ここまで苦労したのに……」  目を真っ赤にして怒る男は雑草の花束を投げ捨て、懐から刀を取り出した。まだ手首を掴まれている繭子は恐怖で固まった。 「お前は……俺のものだ!」 「きゃああ!」  男は繭子を斬りつけた。あっという間に惨劇は繭子の血と悲鳴が轟いた。男は興奮のまま刀を振り回し続けたが、通行人に取り押さえられた。 「娘さん! しっかり! 大丈夫か」 「はい……でも。うううう」  ……これは、血? ああ、顔が熱い……  繭子は腕を顔に傷を負った。現場は騒然となっていた。  ◇◇◇  半年後。札幌は夏の冷たい雨が降っていた。創成川に架かる創成橋の近くにある富小路呉服店の繭子は、喪服姿で仏間にいた母に声をかけた。 「お母様。そろそろ住職さんがお見えになる時間よ」 「あ?ああそうね……」  繭子の母の富小路友子は娘の声に振り返らず、仏壇に手を合わせていた。仏壇で揺らぐ線香を虚に見ていた母は、ぽつりと口を開いた。 「もう、四十九日なのね。早いものね」 「……さあ。食事をして、支度をしましょう」  繭子の父で老舗呉服店の主人、富小路正和は突然の事故で急死し四十九日が経っていた。一人娘の十七歳の繭子は、心神喪失の母を気遣っていた。 ……お母様は、あの日から時が止まったままだわ。  父は事業を広げていた時であったため多額の負債が残っていた。返済は母と繭子にのしかかっている。お嬢様育ちの母は何もかも父任せで暮らしていたので、お金のことは全くわかっていない。呉服店も給料が未払いであったので二人を助けてくれる従業員もいない状況で、母は現実を逃避するかのように悲しみの中にいた。  一方、繭子は気丈だった。後継の可能性があった繭子は、幼い頃より父に経営に関する手解きを受けていた。繭子は父の突然の死も気丈に受け止め、母を支えていた。  父は借金は多額のため、富小路家は返済するまで親戚付き合いをしないと繭子に断言してきた。こんな二人を助けてくれる親戚は母方の叔父一人だけだった。この日、繭子は母と叔父の三人だけで四十九日の法事を終えた。  母の疲労を思った繭子は別室で休ませると、部屋で待つ高麿にお茶を淹れてきた。 「高麿(たかまろ)叔父様。今日はありがとうございました」 「そんなことないよ。繭子の方こそお疲れだったね。正和さんもこれでやっと休めるだろうよ」「  母の兄である華原高麿(かはらたかまろ)は、繭子が机においた湯呑みの湯気を見ていた。 「……それにしても、友子がまだこんな調子とは……お前一人に法事までさせてしまって申し訳ない」 「良いのですよ。私は娘ですもの。父を見送るのは当たり前ですから」  繭子は高麿に心配かけまいと少し笑みを見せた。その青白い顔を高麿は心配そうに見つめた。 「ところでな。こんな時に話すのは酷だが、大切なことなんだ。正和さんの財産整理のことだ」 「そうでしたね。叔父様。この屋敷は売れたんですよね」 「ああ」 「よかった……」  繭子は母の承諾を得て借金の返済のために屋敷を売りに出していた。叔父の朗報にホッとした顔を見せたが、高麿は難しい顔でお茶を飲んだ。 「繭子。安心するのはまだ早い。借金はまだまだあるんだ。そこでだね、心して聞いてほしい」    高麿はお茶を飲むと机に置いた。彼の真剣な顔を見た繭子は覚悟を決めて聞いた。 「この屋敷を売って足りない分は、我が華原家で出すことにした。しかしこれは友子が受け取る遺産分で払うという意味なんだ」  ……お母様がもらえる遺産、そうか。  母の実家の華原家は札幌に投資目的で移住していた旧華族の血筋である。嫁ぐ前の母は贅沢な暮らしをしていたと繭子は母から聞いていた。 「ありがとうございます」 「礼など要らないよ。華原家としては、嫁に出したとはいえ、身内が借金を踏み倒すなどというのはあってはならないことなのだよ」  高麿の話は繭子を安堵させるものだった。繭子も思わず胸を撫で下ろした。 「そして、友子は実家に連れて帰るよ。まずは静養させないとな」」 「本当ですか?ありがとうございます」  ……良かった。本当に。  借金の返済もできる見込みの話に繭子は叔父に頭を下げた。さらに心神喪失の母を叔父が引き取ると聞き繭子は安堵した。