三 水平線の夏

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三 水平線の夏

 夏の小樽の朝は海の輝きから始まる。日本海の荒波はしぶきを上げ、船を港へ誘っている。小樽の港を見下ろす高台の邸に住む静也は朝の海を見ていた。静也は連日の仕事の疲労を誤魔化ように軽く腕の運動をしながら食事をする部屋にやってきた。席に付き使用人が食事を運んできた時、白髪の女性が怪訝な顔で現れた。 「あら、今朝はいたんですね」 「奥様。おはようございます」 「……ずいぶんご多忙なことで」  義母は嫌味たっぷりの態度で席についた。青山イネは静也の亡父の正妻である。愛人の子供である静也は室蘭市の花街出身である。  静也の美麗な母は父に見初められ静也を産んだ。母の先祖には露国の人間がいると伝わっているのを裏付けるように、静也の髪は亜麻色で肌は恐ろしいほど白かった。静也は幼少時から美少年だった。  父は認知したが、半ば手切れ金として母に小料理屋を買い与えだけであり、素人の母は経理に苦労した。母を支える静也は幼い頃から賢い子供であった。客の好みのタバコを覚え買ってきたり、家計を支えるための新聞配達の時も、一人暮らしの老人の買い物や病人の生活を助けたりした。人の心を先読みし、自ら行動する点が小料理屋の常連客の酒屋の社長の目に止まり、静也は学校に通いながら酒屋の仕事を手伝うことになる。 この頃の静也は容姿端麗な少年に育っていた。異国風の風貌で虐められることもあったが、花街で育った彼に怖いものはなく、喧嘩も勉強も負けたことはない。肌は透き通るように白く、亜麻色の髪の長身の姿は男性も見惚れて振り返るほどであるが、怒らせると野獣のように恐ろしく冷酷な一面を持っていた。そんな静也は小料理屋で学んだ巧みな話術を用い、花街の店から大量の受注を受けた。  さらに静也は仕事の合間に空き地などを確認し、酒屋の主人に申し出て不動産投資を成功させた。自分の資産が増えたわけではないが、彼にとって練習期間になったと言える。  酒屋は駅前の土地の売買で大きく成功して行った。この評判から静也の才能を知った小樽の実父は、静也を自らの会社に呼び寄せた。当初は自分勝手な父に抵抗していた静也であるが、異母兄が心優しく良い人だった。父の愛を知らずに育った静也であるが、異母兄はまるで父親のように弟の彼を心から可愛がってくれた。そんな兄を支えようと静也は父の事業を広げていった。  静也の事業の才能は申し分なく、花街育ちで女性の扱いは抜群である。静也は兄の信頼を受けて伸び伸びと青山物産の事業を展開していた。  だが兄はスペイン風邪で亡くなり、父も亡くなってしまった。静也は急きょ家督を継ぐことになった。  これにはイネが猛反対したが、結局、遺言通りとなった。後継の予定ではなかったが事業を引き継いだ静也はニシン漁と石炭の輸送の小樽の黄金経済の波に乗り、青山の事業を拡大し成功させている。苦労をかけた静也の実母は田舎暮らし。義母のイネは地位維持のために、未だこの青山邸に住み続けていた。静也としてはここを出ていきたい気分であったが、邸を相続したのは自分である。さらにイネと険悪という事実は、会社経営には痛手であった。そこでやむ無く、嫌いなイネと同じ屋根の下で暮らしていた。  すでに財産を多く手にしたイネは会社経営に口を出すことはないが、静也と顔を合わせは小言ばかりである。 「ところで。静也さん。そろそろ結婚して身を固めないとなりませんよ」 「まだ仕事で、それどころではないですが」 「だから私が見つけてきたじゃありませんか 白米を黙々と食べている静也を対面にしながらイネはお茶を飲んだ。 「奥村ムギさんとはどうなんですか? 