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この日の夕刻。静也は銀行で頭取と支配人と話し合いをしていた。
「青山社長。駅前の土地所得に関しては、我が銀行でぜひ融資させてください」
「それは、相手の提示金額次第になりますね」
余裕でお茶を飲む静也に頭取は額の汗を拭った。
「ですが、他社に買われるくらいならお買い求めいただいた方が宜しいかと」
「……まあ、検討しますよ。では、これで」
「え。これからいつもの店で食事と思ったのですが」
湯呑みを置いた静也に支店長は驚いた。静也は申し訳ないと目で謝った。
「すみません。これから大事な連絡が入るものですから」
「おお、とても残念です。では、またの機会に」
口惜しそうな支店長を背にし、静也は森田と一緒に青山ビルに戻ってきた。いつもならこの時刻は会社には戻らず、接待や遊びに行く静也であるが、最近は一度、会社に戻っていた。銀行を出た静也は運河沿いの道を早足で進む。森田は静也の背と夕日を追いかけていた。
「森田、早くしろ」
「待ってください。あの、社長、大事な連絡って、もしかして。例の日誌ですか」
「もちろん! 今日は返事が来るはずなんだ」
森田の問いに静也は後ろ向きに歩きながら答えた。白い歯を見せた静也は森田に早くしろと急かしながら青山ビルに戻った。社長室の机の上には楽しみにしていた日誌が届いていた。
「よーしよしよし! あるぞ……どれどれ……」
「はあ、はあ、そんなに楽しいものですか?」
必死についてきた森田に静也はにこやかに座った。
「うるさい! お前はさっきの値段で計算しておけ」
「はいはい」
疲れ顔の秘書を追い払った静也は楽しみに日誌をめくった。
「ええと。今日は鉢巻の効果についてだな」
新しいページには、鉢巻を使用する前と使用後の事故の件数の比較が記載されていた。
……いうまでもない。事故は自分で転んだ一件だけだ。
鉢巻は白色にし、荷物を出す作業員だけが装着し、それ以外は通常通りで作業したとあった。
……そうだよな。倉庫は暗いから白が目立つよな。
色分けすることにより、互いの仕事内容を知り、狭い空間でぶつかることが減ったと報告されていた。静也は一人で感心していた。
……ん。まだ続きがあるぞ。
報告には事故が減っただけでなく、作業が早くなったと記載があった。静也はそうだろうと頷いていた。
……たった鉢巻をするだけなのに。こんなに効果があるものなのか。
当初は面白半分の気分だった静也は、低予算の投資でこの高い効果に笑みを浮かべた。静也はますます倉庫長の考察が楽しみになっていた。そんな彼は、この日、初めて日誌に返事を書いた。
『効率向上のための思い付きは大いに評価する。今後も継続されたし』と静也は書き、森田経由で返却した。そして翌日の日誌を楽しみにしていたが、彼は出張で会社を留守にした。そんな彼が日誌を確認したのは五日後だった。
「森田。倉庫係の日誌はどこだ!」
「目の前に」
「あった! これだ! ええと五日分の報告が溜まっているはずなんだ……ん」
興奮しながら静也は手にし、開いた。
「あれ」
「どうました」
日誌をめくった静也は首を傾げた。
「これ、白紙だぞ?」
「貸してください。ああ本当ですね」
「どういうことだ? 直ちに確認せよ」
「はい」
苛立っている静也であるが、森田は慌てることなく笹岡に電話をした。出たのは本人だった。その間、静也はイライラしながら聞いていた。
「……それなら仕方ないですね。はい。では」
「で? 白紙の理由はなんだというのだ」
「笹岡主任は手を怪我して、筆が持てないそうです。書けずに申し訳ないと」
「怪我か、仕方ないな」
日誌を非常に楽しみにしていた静也は急につまらなくなっていた。
……せっかく。相談をしたかったのに……
荷物に番号をつけるやり方。他にも転用できないかと思っていた静也、これを思いついた人物に相談をしたかった。この夜は悶々と過ごした静也は翌日、思い切って森田と倉庫に行くことにした。
「今からですか? お待ちください。行くと電話をしますので」
「いいんだ。余計な気を遣わせたくない」
「ですが。失礼があっては」
案ずる森田に静也は、席を立った。
「ここは俺の会社だぞ? それなのに『今から行って良いですか?』と、断りを入れる奴がいるのか? くだらん。行くぞ」
静也はまるで風のように青山ビルを出た。運河沿いの倉庫には以前来たことがある静也は迷うことなく事務室をノックした。