娘として寄り添うわないといけないと思っていたが、今は父の財産整理を母に代わって行わないといけないと繭子は思っていた。高麿はため息混じりで続けた。 「だがな、繭子。お前はうちでは預かれないんだ」  高麿は視線を落とした。 「私はお前も華原家で面倒を見たいと思ったのだが、そのな?正直にいうが、今回の負債の件で華原家では富小路の人間を面白く思っていないのだよ」  苦しそうに話す高麿に繭子は心が痛み俯いた。 「そう、ですよね」 「お前はキヨの娘なのに。親戚は皆、繭子は富小路の人間と捉えてしまってね」 「すみません、私のことで」  母は実家の反対を押し切って富小路に嫁に来た過去がある。これを知る繭子はこの理由に唇を噛み締めた。 ……でも、お母様が幸せならそれでいいわ。  父が亡くなり借金が残っている現状である。これからは今までのような暮らしはできない。贅沢な暮らしが身についている母には辛いことだと繭子は思っていた。繭子は高麿に応じた。 「叔父様。私は大丈夫です。働きに行きますので」 「すまない。お前の嫁ぎ先も探したんだが……その……お前のせいではないのに」 ……ああ。やはり、この顔のせいなのね。  繭子は思わず顔の傷跡に触れた。彼女を襲った男は逮捕されていた。一方的に恋愛感情を持っていた男は会ったことも見たこともない男だった。男は、警察の取り調べで繭子とは結婚を前提に真剣交際をしていると供述した。男の話はあまりにも具体的な話であったので、男の家族もこれを信用しており、無関係であるという繭子の話は当初、誰も信じてもらえなかった。繭子は劣勢に思われたが、札幌警察の調べで男は繭子の実家を隣家と思っていた事や、女学生の繭子と男には全く接点がないこと、さらに繭子の親友が、以前からこの男を不審に思っていた事が調べに上がった。   こうして男の精神薄弱が証明され、繭子の潔白が証明されていた。男は現在、精神病院に入院している。 繭子の傷は顔を斜めに浅く斬られただけであるがすっかり傷物扱いである。縁起が悪いと、嫁の貰い手がつかない状態だった。  札幌の繁華街の呉服店にて、裕福に育った繭子は、幼い頃から勉学に励み、苦労していた父の背を見、事業を手伝う夢があった。その面差し、美麗な母に似て。その聡明さ、穏和な父に似て。女学校も優秀な成績で友人に慕われていた繭子であったが、それはもう過去だった。 「叔父様。私のことなら本当に良いのです」 「繭子」  繭子は笑みを見せた。 「それに。顔の傷もほら? 薄く目立たなくなってきたでしょう?」 「ああ。こうしてみても綺麗になったな。俺には傷の場所なんかわからないよ」  医師の的確な処置と、繭子の若い回復力で顔の傷は薄くなっていた。 「嬉しいです。では私、この顔でもお仕事に行けますよね」 「……ああ。それなんだが」  高麿は懐から書類を取り出した。それは繭子の就職先の資料だった。 「正和さんはそこでも借金しているんだ。もちろん返済をするのだが、順番に返すとここが最後になりそうなんだ」 「最後、というと、金額が大きいからですか」 「そういうことだ。全額を一度に返すのが難しい」  高麿はまたお茶を飲んだ。 「だが向こうは早く返せと言ってね。華原家でも困っているんだ。申し訳ないが繭子。お前その家に奉公に行ってくれないか?」 「奉公ですか」 「ああ。半年ほど我慢して欲しいんだ」  高麿は自分に言い聞かせるにように語った。 「お嬢様育ちのお前には酷だと思うが。金額を全額返済するまでお前が使用人として奉公すれば、わが華原家の者も納得するはずなんだ」 ……叔父様がそこまで言うなんて……私とお母様はここまで面倒をかけているのね。  繭子は高麿にこれ以上、迷惑をかけられないと繭子は顔を上げた。 「わかりました。繭子はいきます」 「そうか? 助かるよ」 ……ホッとした顔、よほどお困りだったのね。  返事をした繭子もホッとし、机の上の湯呑みを手にした。 「私、お茶を淹れ直しますね」 「繭子。すまないな。力に慣れなくて」  申し訳なさそうに指を組む高麿の声を聞いた繭子は首を横に振った。 「いいえ? 叔父様。繭子は嬉しいです。