私の友人の娘さんで、可愛らしい方じゃないですか」 「……ずいぶんお気に入りのようで」  静也は味噌汁を飲みながらやんわり答えた。イネが彼女を推す理由は、実家が高利貸しで資産があり、イネに従順である事だけと静也は思っていた。華やかで見栄えの良いムギは、イネにとっては都合の良い操り人形である。 ……特に利もなく害もなく、ただ着飾っているだけの女か。  朝からムギを思い出した静也は、残念と言わんばかりに首を振った。イネは前のめりになった。 「静也さん。これは会社のためですよ? あなたの好みなんかどうでもいいんです!」 「ははは? 本音が出ましたね」 イライラ顔のイネに笑みを見せた静也は食事を終えナフキンで、呑気そうに口を拭いた。 「奥様。私も同感です。会社のためなので、私の好みはどうでもです」 「わ、わかっているじゃないの」 動揺しているイネに静也はにっこり笑った。 「青山の社長夫人になる女性は、そうですね、容姿端麗、成績優秀、穏和な性格、そして、優雅で知的で、あとはどうしようかな……」 「まあ!」 「そうだ! こうしましょうか」 テーブルに肘をついた静也はナフキンをテーブルに置いた。静也の口調にイネは怒っていたが、静也は悠々とお茶を飲んだ。 「求人を出しましょう。『青山静也の花嫁求む』と新聞に広告に出すのです。そうすればこの条件の娘がいるかもしれません」 「ふざけないで!」 「それは私のセリフです」 「何ですって?」 ……やれやれ、ムギを勧めているそっちがふざけているだろう。 「静也さん! あなたそれはどういう意味で」 「……ごちそうさまでした。さて、仕事か……いい天気だな」 今朝も怒りのイネを背にした静也は、どこか楽しそうに席を立った。白いシャツの上に濃紺のスーツを羽織った静也は迎えの人力車に乗った。多忙な彼の一日の始まりだった。 ◇◇◇  小樽港は大海から荷物を積んだ船が運河へと進んでいる。明治維新により外国との貿易が活発になった昨今、小樽では露国と貿易が盛んである。日本銀行小樽支店や大手銀行が立ち並ぶ町には多くの人が行き交っていた。青山物産の倉庫がある運河沿いでは船の積荷を運ぶ人でいっぱいだった。 ……歌人の石川啄木は『小樽人は歩行せず 常に疾風す』と言葉を残したそうだけど、本当に兵隊さんみたいね。  倉庫の前で順番を待っていた繭子は、自分のトロッコに荷物が積まれる間、行き交う人を眺めていた。 「おい! これは重いぞ、気をつけろ」 「はい」  繭子は深呼吸をし、トロッコの持ち手を押した。小樽に来て一週間が過ぎた繭子は仕事の流れを掴めるようになっていた。友達のナオは気さくであるし、繭子が詐欺事件の犯人逮捕の手柄を倉庫係の三人に譲ったことで、待遇が多少改善されていた。 ……それにしても、今日も暑いわ。  石造倉庫は屋外より温度はひんやりしているが、風がない。このため奥に行くほど蒸し暑く感じていた。繭子達が押すくトロッコのゴロゴロという音が響いている倉庫では、倉庫係が対応に追われていた。 「おい。そこの娘」 「はい? 私ですか」 「ああ。この荷物はどこにあるんだ?」  繭子は主任の笹岡が持つ伝票を見た。外国文字を指した笹岡は説明した。 「これは露国からの荷物という意味だ。お前のトロッコのレールのはずだ」 「ええと……『小麦』ですね。きっとこっちです。ナオちゃんも探して」 「いいよ」  運んだ記憶がある繭子は、荷物がある場所へ歩いた。気がつくと背後には外国人がついてきていた。繭子は彼らを引き連れて奥へ進んだ。 「主任さん。あの山にあると思いますけど」 「……あ。ああ! あれだ、あれだ、でも他の荷物も混ざっているな……」  外国人も異国の言葉で会話をしていた。通訳がいるようで日本語に訳していたが、繭子とナオには関係ない話である。二人は積まれた荷物から伝票の露国の荷物を探した。 「ナオちゃん。