四 潮騒に歌えば

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「何よ、あんた」 「篠原?」 「す、すいませんでした!」 繭子、お盆を持ったまま秘書室を出た。まだ胸がドキドキしていた。 ……恋人かしら。びっくりしたわ。 「おーい。篠原さん」 「あ?森田さん」 「こっち、こっち」 隣の会議室からこっそり手を振る森田。繭子はコーヒーを持って移動した。森田もここに書類を持って移動し、仕事をしていた様子だった。 「びっくりしたかな」 「ええ」 「そのコーヒーを飲んじゃおうか」 森田の勧めもあり、繭子も気を鎮めようとこれを飲んだ。森田は説明を始めた。 「彼女は社長の婚約者のムギさん。どうせわかることだから話すけど、これは政略結婚というか、割り切った結婚のようなんだ」 「そうなんですか」 「でも、ムギさんは社長に夢中でね、ああやって突然、押しかけてくるんだよ」 「社長は忙しい方ですものね」 そうなのか、と繭子はコーヒーを飲んだ。これを森田はじっとみていた。 「篠原さんは、気にならないの」 「何がですか」 「まあ、私がいうのもおかしいけど、社長はあんなに素敵な人じゃないですか」 地味な彼は自虐気味に呟いた。 「お金もあるし、実力もある。どの女性も、夢中になると思うんですが、篠原さんは違いますよね」 「……私はお仕事でここに来ているので、今は仕事だけで精一杯です」 「ははは」 森田はそういってコーヒーを飲んだ。 「思った通りの人だ。だからね、篠原さん、ムギさんのことは目を瞑ってください」 「はい」 ……森田さんも、大変なんだわ。 そんな彼の隣に積まれた書類。繭子は手に取った。 「手伝います。数字は私が見ますので」 「助かるよ。さ。頑張るか!」 こうして。ムギが来ている時間、繭子は静かに隣の会議室で仕事をこなしていた。 ◇◇◇ 静也の社長室。 「おい。離れろ」 「どうしてなの?私が何をしたっていうの」 「お前、どうしてわからないんだ」 仕事中にやってきたムギ。これに静也は激怒していた。 「言っただろう?結婚の前に、ちゃんと花嫁修行をしろって」 「それは来週から」 「言い訳ばかりで、何もできやしないじゃないか」 怒る静也。ムギは悲しくなっていた。 「私だって、頑張っているのよ」 「何をだ。言ってみろ」 ムギ、嬉しそうに紙袋を掲げた。 「はい。これ。皆さんにお饅頭を買ってきたのよ」 静也、彼女から顔を背けた。 「それは、親の金で買ってきたんだろう」 「え」 冷たい顔の静也、ムギは顔を青くした。 「お前が作ったとか。お前の稼いだ金で買ったのならわかる。だがお前は親からもらった金で、それを買ってきただけだ。お前自身は何もしていないじゃないか」 「ひどい」 「どうしてそれがわからないんだ」 静也の方こそ、悲しくなってきた。 「頼むから、帰ってくれ。しばらく会いたくない」 「そんな」 「……約束を破ったのはお前だ。おい、森田!そこにいるんだろう」 静也の大声。森田が現れた。 「はい」 「お嬢様のお帰りだ。車の手配を頼む」 「はい。ムギさん、どうぞこちらへ」 「うううう」 涙のムギ。悲しく社長室を出た。そこでばったり繭子に会った。急にムギは鬼の形相になった。 「よくもそんな顔で静也様のそばに」 「あ、あの」 「この化け物!こうしてやる!」 「きゃああ」 ムギ、怒りのまま繭子に襲いかかった。髪を引き袖がビリリと破れた。この声に静也が出てきた。 「ムギ。何をしているんだ!」 「こいつが悪いんだよ!よくも私の静也さんに」 「ムギさん!落ち着いて!篠原さん。離れて」 「は、はい」 静也と森田が抑えている間。