四 潮騒に歌えば

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四 潮騒に歌えば

「はあ。びっくりした」 「大丈夫。繭ちゃん?」 「私は平気よ。それよりも石川さん。これはどういうことですか」 傷痕がある顔の繭子、そっと事務員の石川を見つめた。繭子の味方だった石川。事情を説明した。それは静也が真実に気がついたこと、繭子とナオは黙って聞いていた。 「社長は怒っていたから。主任達は首になるでしょうね。私もどうなるかわからないけど、繭ちゃんとナオちゃんにはお咎めはないはずよ」 「そんな?石川さんは悪いことしてないじゃないですか」 必死のナオ。しかし石川は首を横に振った。 「いいえ。悪いことを見て見ぬ振りをしたことは、それを容認したのと一緒だもの。もっと早くこうするべきだったわ。ごめんなさいね。二人とも」 ……ああ。石川さんも、心を痛めていたのね。 倉庫番の三人の仕事の様子。誰もがおかしいと思っていたが、それを言えずにいたこの状況。繭子の目には石川だけの責任に見えていなかった。 「石川さんだけのせいじゃないです。それに、事務仕事は石川さんが一人でやっていたじゃないですか」 「そうだよ!悪いのはサボっていたあいつらだよ!あーあ、でもこれで良くなればいいね」 楽観的なナオの笑顔。こうして倉庫の責任者はクビになった。多少の混乱はあったが、そもそもサボっていた男達がクビになっただけ。現場は通常運転であったが、外国荷物だけは繭子の肩にのしかかってしまった。 さらに。なぜか日誌を書いていたのは繭子と知れたはずなのに。静也が続けて書くように指示してきた。不思議に思いながら。繭子は日誌を毎日書いていた。この日、肩越しにナオはこれを覗いてきた。 「ねえ。何をそんなに書いているの?」 「ええとね。ここにはね。伝票の番号を、青山の自社製品に活用できないかって相談があるのよ」 「そんな難しいことが書いてあるの?」 「うん……でもね。やりたいことがはっきりしないと、お返事のしようがないわ」 「繭ちゃんって、すごいのね」 「そうでもないわよ……そうね」 何か答えないといけない雰囲気の日誌。繭子は例としてまずは青山倉庫の品の伝票番号の徹底を提案してみた。 ……これにより。在庫の数を合わせる事ができることと、行方不明の在庫を減らすこと。そして、作業が早くなると思います。っと。これでいいかな。 日誌を書いた繭子。これを自分で歩いて青山ビルまで届けに行った。 「失礼します。倉庫の者です」 「ああ。いつものね。預かるわ」 「お願いします」 事務所の一階には各部署行きの棚がある。受け取った事務員はここの秘書室用の棚に日誌を入れた。見届けた繭子は倉庫へ戻った。外国荷物の管理を終えると、トロッコも押した。繭子は多忙な日々を過ごしていた。 ◇◇◇ 「森田。日誌はどこだ」 「すいません。仕事が立て込んで、まだ一階から取って来ておりません」 「もういい。自分で取ってくる」 待っていられない静也。自ら一階に走った。目指した棚、そこには黒い背表紙の日誌があった。手に取った静也。事務員が慌てた。 「あ。社長。まだそこには今日の郵物が入っていませんが」 「それは後で良いんだ。これだけ持っていく!」 そして目当ての日誌を入手し、どこかニヤニヤしながら階段を上った。これを社員達は珍しそうにみているのも気づかず、彼は鼻歌まじりで社長室に戻ってきた。 「さてさて。今日は何が書いてあるかな」 「ご機嫌ですね」 「ああ、何とでも言え。それだけこれは楽しいのだ」 トロッコ娘の報告。美麗な文字の簡潔な報告。歯に絹着せない返事。静也はワクワクしながらこれを読んでいた。 「そうか。まずはこの番号の徹底か。まあ、そうだな」 「社長。そういえば、取引会社から、倉庫の見学希望が来てますが、いかがしますか?」 「相手はどこだ?場合によっては接待に使えるぞ」 静也の知らないうちに、現場では青山倉庫の新しいやり方が評判になっていた。あまりの問い合わせを受けた静也。この見学に許可を出して行った。 そんな夜。静也は婚約者のムギを連れて、料亭にて夕食を済ませていた。彼らはハイヤーで夜の運河沿いの道を進んでいた。 「ねえ。今日のお店のお肉は硬かったです。あそこはもう行きたくないわ」 「そうか」 ……どの店に行っても。あそこが嫌、ここが嫌い、か。 わがままなムギはどこに行っても不満だらけだった。