それじゃないわ。あの赤い箱よ」 「そうなの? 全部同じに見えるけど」 「露国はキリル文字よ。アメリカは英語よ、あ、あった! 小麦はこの山だわ」  荷物の山から小麦の荷物を発見した繭子は、笹岡主任に告げた。笹岡が対応しているので二人はこの場を離れ倉庫の外に出てきた。そこにはトロッコ仲間達がいた。 「あら? 早かったね」 「荷物探しは大変でしょう」  休憩中だった同僚の女達は繭子とナオの仕事の早さに驚いていた。ナオは疲れた顔で水を飲んだ。 「そうですよ……こっちはトロッコの仕事をしているのに」 「皆さんも頼まれたのですか?」 「いや? ……実は」  繭子が空のトロッコに腰掛けると、女達は苦笑いをし、頼まれていないと話した。 「あの外国荷物を探すのはいつも大変なんだよ」 「そうそう。ひどい時は夜までかかるしね」 「私達は荷物を運ぶのが仕事で。どこに何があるかなんてわからないんだもの」 「え? じゃあ、私と繭ちゃんにやらせたってことですか?」  子供がいる彼女達は通いの従業員である。住み込みで働いている繭子とナオに申し訳なさそうに手を合わせた。 「本当にごめん」 「私達は子供がいるからそろそろ帰る時間だし」 「今度は手伝うから、そんなに怒らないで?」  しかしナオはムキになった。 「そんなこと言ったって、それはあまりにも」 「ナオちゃん。でも早く見つかったからいいじゃない。ね?」  繭子は不貞腐れるナオを宥めた。同僚達の苦労もわかる繭子は、笑顔で励まし仕事を再開しこの日の仕事を務めた。  翌日。トロッコを押していた繭子とナオは倉庫横にある事務所に呼ばれた。 「お前達、この伝票の荷物を探せ」 「え? またですか? どうして私たちがやるんですか」 「こんなにたくさん……」  ナオの強い口調に繭子はハラハラしながら聞いていた。笹岡主任はすまし顔でお茶を飲んでいた。 「お前さん達はあれだ? ほら、早く見つけたからさ」 「……それって。主任さんの仕事じゃないですか? 私達はトロッコ係ですよ」  まっすぐ正論をぶつけたナオに、笹岡は顔を向けた。 「ナオよ。お前。また反省部屋に入れられたいのか」 「え」 「こっちにはその権限があるんだぞ」  笹岡はそう言って机をバンッと叩いた。怯むの腕をナオはしっかりと掴んだ。 「主任さん。それは私達でやります。荷物がどこにあるか、お伝えすればいいんですね」 「ああ」  ……そうしないと、ナオちゃんはまた反省部屋に入れられてしまうもの。  口では強気であったが動揺しているナオを案じた繭子はそっと事務所の棚を見た。視線を走らせた繭子は女性事務員に尋ねた。 「恐れ入ります。その辞書を借りて良いですか」 「いいわよ。誰も使ってないから」 「いいから早く行け! ちゃんとやれよ」  笹岡はそう言うと繭子達に背を向けた。事務所にいた倉庫の担当の北山と山田はタバコの煙を揺らし花札を取り出していた。女子事務員は彼らに背を向け真由子に辞書を撮らせてくれた。繭子は悔しさに震えるナオを連れて事務所を出た。 「もう! あいつら。仕事をこっちにさせておいて!」 「ナオちゃん。それを言っても仕方ないわ。それよりも早く探しましょう」  ナオは不服そうだったが、繭子はナオが反省部屋に入れられる方が怖かった。繭子は伝票を片手に倉庫の中を探し回っていた。 「ええと。ここが外国荷物を置いてある場所なのよね」 「そうだよ。でも。国別にするのが難しいって係の人が言っているもの」 「……本当だわ」  青山倉庫はそれなりに分けてあるが荷物は混ざっているようだった。繭子は指示された荷物を探し始めた。背後ではナオがその様子を見ていた。 「あのさ。繭ちゃんって、外国語がわかるの?」 「話せないけど……文字なら少し読めるの。辞書もこんなに借りたし。そうだ!」  