二 石造倉庫

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二 石造倉庫

「ほら、新入り! しっかり押しなさいよ」 「は、はい」  夏の小樽は暑い風が吹いていた。街を見下ろす天狗山(てんぐやま)は晴れて緑を揺らしている。海沿いの運河沿いには石造倉庫が扉を開け、木造船の荷物を受け入れている。船から荷物を下ろすために板が架けられると、積み荷を下ろす係は必死に運んでいた。力仕事の労働者が行き交う倉庫の前には、汗だくの繭子がいた。 「おい。次はこれだ。倉庫の奥だぞ」 「はい」  繭子は荷物が乗ったトロッコを押した。粗末なカスリの着物の繭子はトロッコを倉庫の奥まで押すのが仕事である。 ……はあ、はあ……  暗い倉庫内の鉄のレールをひたすら押す。ただ押していく作業は持ち上げることはないが、力仕事は繭子にはきつかった。夏の暑さと、倉庫内の生臭い魚の匂いの世界で、繭子は必死に仕事をこなしていた。 ……やっと、着いたわ……  繭子は倉庫の奥にいる係にこれを託した。ホッとしたのも束の間、彼女はまた空のトロッコを押し、運河の方へと戻った。  約束では子供の世話係だった繭子は、叔父に連絡する術もなく現状を受け入れるしかなかった。慣れない過酷な労働で酷い筋肉痛に見舞われた繭子は微熱を出したほどである。だが休む事なく仕事をしていた。こうして仕事を終えた夜はたくさん食べ泥のように眠る日々を過ごし、徐々に体力がついてきた。そんな繭子にも友達ができた。同じ仕事のナオは、そばかす顔の元気な女の子だった。 「お疲れ様。繭ちゃん」 「ナオちゃんはそれで終わり?」 「うん! そっちを手伝うよ」  田舎から出てきたナオは家族を養うために働いていた。同じ年のナオはいつも明るく繭子を助けてくれていた。この日も二人は仲良く仕事を済ませ、夕刻の倉庫内を掃除していた。 「汗でベトベトだよ。早く帰ってお風呂に入りたいけど、私たちは今夜も最後か」  新入りの風呂は最後の決まりである。ナオが箒を持ちながら肩をすくめる様子に繭子は微笑んだ。 「ふふふ、今日はお湯が残っているかしら?」 「ないだろうね? あーあ、今夜もカラスの行水だよ? あはは」  お互い辛い境遇であるが、二人は励まし合いながら仕事をしていた。そんな微笑みの二人に、身なりの良い背広姿の男が声をかけてきた。 「あの。すみませんが。荷物のことで話があるんですが」 「荷物? それは表にいる主任さんに聞いてください」  ナオの返事を聞いた男は笑顔で歩み寄ってきた。 「声を掛けても誰もいないのですよ。忙しいのかな」 「本当ですか? 」 「ええ。何度も呼んだんですよ」  二人のそばにやってきた背広男はナオにっこりと微笑んだ。 「君は?ここの従業員かな?」 「は、はい。そうです」  都会の香り漂う男にナオは頬を染めた。繭子はじっと男を見ていた。  ……何者かしら? 倉庫の中まで入ってくるなんて。  繭子には男の言葉は北の人とは違って聞こえていた。札幌の呉服屋の娘だった繭子は、父の仕事を通じ色んな人を見てきた経験がある。小樽の人ではない雰囲気を感じた繭子は慎重に対応した。 「あの。ご用件は何でしょうか?」 「あ?ああ……実はこの伝票の荷物の事なんだ」  ポケットに手を入れた男はにっこり微笑み、なぜか繭子ではなくナオに向かって話し出した。 「この荷物は今朝、ここに到着しているはずなんだ。伝票には、ここから札幌に送ることになっているが、私は受け取りに来たんだよ」 「受け取りですか? ええと、それはどうすれば」  男の問いにナオは戸惑った。繭子が伝票を見ようとしたが、男の広い背は阻止した。 「すまないね。急にそれを使うことになってね。今すぐ私が持って帰りたいのだよ」 「それは……お困りですね。でも、その主任に聞かないと」 「でもいないよね?」  優しい男の顔にナオはうっとりした。男はナオの手をぎゅっと握った。 「君!悪いがこの荷物を探してここに持ってきてくれないか?」 