父のお金のことや、母の事も気にしてくれて……本当に感謝します」  これからの暮らしが決まった繭子は、心を少し軽くして高麿を見送った。この夜、繭子は母に今後の話を説明した。 「え?ここを出て行くの? 旦那様は何ておっしゃっているの?」 「お母様……お父様は亡くなったのよ? これからは私達の力で生きていかないといけないのよ」 「出て行く……ここを」  母は押し黙ると呆然とした表情で仏壇の線香の揺らぎを見ていた。 「お母様?」 「繭子……私がお前の歳はね……ここにお嫁に来たのよ」  友子は子供のような笑みを浮かべた。 「そうだ! 旦那様に報告しなくちゃ」 「え」  母親の真顔に繭子はドキとした。 「繭子が行くのですもの。花嫁道具を揃えないと」 「お母様……繭子は仕事に行くんですよ」  母は繭子の話も聞かず、目を輝かせた。 「私の時のお着物を持っていくと良いわ。でも繭子は背が高いから、お直ししましょうね……ええと、呼んでくるわ。書斎かしら」 「お、お母様」  嬉しそうに部屋を出た母の足音は軽やかだった。繭子は涙が出た。 ……お母様、何もないのよ、何も……  花嫁道具どころかこの屋敷のものは全て借金に取られ、空っぽだった。父を失った母は、心も失ってしまった。繭子は母の異変にただただ、涙を流すだけであった。 ◇◇◇ 「叔父様。繭子はこの小樽の青山物産、というところに行くのですか」 「ああ。最近、輸入販売で利益を上げているやり手だよ」  一週間後、繭子は華原家に来ていた。富小路の屋敷を引き払い母を連れて来た繭子は、調子の悪い母を奥の部屋に預け高麿の説明を聞いていた。彼の隣には高麿の妻の淑子が心配そうに座っていた。 「繭子ちゃん。噂によればね。社長の静也(しずや)さんは冷酷無比な方だそうよ」 「淑子、余計なことを申すな」 「叔父様、いいのです。どんな人かわかった方がいいですもの」  息子しかいない淑子は昔から姪の繭子を可愛がってくれていた。心配顔の淑子の隣に座る高麿は、ため息をこぼした。 「実はな。青山静也にはお前が富小路の娘とは言わずにおくつもりだ」 「まあ? どうしてですか? 確か向こうが奉公人を寄越せと言ってきたのでしょう」 「確かに指名しているわけではない。繭子を出すのはうちの事情だ」 ……そうよね。華原家は富小路の借金を払ってくれているのだから。  自分が奉公に行くことで華原の親戚が納得するなら行くべきだと繭子も思った。 「それに向こうにしてみれば富小路は借金を返していないのだ。この名前で行くのは心証が悪いだろう」 「わかりました。でも、名前はどうしましょうか」 「ああ。だからお前の正体を隠す意味で、名前を淑子の旧姓にしようと思う」 「そうね。繭子ちゃん。篠原繭子でどうかしら」 「……失礼します。旦那様。お電話です」  仕事の電話が入っため高麿は退席した。部屋では繭子と淑子だけになった。 「本当にこんなことになるなんて。繭子ちゃんは何もしていないのに」 「叔母様。もういいんです。父が迷惑をかけて、母があんな風になってしまって。本当に華原の家には申し訳ない気持ちでいっぱいです」 「……繭子ちゃん。ちょっといいかしら? これは私からよ」  淑子は立ち上がり繭子の隣に正座し、帯の間からそっと取り出した。 「これは、口紅よ」 「口紅ですか?」  受け取った繭子は驚き顔で淑子を見つめた。淑子は悲しげに語った。 「繭子ちゃん。海で働く人たちは厳しい人が多いわ。それに青山静也という人は冷酷無比でお金しか信用しないという噂なの。私……本当に繭子さんが心配なのよ」    淑子はそっと繭子の顔の消えかけた傷を見つめた。 「それでね繭子ちゃん。この顔の傷。もうほとんど消えて見えないけれど、口紅で傷を描いたらどうかしら」 「え? 傷を描くのですか」 「そう……あなたは自覚がないでしょうけれど。繭子ちゃんは娘盛りで、こんなに綺麗で何ですもの」  淑子はそっと口紅を取り出した。繭子の長い髪を避け、紅を小指に取ると、そっと繭子の白い肌の顔の斜め傷に触れた。 「こうやって……口紅を傷の上から薄く塗るだけよ。醜くお化粧するなんてどうかしているけれど。繭子ちゃんはこうやって、自分の身を守った方がいいと思うの」 「叔母様」 「紅を差すのが傷だなんて……本当に、な、なんてことでしょう……」  淑子は涙を滲ませながら繭子の傷化粧を仕上げた。