逃げるように秘書室の奥に逃げこんだ繭子。やがて警備員がやってきて、大暴れのムギは去っていった。しんとなった後、汗だくの静也が戻ってきた。 「お前……ひどい格好だぞ」 「社長もですね」 静也もまた取り押さえる時に服を破かれたようで、シャツが乱れていた。それは森田も一緒だった。 「うわ。これから会議なのに、社長、どうしましょうか」 「知らん!」 「暑いですけど、上着を着てみましょうか……」 繭子、そっと静也に背広の上着を着せた。むすとした顔の静也。繭子は全然それを見ていなかった。 「うん。これならちょうど、破れた部分が見えないです。髪もこれで、平気です」 ささと静也の衣服を直した繭子。今度は森田を見た。 「あとは森田さん……これは」 襟元が破れた森田。繭子は彼のネクタイを外し、会社のロッカーにあった蝶ネクタイにした。 「よし。これなら破れたところが見えないですよ。このままお客様に会っても、お二人とも全然平気です!」 「……お前は?」 「そうですよ。篠原さんが一番ひどい格好ですよ」 「私ですか……それなら」 静也と森田。繭子のすることをじっとみていた。繭子は紐を取り出し、襷掛けをした。 「うん!これなら破れたところがわかりませんよね?完璧です」 笑顔の繭子。思わず静也と森田は笑い出した。 「ふ、ふふふ」 「ふ、篠原さんって」 「え、私、何かおかしいですか」 笑い出した静也と森田。繭子は恥ずかしくなった。 「あの、その」 「ははは。完璧か?こんなにビリビリで、服が破れているのに?」 「篠原さんって、面白いですね」 「……お恥ずかしいです」 こうした誤魔化しの三人。この日の午後、たくさんの来客に会った。しかし、誰も彼らの服の乱れを知らず、取引を済ませていった。この日、仕事を終えた三人、まだ笑っていた。 「さて。それはいいとして。篠原の着替えはあるのか」 「……明日は事務員さんの制服を借ります」 「それしかないのか」 驚きの静也。繭子はすまして答えた。 「ええ。でも、縫って直しますので、問題ありません」 破れた着物。これを直して着ると本気で言っている繭子。静也は黙っていられなかった。 「森田。今日はこれで帰るぞ」 「はい」 「車を手配しろ。篠原、俺が服を買ってやる」 「ええ?」 「早くしろ!」 「は、はい」 まるで背中を押されるように、繭子は静也と人力車に乗った。二人は黄昏の小樽の街へ進んでいった。 「しかし。お前って」 「何でしょうか」 隣に座る繭子。顔の斜め傷が目に入るが、美麗な肌、艶やかな黒髪、そして膝に手を置き行儀良く座っていた。上品な繭子。静也。自分の秘書を繁々と眺めた。 「あいつに着物を破られて。お前、腹が立たないのか」 「……びっくりしましたけど。きっと虫の居所が悪かったんでしょうね」 「普通。腹が立つと思うんだけどな」 運河沿いの道、オレンジの海風、海面はキラキラと眩しかった。静也はそっと髪をかき上げた。 「それよりも私、お仕事で覚えることが多くて、頭が痛いです」 ……真面目なんだな。 破れた着物を気にせず、必死に何かを考えている娘。静也は彼女がとても可愛らしく見えた。 「篠原、俺から謝る。怖い思いをさせてすまなかったな」 頭を少し下げた静也、繭子は慌てた。 「社長、もういいのです!私は気にしておりませんから。それよりも、明日の仕事が」 「いいから落ち着け」 やがてついたのは衣料品店だった。先に降りた静也。繭子の手を取りエスコート。そして慣れた足取りで店に入っていった。 「マダム!いるんだろう」 「はいはい。まあ?静也様、ようこそ」 中年マダムは静也に微笑み、そして隣の着物姿の繭子を見た。 「まあまあ可愛らしい方、え。