「社長の青山だ。忙しい中、すまないが入るぞ」
静也は戸を開き、その光景に目を細めた。
「悪いが今、手が離せねえんだよ」
「荷物なら現場で聞けよ」
笹岡達は入ってきた静也に気が付かず背を向けたまま熱中していた。呆れて腕を組む静也の背後には森田も驚きで立っていた。
「おい。風で札が飛ぶじゃないか戸を閉めろ、って」
「ん?」
「あ」
花札の手を止めた三人を、静也は冷ややかな目で見ていた。
「申し訳なかったな。せっかくの楽しい時間を邪魔してしまって」
静也の低い声に背後の森田は震えたが、静也の視線の先の男達はもっと震えていた。
「あの、その」
「これは。そうだ! 接待の練習ですよ」
「そうです。あの、明日、接待があるのでその予行に」
笹岡は床に花札を落とした。歩み寄った静也は拾い上げた。
「予行か? 仕事熱心で感心だ……嬉しくて涙が出るよ」
静也はにっこり微笑み、椅子に座っている笹岡の肩を優しく叩いた。
「じゃ、いいよ? そのまま一生続けてくれ」
「え、一生」
「その、あの」
「仕事中に申し訳ありませんでした!!」
三人は椅子から落ちるように床に座り土下座した。静也はまだ笑顔だった。
「なぜ謝るんだ? 続けて良いって言っているのに」
「申し訳ありません! 」
「いいから、やりたまえ。だって君たちはもう私の部下では無いのだから」
静也の優しい語らいは、三人に小さい悲鳴をあげさせた。静也はこの三人を無視し、そっと女性事務員に視線を飛ばした。
「君、ここは。いつもこうなのか」
静也にはもう笑顔はない。机の前で仕事をしていた女性事務員の石川は、手を止めまっすぐ答えた。
「はい」
「いつから」
「以前は、暇な時だけだったんですが。ここ半年は……毎日こんな感じです」
「おい!」
「嘘を言うな!」
「社長。こんな女の話を信じないで下さい」
「黙れ! 私は彼女に聞いているんだ。おい。君はなぜ報告しなかったんだ」
石川は立ち上がり頭を下げた。
「申し訳ございません……私は首にすると脅されていました。家には幼い子供と病の夫と、寝たりきりの年寄りがいるので」
「……君のことは後で処遇を考える。ところで」
静也はひれ伏している三人を横目で見た。
「あの日誌を書いていたのは誰なんだ?」
「ひい! それは」
笹岡の声を静也は背にし、石川に歩み寄った。
「この三人には、指に怪我は無いし、そもそも能力もなさそうだ……君が書いていたのか?」
石川は静かに首を横に振った。
「私ではありませんし。そこの三人でもありません」
「では誰なんだ」
「それは……」
冷めた様子で語る石川はちらと土下座男達を見下ろした。
「本人の希望で、私の口からは申し上げられませんが……本人までお連れします」
「おお。これは楽しみだ」
静也は嬉しそうに指をパチンと鳴らした。
「森田。その三人の代わりの者を至急手配しろ。函館の倉庫番でもいいし、札幌の倉庫番でも良い。とにかく仕事をする奴を連れてこい」
「はい」
「では。君。案内してくれ。森田! 後はよろしく」
笑顔の静也は石川を先に歩かせ部屋を出た。呆然とした三人と、呆れた森田は遠ざかる足音を黙って聞いていた。
石川は倉庫へと静也を案内していた。広い倉庫内を歩く静也を汚れた作業員達は驚きで作業の手を止めていた。白いシャツ姿の彼は普段現場には来ない。作業員にとって雲の上の存在の静也は好奇の視線の海の中を泳ぐように倉庫へと進んでいた。
「そうか。だから君はあの時、私に『倉庫を見学しないのか』と、尋ねたんだな」
「すみません。上司がいたので、あの時はそうとしか言えずに」
「いや。そうだったんだな」
思い返してみればここ最近の倉庫管理の進歩は不自然だった。ベテランの三人が始めた急激な改革は画期的で素晴らしいものである。静也は今更、彼らだと思っていた自分が笑えてきた。
「社長?」
「いやいや。私もまだまだと思ってね」
「あの。これは私からのお願いですが。どうか本人を罰しないで欲しいんで
す」
歩きながら語る石川に静也も真顔で応じた。
「それは相手次第だな」
静也は高く積まれた荷物を見上げていた。石川は通り掛かった女労働者を呼び止めた。
「あのね。繭ちゃんとナオちゃんを知らない?」
「ああ。二人ならドラム缶をトロッコで押しているよ」
「そう。では行ってみるわね。社長、参りましょう」
やがて静也は倉庫の奥にやってきた。薄暗く熱い倉庫。そこでは若い娘達が必死にドラム缶を立てていた。静也は思わず立ち止まった。
……小柄の体で。あんな大きなものを?