静也の目線では問題ない出来事も、ムギにしてみれば大問題。今夜も汁がぬるかった。給仕の態度が悪かった。味が濃い、薄いだの。一緒にいた静也はすっかり疲れていた。 「それにね?私を馬鹿にした態度で」 「そんなことないだろう」 「まあ。静也様までそんなことを言うの?ひどいわ」 今夜は酒を飲んだムギ。酔って静也を責めていた。これもいつものことだった。 「もうすぐ着くからな」 「帰りたくない!ねえ。私は静也様のお屋敷がいい」 「だめだ。まだ婚約の身なんだ。ケジメをつけないと」 「う、うう。どうせ私のことなんか、嫌いなのよ……」 めそめそ泣き出したムギ。今夜の静也は慰める元気もなく、ただ隣で泣かせていた。そしてムギの実家に到着した。静也はムギを彼女の母親に託すと、ハイヤーに乗り込み、屋敷に向かった。 ……ああ。疲れた。明日も仕事か…… 小樽の海、夜のカーテンは下り、海なのか空なのか。静也にはわからなかった。潮騒の囁き、遠くの船の灯りと、灯台がぼんやり見ていた。運河通りを走るタイヤーの彼、ふとみると青山倉庫では明かりがついていた。 ……こんなに遅くまで仕事があるのか? 懐中時計では夜の10時。静也はその倉庫から出てきた従業員を偶然見た。 「あの。停まってください」 「え?お客さん。降りるんですか」 「いや。ちょっとだけ待ってください」 静也、思わず車から降りた。夜道。ガス灯の元、出てきた二人の娘は知っている顔だった。疲れているのであろう、その歩みはゆっくりだった。 「繭ちゃん。大丈夫?」 「うん……ごめんね。遅くまで手伝ってくれて」 「いいんだよ。昼間にあんなに見学が来るんだもの。繭ちゃんのせいじゃないよ」 聞こえた会話。暗闇の静也はドキドキしていた。そうとは知らない娘達は話していた。 「でもね、ナオちゃん。明日も見学がたくさん入っているの」 「どうしてそんなに見に来るんだろう。おかげでこっちは仕事が溜まるのに」 「見学の人はそんなこと知らないもの」 「でもさ。腹が立つじゃないの。まるで私たちがその分、給料が増えているとみんな思っているんだよ?」 ……違うのか?手配をしていないのか。 静也がいると知らない二人。ナオはますます声が大きくなっていた。 「実際は、仕事が増えたって。給料は同じでさ。そのせいでトロッコの仕事が終わらなくて。毎晩こんな時間まで働いているのに」 「ごめんね。私のせいで」 「違うよ!あのボンクラ社長のせいだよ!私たちにこんなに仕事をさせて。自分は今頃、美味しいものを食べているんだから!」 ……そうか。トロッコの仕事も通常通りに行っているのか。では負担だけが増えているのか。 そうとは知らなかった静也。胸がちくと痛んだ。やがて、二人は静也のそばを通過した。繭子の声が聞こえてきた。 「でもね。ナオちゃん。社長さんはお付き合いが仕事だから。美味しいものを食べるのも大切なことなのよ」 自分を庇っている繭子。静也は黙って聞いていた。今の言葉、ナオは憤っていた。 「でも許せないよ。私もそっちがいいもん」 「そうなの?私は、ナオちゃんとお夕食を食べて、お風呂に入る方が楽しみよ?……」 顔の斜め傷の繭子。汚れた顔で微笑んだ。月明かり、星の下。白い肌、黒い髪。優しい言葉。静也、胸が痛んだ。 一緒のナオはまだ怒って石を蹴っていた。 「私だってそうだけど。明日も見学がたくさん来るんでしょう」 ……ああ。そうだった。手配してしまった。 二人の負担を知らずに見学を引き受けてしまった静也。思わず星を仰いだ。それに繭子の朗らかな声が聞こえた。 「それなんだけどね。今。怪我でトロッコが押せない人がいるでしょう?今日は案内を手伝ってもらったのよ。お話しする内容を書けば案内できそうって言ってくれたから。明日は案内をお願いすることにしたの」 「そう。じゃ、明日は久しぶりに明るいうちに帰れるかな」 「うん。いつもごめんね?明日こそは早く終わって。お休みもできるといいね」 そう言って娘達は夜の道を帰っていった。静也は待たせていたハイヤーに乗った。 「旦那さん。お屋敷までですよね」 「ああ。出してくれ」 静也。夜の車窓を見ていた。運河沿いの運河、立ち並ぶ石造倉庫は押し黙って鎮座していた。 ……俺は何をしているんだ。あんな小娘達に負担を強いていたなんて。 仕事人間。金だけが全ての静也。しかし。人でなしではない。人を騙したり、貶めたりは決してしない。