淑子の震える指と紅のひんやりした香りを感じていた繭子は、息を呑み手鏡で確認した。 「うわ? ……これ、本当の傷にしか見えないです」 「繭子ちゃん。その傷は守ってくれるかもしれないけれど、もしかしたら意地悪をされるかもしれないわね……」 「叔母様」  淑子の真顔に繭子は鏡を下ろした。 「これは吉と出るか凶と出るか。それは誰にもわからないわ。でもどうかしら? 知らないお屋敷に奉公に行くんですもの。最初はこれで始めてみるのは」  ……そんなに心配くれているのね。  淑子の思いは痛いほど伝わってきた。繭子は安心させようと手を取った。 「そうですね。これは紅を落とせば簡単に元通りですもの」 「そうでしょう? だから繭子ちゃんは、仕事場の様子を見て大丈夫だと思ったら紅を落として、傷が治ったといえばいいんですもの」 「おいおい。何の話しているんだ?」  電話を終え部屋に戻ってきた高麿は、ふと見た繭子の顔に動きを止めた。 「ん? 繭子の傷、そんなに目立っていたか」  不思議そうに話す高麿に、淑子は必死に誤魔化した。 「あなた! 光の加減で変わるものなんです! とにかく繭子ちゃんの傷は最初からこうです。そんなにじろじろ見るものではありませんよ」 「だが」 「それにです。顔に傷があっても無くても! 繭子ちゃんはこんなに綺麗で、親思いの優しい娘さんですもの……」  淑子は涙を必死に堪えた。繭子は叔母の優しさで胸が熱くなった。 「それでも繭子ちゃんを大事にしてくれる人が、きっといるはずです。私はそう……そう信じたいです」 「淑子」 「叔母様……」  肩を震わせ涙で沈む淑子を繭子はそっと抱きしめた。   「叔母様。ありがとうございます」 「ううう……あなたをこんな形で送り出すなんて……本当にごめんなさい」  ……ああ、これ以上、心配かけられないわ。 「いいえ? 叔母様。私、感謝しています。叔父様。母を、母をどうかお願いします」  繭子は深く礼をした。母の実家に一泊させてもらった繭子は、翌日、簡単な身支度で高麿と一緒に列車で小樽へ向かった。  札幌駅から小樽行きの列車に乗った二人は右手に光る海を眺めていた。夏の日本海は荒く、白波が立っていた。顔に傷化粧をしてきた繭子は、行商の帰りの人が多く乗っている車両に揺られながら小樽駅に着いた。高麿は人力車を雇い、繭子と乗った。 「すごい人だろう」 「ええ、札幌も人が多いけれど」  駅を降りると目の前には海が広がっている。潮風に飛ぶカモメは荒々しく旋回していた。駅から坂道を下った人力車は、右折した。繭子は右手に海を見ていた。 「繭子。左の丘の上をご覧。あれが青山邸だ」 「大きなお屋敷ですね」  丘の上には緑に囲まれた屋敷が見えた。人力車で通過しながら高麿は憎々しげに語った。 「あれは元々、小早川家の屋敷だったのだが、青山が借金の肩に奪ったのだ。全く、嘆かわしい事だ……繭子。会社はあの右の建物だよ」  二人は邸から離れた会社に到着した。青山邸は高台であるが、会社は海岸線にあった。人々が行き交う中、高麿と繭子はビルに入っていった。 ◇◇◇ 「華原様の紹介。ああ。確かにそういう話でしたね」  小樽運河沿いにある青山ビル一階。人事課の事務員の男性は眼鏡を持ち上げた。会議室に通してくれたが、事務員の失礼な態度に高麿は苛立ちを抑えながら続けた。 「ここに私どもの推薦状があります。この繭子は労働者達の子供の世話係と伺っています」 「確かに。募集をしておりましたね」  事務員はちらと繭子の顔を見て、話を続けた。 「……まあ。その顔でも赤ん坊の世話ならできますね。では採用で」 「その顔とはどういうことですか」 「叔父様。お静かに」  立腹で立ち上がろうとした高麿を繭子はなんとか制した。確認のため事務員が席を外した時、高麿は愚痴をこぼした。 「なんだ、あの態度は」 「叔父様。繭子は気にしません」  繭子は必死に高麿を見上げた。その瞳はいつもの繭子だった。 「この顔の傷だって本当の事ですもの? それに赤ちゃんのお世話は楽しみです」 「そうは言っても」 「もしかして叔父様。