ごめんなさい、そんな意味じゃないのよ」 繭子の褒め言葉のつもりが、顔の傷を見てびっくりの顔のマダム。繭子の方がくすくす笑った。正直者のマダムの失礼、静也の方が恥ずかしくなった。 「顔の傷などどうでも良いのだ!マダム、彼女は私の秘書だ。適当に見繕ってくれ」 これに繭子は静也を見上げた。 「あの社長。私は自分のお給料で買いますので」 「うるさい!これ以上、俺に恥をかかせるな」 「ふふふ。はいはい。ささあ、こちらにどうぞ」 見る限り高級店。椅子に座り待つ静也。マダムは楽しそうに繭子の服を選んでいたが、繭子も意見を出した。 「奥様。私は秘書なので、目立つのは困ります」 「何をいうのです。静也様はあんなにおしゃれなのに、あなたが地味でどうするの」 「私は引き立て役ですもの。そちらの白いブラウスと、紺のスカートがいいです」 「面白くない娘さんね」 「おいマダム。篠原の悪口は俺の悪口だぞ」 「はいはい。では、この紺のワンピースを着てみましょうか」 破れた着物を試着室で着替えた繭子。マダムが選んだ洋服に着替えた。そして出てきた。 「社長。いかがでしょうか」 「お」 なぜか。静也はそれ以上、言わなかった。不安になった繭子。鏡をもう一度見た。 ……やっぱり、似合わないのね。 呉服屋の娘の繭子。普段着も着物だった。この洋服に違和感があった。 「あの、私やっぱりお着物で帰ります」 「あのな。篠原」 静也、なぜか繭子の足元を見ていた。 「その……似合っているぞ」 「でも、こんな高いお洋服は」 「お前、本気で俺の秘書をする気あるのか」 「え」 頬が赤い静也。必死に話した。 「お前の顔の傷なんて、俺にはどうでもいい。仕事さえしてくれればいいと思っている。だが、秘書としてお前はこれから今以上の人に会う。それには服装だってちゃんとしてないと、信用されないのじゃないか」 「そうですが」 「ですが、って何がだ」 繭子。やっと自分を向いた彼を見つめた。 「私。実家でもお着物だったので、お洋服を着るのが初めてなんです」 「え」 「まあ?これはこれは」 真顔の繭子。静也はなぜか耳まで真っ赤になった。繭子は素直に感想を述べた。 「なんかこう、ふわふわしているんですね」 「初めてですって!よかったわね、静也さん!」 「痛!」 背中を叩いたマダム。静也は痛がったが、微笑んでいた。 「全く。お前という奴は」 スカートに恥ずかしそうにしている繭子。勢いで静也を見た。 「社長、私、これで秘書のお仕事ができますか?」 「い、いいんじゃないか」 「おかしくないでしょうか」 「あのな」 静也、繭子の肩に手を置き、自分に向かせた。 「おかしくない。とても似合うぞ」 「でも、私、やっぱりお洋服に自信がないです」 困り顔の繭子。静也は抱きしめたいのを我慢した。 「お、愚か者め。良いか?最初から自信がある奴などいない。それに俺が似合うと言っているんだ。素直に信じろよ」 ……それもそうね。それに、社長が買ってくれたんだもの…… 「わかりました……社長。ありがとうございます。私、一生大事に着ますね」 「一生?」 「ふふふ。静也様?おほほほ」 「うるさい!さあ。篠原。帰るぞ!」 繭子の手を取った静也。その手が温かった。初めて着たワンピース。まるで背中に羽が生えたような気分になった。帰りの人力車。疲れていつの間か寝てしまった繭子。より掛かる肩を貸した静也はどこか笑っていた。二人で帰る人力車の夜、海岸沿いの道の潮騒は、夏の恋に鼓舞するかのように流れていた。 第四話 「潮騒に歌えば」完 第五話 「涙の行方」へ
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