彼はただ実力主義で、感情に流されるのを嫌うだけ。その分、自分にも彼は厳しかった。 本日の自分。会議や商談、そしてムギの相手でヘトヘトだった。しかし。倉庫の娘達はそれ以上と知った。 ……これは改善せねば。それに、あの傷娘の健気なことよ…… こんな自分を理解している顔に傷ある娘。静也、ますます興味を持った。静也を乗せた車は夜の小樽運河を、明日に向かって走っていった。 ◇◇◇ 翌朝。繭子は必死にトロッコを押していた。最近。倉庫管理のせいで仕事が疎かになりがちの繭子。その分、夜まで仕事をこなしていたが、それでも白い目で見られることがあった。この日は案内を任せ、彼女はのびのびと仕事に専念していた。 日誌に『案内を怪我人に任せた』と記した翌日。社長の返事は『構わない』というものだった。まるで想いを受け取ってくれたような気持ちの繭子。こうしてしばらく。繭子はトロッコの仕事に専念できていた。 そんなある日。倉庫に秘書の森田がやってきた。 「篠原さん!ここにいたんですね。あの。明日の午後、社長がお話があるそうです」 「私にですか?」 「はい。これは仕事です。倉庫係としてお話を聞きたいそうなんですよ」 「そう、ですか」 また仕事を溜めてしまう。繭子は顔を暗くした。しかし、森田は微笑んだ。 「それでですね。篠原さんは日誌を書く仕事や。倉庫管理の仕事があるので。社長が君の代わりの従業員を入れましたから」 「え。それは、その人が日誌を書くのですか」 繭子の驚き顔。森田は笑った。 「はは。違います。君の代わりのトロッコ係ですよ。だから安心して明日の午後、秘書室に来てくださいね」 そう言って。森田は行ってしまった。これをナオも見ていた。不安だった繭子であるが、ナオに励まされ勇気を出し、翌日青山ビルの指示された秘書室にやってきた。 トロッコ係の繭子は力仕事であったので、汚れた着物であった。しかし、社長に呼ばれたとなるとそうもいかない。そこで子供の世話をする時に着ようとしていた夏の着物を着てきた。呉服屋の娘として育った繭子。低価な着物であったが、その所作は流れるように静かで優雅で。思わず事務員達も彼女の姿を目で追っていたが。その顔の傷を見て、顔を伏せていた。そんな繭子は秘書室にやってきた。 「ごめんくださいませ。倉庫係の篠原です」 「はい。どうぞ」 開けてくれたのは森田。どこか慌てていたが、繭子は入っていった。 「ごめんね。ちょっと立て込んでいて」 「私は構いませんよ」 「社長は電話中でね。私はちょっと」 すると。隣の部屋から声がした。 「おい。森田!書類はまだか!」 「ええ?!ただ今、計算し直しています」 森田が手にしていたのは数字の表。彼は算盤を弾こうとしていた。 「……森田さん。この合計は、一万、飛んで972円です」 「え」 「森田!早く」 「は、はい。篠原さん、何をしたの?」 「暗算です」 「ええ?じゃあ悪いけど。書き直してくれないか」 「はい。10972っと」 繭子が直した書類。森田は今度は他の書類を持ってきた。 「篠原さん。これの30トンを、25にしたらいくつになるのかって」 「……13250ですね」 「おい!森田!数字を!」 「うわ!ダメだ。篠原さん、来て!」 「え」 腕を引かれた繭子。隣の社長室にやってきた。ここでは静也が大声で電話をしていた。 「だから。その金額ではうちでは困ります!譲歩できませんよ。ええと。こちらの金額は。あ。君は」 驚きの静也。繭子も困惑気味で紙の数字を指し、説明した。 「社長。25トンなら13250です。20なら9780です」 「……あのですね。うちとしては25から20の間ですね。それ以下は困ります……あ。23ですか。23でしたら」 この話の間。繭子は24の場合、23の場合、22の場合、21の場合の数字を暗算し、ペンで書き彼に素早く示した。静也はこれを元に商談を決め、電話を切った。 「はあ、終わった」 「結局、24トンで決まりですか。最高じゃないですか」 「ああ。助かったよ、って。彼女は?」 いつの間にか社長室から消えていた繭子。静也は秘書室に向かうと彼女は小さくソファに腰掛けていた。 「君」 「あ?先程は失礼をしました」 繭子はそっと立ち上がり会釈した。静也は彼女を制し、再び座らせた。 「いやいや助かったよ。それよりもお前は算盤が得意なのか」 「いえ。私は暗算なので、算盤は下手なんです」 「どういうことだ?」 不思議な話。