繭子は倉庫内にあった白い荷札を手に取った。ナオは首を傾げた。 「繭ちゃん。それで何をするの?」 「みんな外国語が読めないから探せないのよね? だったら。こうして。日本語で書けばいいのよ」 「なるほど!」 「簡単でいいわよね……ええと、これはオランダの生糸。あれは、暗く見えないな」 「私がランプで照らしてあげるよ」  ナオはランプを灯し荷物を照らした。こうして二人は外国荷物を探しながら、他の荷物にも日本語の荷札を付けていった。主任に指示された荷物は発見したが、大きな物であった。繭子は荷物を動かさず配置場所だけを主任達に告げようと提案し、二人は通常の業務に戻った。   ◇◇◇  翌日。二人はまた事務所に呼び出された。主任達は揃って繭子とナオに伝票の束を渡した。 「あの、これは?」 「昨日の続きだ。文句を言わずにやれ」 「そんな」  昨日に引き続き大量の仕事を命じられ落胆した繭子の隣でナオはじっと上司を見た。 「荷物探しはいいですけど、その分、私たちはトロッコを押せません。その分は、免除してもらえませんか」 「ナオちゃん」  ナオは怒りを抑え上司に頼んだ。しかし男達は嘲笑った。 「はっは。だったら早くその伝票の荷物を探せばいいじゃないか?」 「そうだ。そしてトロッコに戻れよ」 「ちゃんとやらないと、お前達は首だからな!」  倉庫係の三人はそういうと背を向け花札を取り出した。繭子は憤るナオを事務所から連れ出した。 「クソ! 私達に仕事をやらせて! あいつらまた花札かよ」 「ナオちゃん。私が余計なことをしたせいよ」 「そんなことないよ!」  ナオは視線を運河から水平線に上げた。 「私の……私の宝石事件のせいだよ。まさか、こんなことになるなんて」 「ナオちゃん」  詐欺事件は解決したが、ナオの心はまだ傷付いていた。繭子はナオを励ました。 「とにかく! まだ時間があるから、手分けしてやりましょう。トロッコの仕事は、他の人に事情を話して、私たちは午後からの分をいっぱいやるようにしましょうよ」 「それしかないか。はあ」 こうして二人は外国から来た荷物探しに奔走した。この伝票の荷物は(いわ)く付きのようで、現場の係の話では、ここ数ヶ月、青山倉庫で行方不明になっていたものということだった。 「じゃ、見つかりっこないよ」 「そうだね」 「え?」   驚きで目を見開いたナオに、繭子は微笑んだ。 「だから闇雲に探しても見つけるのは大変ってことよ」  繭子は高く積まれた荷物を見上げた。 「作戦を言うわね。これから私達は荷物を探していくけど、ナオちゃんは埃が被った物や、動かした形跡がないもの、そして。そうね……箱が汚れているとか、とにかく見分けがつかない荷物を探してちょうだい」 「怪しいやつだね。わかった。私は外国文字が読めないし。それで行こう!」   繭子とナオは暗い倉庫を探し歩き出した。昨日、繭子が荷札を付けたので、それ以外の荷物の確認となった。そんな繭子の作戦は実り行方不明の荷物が続々と発見された。繭子が想定した通り、荷物は箱の汚れで判別しにくかったり、伝票が間違っていたりした。繭子とナオの賢い探索により、青山倉庫の主任達がずっと探していて見つからなかったものが、明るい時間に全て発見された。  二人は花札をしている上司に報告し、やっと自分達の仕事に戻った。重い荷物をトロッコで運ぶ仕事は同僚達も代わりに進めていてくれたが、負担をかけるわけにはいかない。二人は仲間が帰った後も、残りの仕事をこなしていた。  繭子とナオのおかげで外国の荷物の在庫がわかりやすくなったため、皮肉にもトロッコ係の二人は、荷物管理も仕事になってしまった。そんな日が続いていた。 ◇◇◇  昼下がりの青山物産ビルで、静也は取引先と商談を済ませ談笑していた。 「ところで。