繭子には仕事ができないと思っているの?」 「そ、それはないが」 「では決まりですね」 笑顔の繭子の言葉に高麿はようやく落ち着いた。 「……全く。お前には敵わない……だが繭子。約束しておくれ。何か遭ったら、すぐに相談すると」 「叔父様」 「お前は亡き母にそっくりだ。強情で意地っ張りで……こっちが悲しくなるほどだよ」 「ごめんなさい。心配をかけて」  二人はそっと手を繋いだ。高麿の手は暖かった。 「良いか? 何かあれば連絡しろ。その時、私は全力でお前を守ってみせるから」 「叔父様……ありがとうございます」  事務員が戻り繭子は子供の世話係として正式に採用になった。心配顔の高麿と別れた繭子は、近くにある従業員の寮に案内された。女性専用の寮で建物や仕事先の案内を受けた新入りの繭子は、夕食後、大部屋に案内された。 「ああ。新入りだね。お前の寝る場所はここだよ」 「はい」  どう見てもこの部屋には多すぎる人数である。畳の部屋は布団で埋め尽くされており、繭子の布団を敷く場所は板間になった。薄い布団を敷くと背中が痛んだが、横になっていた。  ……泣いてはダメよ。これからじゃないの。  父が存命ならば、今頃は繭子の女学校は演劇の時期であった。友人たちの推薦で劇の主役に決まっていた繭子は、今は女たちのいびきを聞いていた。叔父には強気で振る舞ったが、心は不安でたまらなかった。この夜、流れる涙は朝まで止まることはなかった。  翌朝。繭子は寮の食堂の隅で一人朝食を食べ支度をした。そして指示通りの職場にやってきた。木造の粗末な一軒家からは多くの赤ん坊の鳴き声と幼い子供の元気な声がした。  ……さあ、いよいよね。  深呼吸をした繭子は玄関を開けて挨拶をした。 「おはようございます。今日からお世話になります」 「ああ?新しい世話係だね」 「はい。篠原です、よろしくお願いします」  繭子は頭を下げて挨拶した。顔を上げると代表者の中年女は頭をかいた。 「……ああ。そのことなんだけどさ」  仕切っている中年女性は細い目で繭子をジロジロと見た。 「ここは今、人手は間に合っているんだよ」 「え」 「実は昨日、新しく採用したばかりなんだ」  この時、中年女性の背後から若い娘がやってきた。 「お母さん。バケツってどこにあるの」 「し!ここでお母さんなんて呼ぶんじゃないよ!」 「え?でも」  若い娘は不思議そうにしていた。中年女性は慌てて繭子を向いた。 「と、とにかく! ここでは人が要らないのさ」  繭子は必死に訴えた。 「でも、私はここに採用って言われています」 「だから!! それは雇ったから要らないんだよ! 話の分からない娘だね……」  中年女性は怒り出した。繭子はその大きな声にごくと息をのんだ。 「では。私はどうすれば」 「ああ。ちゃんとこっちで用意しておいたよ。お前は運河倉庫のトロッコ係さ」 「トロッコ……」  力仕事なのだと、繭子は一瞬遅れて理解した。だがこれは昨日の話と違う事柄である。繭子は中年女にやんわりと尋ねた。 「それは。会社の方もご存知ですよね」 「あ。ああ。もちろんだよ」  中年女の歯切れの悪く答えた。繭子は察知した。  ……きっと。あの娘さんがトロッコ係なのよ。理由があって、私と交換したんだわ。  力仕事よりも子供の世話の方が楽に感じたのだろうと繭子は思った。  ……でも、そんな勝手に交換して良いのかしら。  繭子が尋ねようとした時、娘が声をかけた。 「ねえ、お母さん?おしめってどこにあるの」 「だ、黙んなさい! おい。お前、早くこれを持って青山倉庫に行くんだよ! ほら!」  まるで背を叩かれるように繭子は書類を持たされ追い出された。反論したくともなにもできない圧倒感の中、繭子は言われた通りに運河倉庫にやってきた。そこにいた職員に書類を渡すと、繭子はトロッコ係に正式に任命されてしまった。  ……でも、やるしかないわ。叔父様に迷惑をかけられないもの。  青い空、青い海。夏の日差し眩しい小樽運河にはたくさんの従業員と荷物を乗せた木造船が浮かんでいた。帰れない繭子の夏は、始まった。 完
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