静也は黙々と力仕事をする娘達に驚いた。今更、事務室で花札をしていた男達を思い出し、腑が煮えくり返ってきた静也は石川に問うた。
「彼女達なのか」
「待ってください……繭ちゃん! ナオちゃん。ちょっと来て」
返答を避けた石川であるが、呼びかけに応じた二人の娘が走ってきた。静也の前に集まった一人は汗だくの顔を手拭いで拭っており、もう一人の娘は手で額の汗をそっと拭っていた。
「どうしたの? 石川さん。私達、忙しいのですけど」
「また荷物探しですか?」
静也を社長だとわかっていない娘達の正直な態度を見た静也は面白くなっていた。
「二人とも。この方はね」
「いやいい。自分で聞く。お嬢さん達。仕事中すまないね。実はここの新しい倉庫管理を教わろうと思ってね」
静也は営業笑顔で尋ねた。自分が美形だと自覚している静也は笑顔と優しい声を掛ければ大抵の人は素直に応じてくれることを知っていた。特に若い娘には有効であるこの態度に、一人はうっとりし、一人は俯き静かに答えた。
「それはできません。社長の許可がないと」
「え? あのね? 繭ちゃん。この方はね」
説明しようとする石川を待たずに繭子ははっきり言った。
「お断りします! 申し訳ございませんが」
「へえ。これは面白い……」
静也は自分の微笑みが通用しない事に片眉を上げた。人を見かけで判断しない娘の強さに感心したが、石川は慌てた。
「繭ちゃん。あのね。本当にこの方は」
「いいんだ。君。私はこれでも青山社長の許可をもらっているんだよ」
「みなさんそう仰いますが。証拠がありませんもの」
「ふふふ。これは本物だ」
顎の手を置き嬉し顔の静也は、説明を断った娘の手を見た。その右の手の指には痛々しい包帯が巻かれていた。もう一方の娘の手には何もなかった。
「なるほど……そうか」
確信を得た静也は繭子にジリジリと近づいた。
「お前だな? 日誌を書いていたのは」
「え」
「この指、怪我をしているのか」
繭子の手首を掴んだ静也は顔を間近で見た。
「なんだ。その顔は? ひどい怪我じゃないか」
「離してください。離して」
「繭ちゃん! その人は青山社長なのよ!」
「え」
繭子は呆然と背の高い静也を見上げた。彼は手を掴んだまま嬉しそうに微笑ん
でいた。
「初めまして。私がここの社長の青山だ」
「も、申し訳ありません。でも、離してください」
「嫌だね」
「え」
静也は繭子の手を持ち上げ、背後からそっと抱きしめ背後から耳に囁いた。
「落ち着け! 私は話がしたいだけだ。もう一度尋ねる! 日誌を書いていたのはお前だな」
「それは」
繭子は答えを躊躇った。だがナオが発した。
「社長さん。そうです。そこにいる繭ちゃんが書いたんです!」
「ナオちゃん?」
ナオの言葉に静也も繭子はびっくりした。
「繭ちゃん。私の事ならもういいの。社長さん! 私はこの前の宝石詐欺の時の、荷物を渡した娘です。そして、あの時、犯人を言い当てたのは、そこにいる繭ちゃんです」
「なんだって」
静也は驚きで繭子を解いた。繭子は胸に手を置いて落ち着かせていた。
「詐欺事件……私は主任達が見抜いたと聞いていたが」
石川は首を横に振った。
「それも嘘なんです。全部。全部、そこにいる繭ちゃんがやったことなんです……繭ちゃんは私を庇うために、自分がしたのに、言わなかったんです」
「そうか。おい。傷娘」
静也は首を傾げ繭子を見つめた。
「それは真か」
……まさか。あの日誌を社長が読んでいたなんて思わなかったわ。
笹岡に指示されて日誌を書いていた繭子は彼に借金をしている富小路家の娘である。静也に接近するのは避けておきたかった。ここはひとまず認め、この事態を小さな傷ですませようと思った。
「はい。勝手なことをして、すみませんでした」
「なぜ謝る……」
頭を下げた繭子を静也は眉を潜めた。繭子は下を向いたまま打ち明けた。
「私はトロッコ係で、そんな権限がないのに。倉庫の荷物を管理したからです」
「顔を上げろ」
……こんなに非力の娘なのに。
仕草も言葉も丁寧な娘には顔に大きな斜めの傷跡がある。静也はその澄んだ瞳から離れられずにいた。
「トロッコ係なのか? お前は」
「はい」
娘に驚くことばかりの静也は思わず立ち尽くしていた。そこに森田が呼びにきた。
「社長、会社に戻らないと。会議の時間です」
「くそ!……おい、娘。繭と言ったな。名前を教えろ」
悔しそうな静也に繭子は名乗った。
「篠原繭子です」
「覚えておく。参るぞ、森田」
静也は颯爽と帰った。倉庫を出るとその運河の向こうは日本海。水平線には船が小さく見えていた。青い空、白い雲、光る海原に彼は目を細めた。夏の小樽、ビルまで歩む静也は、久しぶりに心から微笑んでいた。
完
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