青山さんの運河倉庫では外国からの荷物に画期的な管理をされているそうですな」 「そうですか」 「ええ。一度見学に行きたいと思っているのですよ」 「……あの、それは本当にうちの倉庫の話ですよね?」 「はい!」  取引先の社長の嬉しそうな表情を見た静也は一瞬考えた。 「あの……それはどういう点で、我が倉庫に興味を持たれているのですか」 「もちろん! あの荷札の管理と番号制度ですよ」 「荷札と番号制度……」  ……初めて聞く話だな。  不思議そうな静也であるが、相手は興奮していた。 「ええ。うちの荷物係が申していました。あのように異国の荷物に日本語の荷札をつけるやり方なら、荷物の間違いがグッと減ります。それに、最近、青山さんからの荷物には謎の番号が振られているのです。あの番号が伝票に書かれてから、荷物が来るのが早いのですから」 「そう、ですか」  相手の嬉しそうな顔を見て静也は話を合わせるしかなく、苦笑いで整えた。 「いやいや。さすが青山さんですよ。今回は時間がありませんが、次回はぜひ、見学をお頼みします」 「こちらこそ」  ……どういうこと?    静也の頭の中は疑問符だらけであるが、取引相手とは握手で挨拶を終えた。社長室の扉が閉まった瞬間、静也は部屋にいた秘書を睨んだ。 「森田。今の話はどういうことだ?」 「……自分も噂だけで」 「申せ。今すぐにだ!」  怒りで腕を組む静也に、森田はそんなに怒らないで、両手を上げた。 「自分が聞いたのは。食堂の給仕の話です。先日、いつもの時間に食堂に行くとやけに混んでいたのです。そこで聞いてみたら、青山倉庫の外国荷物の出し入れが早くなったので、今まで荷物が出て来るのを待っていた馬車の係が、早い時間に食べに来るようになったとかで」 「……では、荷物の運搬が早くなったのは本当なんだな」 「そうだと思います。ですが、自分もその方法までは知りませんでした」 「森田。倉庫に行くぞ」 「え? 今からですか」 「ああ。行くぞ」  静也は時計をチラッと見た。森田が慌てて受話器を持った。 「社長、待ってください。倉庫事務所にこれから行くと伝えるので」 「必要あるのか?」 「そう言われてるんです。社長をちゃんと迎えたいからって、あ?主任ですか? 秘書の森田です。これから社長とそちらに行くので、よろしくお願いします」  静也は電話を終えた森田と青山ビルを出た。    ……今日も暑いな。  運河には仕事を終えた木造船がのんびり停泊していた。青い空にはカモメが旋回し、短い小樽の夏を満喫しているようだった。運河沿いの道を進む静也は、普段はこの場合に来ることはない。足早に進む彼を、運河で働く労働者達は男も女も一瞬手を止め、頬を染めて見ていた。静也はその視線を無視するように青山倉庫にやってきた。 「社長。事務所はその右手です。主任がいるはずです」 「入るぞ。失礼する」  森田の勧めで静也は声をかけて入った。事務所には三役が立って待っていた。 「社長。こんなむさ苦しいところで恐縮です」 「御用があればこちらが出向きましたのに」 「ささ、こちらにお掛けください」  ベテランの倉庫の番人である三人に、静也は眉を潜めつつソファに腰掛けた。 「急で悪かったな。聞きたかったのは、外国荷物の件だ」 「え? 外国荷物」  笹岡は急に顔色を変えた。静也が注視していると、他の二名も狼狽え《うろた》出した。不思議に思った三人を見つめた。 「いかがした? 私が聞きたいのは、新しい倉庫管理の方法だぞ?」 「あ?ああ……そうでしたか……」  笹岡は安心したように頷き他の二名も笑顔を見せた。 「ははは。すみません。てっきり外国荷物で手違いがあったのかと思いまして」 「そ、そうです。ほら? 先月、宝石事件が遭ったばかりですので」  ……その件で驚いただけか。まあ。いい。  静也はちらと森田を見た。森田が慌てて説明をした。 