「今朝の荷物ですね?」 「そう。今すぐ頼む!」 「ちょっと待っていてくださいね」  ナオは笑顔で倉庫の奥に探しに行ってしまった。繭子は嫌な予感で叫んだ。 「ナオちゃん! 待って! 主任さんに聞かないと」  たやすく引き受けたナオのことが心配になった繭子は彼女の背を追った。 「ナオちゃん。勝手なことをしていいの?」 「だって。あの人、困っているじゃないの。繭ちゃんも意地悪言わずに手伝ってよ」 「でも」  ……主任さんに聞いた方がいいと思うけれど。  繭子もナオもトロッコ係である。荷物を客に渡したことなどはなかった。善意とはいえナオの行動を繭子は不安になった。ナオは繭子を振り返った。 「……もしかして。私が頼まれたから妬んでいるの?」 「いいえ。そんなことは」  ナオはいきなり怒り出した。 「繭ちゃんには顔に傷があるからしょうがないでしょ! いいから邪魔しないで!」 「ナ、ナオちゃん……」  繭子の説得も聞かずナオは荷物を探していた。繭子は不安でたまらず、倉庫の外へ走り主任を探した。事務室を訪ねると主任はいつもの席で同僚とタバコを吸っていた。 「あの。主任! 倉庫の中にお客様が来ています!」 「なんだって」 「客がどうしたんだ」  広い倉庫を走ってきた繭子は息を整えて事情を説明した。主任達の顔色がみるみる変わった。 「勝手に荷物を探しているだと? 退け! それは私を通さないとダメだ」 「傷者。その客は倉庫のどこにいるんだ」 「二番倉庫です!」  繭子は慌てて駆けて行った上司を見ていた。繭子は胸の鼓動を抑えていた。 ◇◇◇ 「なんだと? 荷物を泥棒が堂々と持っていっただと?」 「申し訳ございません」 「それで。荷物は何だったのだ」  翌朝の小樽、青山物産ビルの社長室にいた青山静也(あおやましずや)は、大汗を拭く倉庫番の説明を聞いた。 「は。それが宝石でして」 「……では、その宝石代をこちらが弁償するのか?」 「は、はい。送り主はカンカンでして」 「なんたる事だ」  静也は怒りのあまり窓辺に立った。その恐ろしい背に、倉庫番は額の汗を必死に拭いていた。広い背を向けたまま、静也は冷たく語り出した。 「しかし弁償せねば、我が社の信用に関わる……。まずはその荷物を渡した倉庫の者は罰金だ!」 「は、はい」  倉庫番は彼に縋るように語った。 「はい。すでに反省部屋に叩き込んでおります」 「反省部屋だと?」  静也は振り向いた。怒りの顔に倉庫番は思わず下がった。 「閉じ込めてどうするんだ! 今すぐ出して働かせろ! 休ませるな」 「はい?!」 「そして、お前も罰金だ! さっさと行け!」 「は、はい!」  倉庫番は頭を下げて退室した。閉まったドアの音に眉間に皺を寄せた静也は椅子に腰掛け、肘を付き、頭を抱えた。多忙な彼は頼りない部下に心底呆れていた。 ……全く。バカらしい……  亡き父から小規模の会社を継いだ彼は、剛腕を振るい大きく事業を展開していた。創造性あふれる事業と、それをやってのける豪胆な精神力を持つ静也は新進気鋭の実業家である。   静也には夢など無く、全てが野望である。他者が気にする対面やプライドは彼にとって髪の毛一本ほどのものでしかない。結果が全てで工程は度外視。気持ちよりも行動。経歴よりも実績主義の彼は日本経済の中心である小樽にて大胆に君臨していた。そんな彼は部下の不手際にいつも腹を立てていた。    ……船は壊すし、喧嘩が絶えない。ああ。こっちは給料をくれてやっているのに。無能な者ばかりだ!  静也にとって信用できるのは自分と金だけである。苛立つ静也が仕事をしている社長室にノック音がした。 「失礼します。静也様」 「ムギか」 「お仕事はもういいですか? ね、お話をしましょう」  静也の許嫁のムギは甘えように綺麗な着物で彼の腕を取った。静也は笑顔をなんとか作った。 「話か……どんな話だ?」 「あのね。新しい着物の話よ。お母様は赤い絞りが良いっていうのよ。でも私は友禅の着物が欲しいの」 「いいじゃないか。