静也は面白そうに彼女の傷の顔を見た。繭子は恥ずかしそうに打ち明けた。 「私、幼い頃、左利きでした。それを両親が直そうと、右手で弾くそろばんを習わせたんです。でも、私は不器用でそろばんが遅かったので。こっそり暗算で、問題を解いていたんです」 「ははは。その方が便利ではないか」 「……お恥ずかしいです。それであの、私にどんな御用ですか」 ……明るいところで見れば、確かに顔に傷があるが、着物姿のなんと気品のあることか。 婚約者のムギはもっと豪華な着物を着ているはずなのに。静也は目の前の顔に傷がある、粗末な着物のトロッコ娘が美しく見えた。 じっと自分を見つめる目。それは真っ直ぐで美しかった。資産家の彼は容貌に優れていると知っていた。そんな自分の上部だけで寄ってくる女達と、目の前のトロッコ娘は明らかに違っていた。 それが何なのか、どこか違うのか。静也はそれを考えていた。 「社長。あの、私はどうすれば」 繭子の声で世界に戻った静也。目をパチクリさせた。 「あ。ああ。済まなかった。聞きたいことがあったんだ。ええと。今の仕事はどうだい?」 「どうだいと言われましても。それが今の私の仕事なので」 すると。静也は書類を手にした。 「ここにお前の覚書があるが、これによると『小樽市祝津出身。実家は漁師』とあるが」 「それは……」 繭子は本来、従業員の子供の世話係りで雇われていた。しかし、なぜかトロッコ係の自分。この話で繭子は現場の人が勝手に交換したのだと確信した。このまま誤解のままでは問題が生じる恐れあり。繭子は正直に話した。 「実は。私、従業員さんのお子さんのお世話係りで雇われたんですが、当日になって、トロッコ係に行くように指示されて、今に至っています」 「なんだって。では君はこの覚書の娘ではないのか」 静也とておかしいと思っていた。漁師の娘にしては聡明で上品。繭子の話になぜか胸がドキドキしてきた。 「では。お前は何者なんだ」 「私は、華原高麿の紹介で、札幌から来たんです」 「華原高麿?そうか。そんな話をしたな」 静也、落ち着かせようと立ち上がった。色々思い出してきた。 「そうだ。富小路の負債だ。その返済の猶予の条件に。親族の娘を奉公に出すと行っていた。それはお前なのか」 「はい」 実際はその富小路の人間であるが、繭子はそれは言わなかった。静也はまだ興奮していた。 「華原といえば元公爵家。そう言われれば納得だが……なぜ、トロッコ係をしていたんだ?」 「え」 「お前ほどの知恵者ならば、子供係に戻れたはずだ。なのになぜ、甘んじてトロッコ係などしていたんだ?」 詰め寄る静也。繭子は思わず息を呑んだ。 「それは」 「まだ何か秘密があるんだろう」 「……何もございません」 繭子、必死で反論した。 「私は。ここに奉公に来たんです。確かに仕事に関しては、子供の係と思っていました。でも、トロッコ係になっても、それだけ給金をもらうつもりでいましたし。それにトロッコだって。立派な仕事ですから」 「お前」 トロッコ係を下に見られた気持ち。繭子は仲間を思い出し、悔しくなって涙が出てきた。 「社長のように華やかなお仕事の方には、トロッコや倉庫の作業は汚れ仕事に見えるでしょう……でも、でも、現場のみんなは一生懸命に」 「わ、悪かった」 泣き出した娘。静也、思わず繭子の前に膝をついた。 「済まない。そんなつもりでは」 「今日だって私のために、皆は私の分の仕事を……」 「わかった!もう、泣くな」 静也。思わず繭子をふわと抱きしめていた。大粒の涙の繭子。小柄な体は震えていた。 ……こんなに泣くとは。自分のことではないのに。 夜の帰り道。自分の辛い仕事は気にしていない様子だった娘。しかし、トロッコ係が侮辱されたと彼女はこんなに泣いている。静也は自分が悪いことを忘れて、嬉しさで目を瞑った。 ……仕事の手柄は簡単に譲れるのに、仲間の事はこんなに思うとは。 「そうか。悪かった。俺が全て悪い」 「……すいません。取り乱してしまって」 「ほら。ハンカチをやる」 静也、ハンカチをくれた。繭子。涙を拭いた。静也も笑顔になった。 「落ち着いたか?では、本筋に入る」 「はい」 静也は繭子を見つめた。 「お前を、俺の秘書にすることにした」 「え」 静也は面白そうに小首を傾げた。繭子は驚きでハンカチを落とした。 つづく
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