「笹岡主任。その新しい方法を説明してください」 「はい。それについてですが。その、我々は外国荷物に日本語で内容を記すことにしたんです」 「社長。今までは外国語が読めないため、一部の担当者しか扱いができませんでしたが、この方法により誰でも一眼で探すことができるようになったのです」  北山課長と山田倉庫長は得意げに語った。静也はまだ気になっていた。 「それで? 伝票に番号があるということだが、それは何だ」 「番号ですか? ええと。お待ち下さい」  笹岡主任は慌てて女性事務員を呼んだ。 「社長、この者に説明をさせます。君! 内容を説明したまえ」  笹岡の焦る様子を森田は不思議そうに首を傾げた。 「笹岡主任。なぜ事務員に説明をさせるのですか」 「あ?ははは。私はちょっと、目を患っていまして、今日はよく見えないのです。ささ。君、早く説明を!」 「はい」  急かされた女性事務員は静也を座らせ机の上に伝票を広げた。 「社長。これは外国荷物の伝票です。番号は『ヨー070603ー5ー15』とあります」  女性事務員の説明では『ヨ』は横浜港から来た荷物の意味。『070603』は、大正七年六月三日に到着したもの。そして『5』は工業製品。『15』は、倉庫の15番の場所にあるという意味だと明かした。 「なるほど……」  静也はもう一枚の伝票を手にした。 「ではこの伝票は、『ナー070531ー3ー14』とある。そして『ナ』だから……港は長崎か?」 「そうです。日付はそのままで、『3』は布製品で」 「倉庫の場所が『14』だな? 私でもわかるぞ。うん。面白い」  聞いていた森田も思わず拍手した。 「社長。これはすごいですね」 「ああ……非常に画期的だ。今までの在庫管理は日付で綴っただけの、箇条書きであったからな」  椅子にもたれた静也は素直に感心した。ほっとしている笹岡に静也は問いかけた。 「で? 誰がこれを考えついたのだ」 「あ、もちろん、私共です」 「必死に知恵を捻ったのですよ?」 「それはもう、夜も寝ないで考えました」  北山と山田も笹岡と一緒に語った。静也は機嫌よく長い足を組んだ。 「よくやったな。これなら倉庫の間違いが減るであろう。君達にはまた、褒賞を与えないとな」 「ありがとうございます」  笹岡を筆頭に三人は頭を下げた。森田も彼らの肩を叩き、大いに激励をした。静也は立ち上がった。 「今後もこのような工夫は大歓迎だ。だが今後は私に報告をするように」 「これは失礼しました!」  時計を見た静也が退室する雰囲気の中、女性事務員がサラリと言葉を放った。 「社長……これから倉庫ですか?」 「ん? そのような予定はないが」  静也は女性事務員を見ようとしたが、笹岡が間に入った。 「君! 何を言い出すのだ。社長はお忙しいのだぞ」 「そうだ、お引き留めをしてはならん!」 「すみません! さあ。ビルまでお送ります」  三人は青山ビルまで付き添いながら他の仕事の話をした。多忙な静也はこれを聞きながら社長室に戻り仕事をしていた。  ……しかし。先程の管理は実に画期的だ。そうだ! これを他の品にも応用できるのではないか。  外国荷物だけだはなく、他の業務にも転用できるのではないかと静也は手を止め想いに耽っていた。 「……静也様」  ……何に使えるんだ? ……ああ。食べ物ではダメだし。 「静也様! ムギですよ」 「あ? ああ。来ていたのか」  いつの間にか社長室にムギが来ていた。着飾ったドレス姿で不機嫌そうに顔を膨れていた。 「もう。先ほどから話しかけているのに」 「すまない。仕事の事を考えていたんだ」 「どうせ、私のことなんか、なんとも思ってないのでしょう」 「……そんなことないさ」  静也は偽りの微笑みを称えた。 「そして? 何かあったのか」 「ねえ。