どちらも買えば」 「いいの? 嬉しい!」  はしゃぐムギの顔を静也は見ないように腕に抱いた。  ……嫁などどうでも良い。どうせこいつも金目当てであろう。  ムギは家族が勧める婚約者である。愛を知らず金に飢えて育った静也は、仕事のためにムギと婚約していた。ムギを抱くその顔は優しいが心は凍っていた。 ◇◇◇  その夜。仕事を終えた繭子は倉庫事務所にやってきた。主任と数人の事務員が相談をしていた部屋に繭子はお辞儀をして入っていった。 「お話し中、すみません。あのナオさんは?」 「お前は傷者か? まあ、座れ。ナオはまだ反省部屋だ」 「そうですか……」  詐欺に騙されたナオは、事件後、反省部屋に入れられていた。仕事はしている様子であるが、職場は異なり彼女に会わせてもらえなかった繭子は、そっと顔を上げた。 「あの……私にも事件の経緯を教えてもらえませんか? あの時、そばにいたので気になるのです」 繭子の話に彼らは顔を見合わせたが、主任の佐々岡は諦めたように話し出した。 「まあいいか。お前が事件に気がついたのだから教えてやるよ。ここだけの話だぞ?」  笹岡の説明によればあの荷物の送り主に確認したら。そんな話は聞いていないと言う内容だった。 「では。あの時、荷物を取りに来た人は偽者ですか」 「ああ。今頃、宝石をくすねて高飛びだよ」  笹岡はそういうと、伝票を繭子に見せた。 「これが本物の伝票さ。ナオが見たのは偽物だ」 「貸していただけますか? 私もちらと見ましたけれど」  本物の伝票を繭子は手に取って確認した。繭子はしみじみ読んでいた。 「荷物は『宝石』とありますね」 「ああ。これでは我が社が弁償しないとならない」 「俺たちも減給かよ」 「よりによって宝石とは! くそ! ナオのやつ」  悔しさでいっぱいの倉庫係の三人はタバコを吸いだした。ここに女子事務員がお茶をくれた。 「どうぞ。あなたは男を怪しいと思ったのに。残念だったわね」 「力になれなくてすみません……でもあの、主任さん。これはおかしいですよ」 「何が」 「お前に何がわかるんだ!」  ヤツ当たり気味の男達に繭子はびくとした。これを女子事務員が制した。 「笹岡主任。彼女は犯人の男を見抜いたのでしょう? いいのよ、どうぞ話して」 「はい。この宝石っておかしいと思います」 「だからどうして!」  怒り散らす男達であるが女子事務員は繭子に微笑んだ。 「気にしないで……さあ。あなたも早く言いなさい」 「すみません。ええと。普通。こんな高価なものを船便で送るでしょうか」  事務室はシーンとなった。繭子はまだ伝票を見ていた。 「それに。やっぱり、私が見た伝票とこれは同じだと思います。この、送り先の住所に 『札ポロ』って、ありますよね? 私、内地の人には札幌の『幌』の漢字が難しいって聞いたことがあって。この伝票の人も漢字を知らなかったのだと思ったので」 「あら本当ね。でも。船便で宝石を送ることと、これがそれがどうしておかしいと思ったの?」  一同が首を傾げる中、繭子はそっと話した。 「つまり……これは私の推測ですけど」  繭子は息を呑んだ。 「これは、送り主さんが、自分で盗んだのかと思いました……」 「え」  一同は繭子の顔を見つめていた。この夜、繭子は遅くまで説明して女子寮に帰った。その翌々日。ナオは反省部屋から出された。 ◇◇◇ 「社長。例の送り主が、札幌で詐欺罪で逮捕されたそうです」 「札幌? ではやはり、本人が犯人だったのか」 「ええ。警察は自作自演って言ってました」  静也の秘書の森田永ニ《もりたえいじ》は、興奮を抑えて報告した。 「まず、話はこうです。この犯人は、荷物に『宝石』と書いて自分で受け取れる先へ送る。そして自分でそれを途中で奪い、届かないと騒ぎ立てる。そして船会社のせいだと騒ぎ立て弁償金を払わせる。これが犯行手口、ということです」 「目的は弁償代か……そうか。だから荷物も高価な宝石にしたんだな」  静也は顎に手を当てうなづいた。