何か気がつかないですか?」  ムギは笑顔でクルリと回ってみせた。静也は本当に何も気がつかなかった。 「それは、新しいドレスか?」 「違います! 私は髪を切ったんです!」 「おっと、そうだ。そうだったね」  静也はすまないと目を細めた。しかしムギは怒っていた。 「やっぱり。私のことなんて、どうでも良いのでしょう?」 「そんなことないさ」 「でも」 「そうだ。今夜、一緒に洋食レストランで食事をしよう。その時、話を聞かせておくれ」 「……わかったわ。約束よ」  彼女はそういうと機嫌を直して部屋を出て行った。これと入れ替わりに森田が入ってきた。 「ああ、ムギさんがいらしていたんですね」 「森田よ。今夜、レストランの予約をしてくれ」 「いつものですね。デートか、いいですね」  ムギの嬉しそうな顔を思い出した森田も笑みを見せた。 「それとな。この部屋に鍵をかけてくれ」 「え」  森田は静也を見つめた。彼は書類を真剣に読んでいた。 「窓も開けてくれ! あんな香水で、急に来られたらたまったものじゃない」  苛立ちを帯びた早口の静也に森田は、慌てて窓を開けた。 「鍵の事でムギに文句を言われたら、『ここは防犯対策のため、施錠管理になった』とお前が言ってくれ」 「はい……しかし。奥様になられるのに。それではあんまりでは」  静也とムギが仲睦まじい様子から考えられない静也の要望に森田は戸惑いを見せた。 「まだ決定ではないし、どうせ向こうも私の地位が狙いなんだ。気にすることはない」 「は、はい」 「ええと……森田。この取引先の返事を催促してくれ。それと、この手紙に目を通すように専務に渡してこい。私はこの件は断ったはずなのに、どうも伝わっていない文面なんだ」 「はい」 ……やっぱり。仕事が一番なんだな。  ムギとの交際も仕事のためだと森田は悲しく理解した。静也が夢中になっている仕事の世界は、理想の高いものである。静也のために自分も入りたいが、彼についていくのがやっとの能力では、無理だと森田は思っていた。静也の熱心な横顔を見ている森田は、彼が孤独に見えていた。  翌々日。静也は外国荷物の伝票を元に発案した。この考えをさらに煮詰めようと、倉庫係の報告が載っている日誌を読んだ。 ……綺麗な文字だ。そして、実によくまとめてある。  今後は報告しろと命じたせいか、日誌は丁寧に仕事内容が記されている。静也は気分良く森田にも見せた。 「見ろ。森田」 「はい……おお。見やすいですね」 「そうなんだ。特にここだ」  この日の日誌には、トロッコで搬送の際、怪我をする者が多いという報告があった。 「そんなに多いのですか」 「ああ。具体的に一週間で起きた事故件数が記されている。そしてその原因と対策まで書いてあるんだ」  静也は面白そうに読んだ。 「森田。これによるとだな。事故は、毎日同じ時間帯だと書いてあるんだ」  さらに事故の原因は、倉庫に荷物を入れる作業と出す作業が重なるため、と記されていた。静也は背後から覗き込む森田に嬉しそうに語った。 「確かにそうだよな。混雑して、入り口でぶつかるんだよ」 「では社長。そこにはどうすれば良いと書いてあるのですか」 「ここに書いてある。対策はな、荷物を入れる作業員と出す作業員を、鉢巻で色分けしたいとあるな」 「どういう事?」 「ふふふ、面白い」  静也は面白そうに椅子に深く座った。 「色分けして互いの動きを明確にしたいって意味だろう? これで混乱が防げるならいいじゃないか、面白い。これを用意してやれ」 「鉢巻ですね」 「ああ。いう通りにしてやれ。これは結果が楽しみだ」  静也は珍しく微笑み窓辺に立った。小樽の荒波を望む静也の心は楽しさに揺れていた。 つづく
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