森田は話を続けた。 「でしょうね。我が社から警察にこの話をしましたところ、新潟でも同じ事件が多数起きていまして。そこにはこの男とそっくりな男が被害者として現れているとの事で。そこから足がつきました」 「新潟からの船便で小樽に来たのか。我が青山を狙うとはな……しかし、森田よ。なぜ倉庫番はこの送り主の仕業と気がついたのだ?」  真顔の静也の質問を森田は面白そうに答えた。 「自分もそう思ったんです。それはですね、宝石を送る時、素直に宝石と荷札に書く者はいない、って話しているようです」 「ふ」  静也は珍しく微笑んだ。 「ふふ。確かに冷静に考えればそうだな。高価な品は盗まれるかもしれないから俺でも宝石とは書かないし。そもそも自分の手で運ぶだろうな」 「社長、他にもですね。偽物が持ってきた伝票も本物だという証言も当たっていたとの事です。それに中身も宝石ではなく『石ころ』だというのは、警察よりも先に見抜いたそうで。警察は悔しそうでしたよ」 「ははは。森田。その倉庫番は誰なんだ? 褒美を取らせぬばな」 「そうですね」  森田は、ご機嫌な静也にそっと書面を見せた。 「これに気がついたのは、笹岡主任と、北山課長、そして山田倉庫長の三人ですね」 「ベテランの三人か」  現場の報告を信じた静也は彼らに褒賞を決め機嫌を良くしていた。夏の風が入る窓からは、荷上げをする労働者の声が聞こえていた。 ◇◇◇ 「ナオちゃん。大丈夫?」 「うん。早く働いて休んだ分を取り返さないと」  倉庫の奥へと二人はトロッコを押していた。汗で汚れた二人は必死に重さに耐えていた。 「ところでさ。私を助けてくれたのは繭ちゃんなんだってね」 「え」  ナオは仕事の手を止めずに話し出した。 「女事務員さんから聞いたんだ。繭ちゃんが犯人を言い当てたのに。手柄は主任達になっているって」 「ナオちゃん。それは」 「その代わりに、私は許してもらえたんでしょう? ……ごめんなさい。私、ひどいことを言ったのに……」  ナオはトロッコを押す顔が涙と汗でぐちゃぐちゃになっていた。隣で押す繭子も涙が出てきた。 「ううん。私こそ……あの時、私が引き止めたら、事件を防げたんだもの」 「そんなことないよ! 騙された私が悪いんだ。それにね。これは罰なんだよ」 「罰」  二人は倉庫の奥に押し続けていた。暗い奥には他に人がおらず、レールを進む音がしていた。 「そう罰だよ。私ね、美人じゃないから、傷のある繭ちゃんと一緒にいたら、こんな顔でも綺麗に見えるかなって、そう思っていたの」 「ナオちゃん」 「最低だよ……こんな考えだから、詐欺に遭うんだ……繭ちゃん、本当にごめんなさい」  突然の話に繭子の方こそ胸が痛んだ。繭子はわざと顔に傷の痕をつけている。これを正直に言わないといけないと思った。 「ナオちゃん。あのね。私の顔は、これは」 「繭ちゃん! いいんだよ。私が全部、全部悪いんだ」  ナオは必死に語っている。トロッコを一緒に押す繭子はナオが心配になった。 「ナオちゃん、落ち着いて」 「繭ちゃん。本当に、本当にごめんなさい! でも、お友達でいて欲しいの……」  繭子にはナオが苦しそうに見えた。トロッコを押す繭子は肩を震わせて泣くナオを見ていた。  ……今は、これ以上は言えないわ。後で、落ち着いた時に、打ち明けよう。  ナオは謝っているが繭子は今回の事件の時のナオの態度を気にしていなかった。とにかく今はナオと仲直りしたかった。 「……ねえ。今夜はお風呂のお湯って残っているかしらね」 「え」  繭子は笑顔を見せた。 「私。事務員さんに石鹸をもらったのよ? 一緒に使おう、ナオちゃん」 「繭ちゃん……うん、あ、ありがとう……」  顔の斜め傷が痛々しい繭子は、涙のナオと笑い合った。必死に仕事をこなす倉庫は暗く、厳しい仕事である。だが繭子の心は小樽の海のように、穏やかで爽やかだった。 完
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