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「何よ、あんた」
「篠原?」
「す、すいませんでした!」
繭子、お盆を持ったまま秘書室を出た。まだ胸がドキドキしていた。
……恋人かしら。びっくりしたわ。
「おーい。篠原さん」
「あ?森田さん」
「こっち、こっち」
隣の会議室からこっそり手を振る森田。繭子はコーヒーを持って移動した。森田もここに書類を持って移動し、仕事をしていた様子だった。
「びっくりしたかな」
「ええ」
「そのコーヒーを飲んじゃおうか」
森田の勧めもあり、繭子も気を鎮めようとこれを飲んだ。森田は説明を始めた。
「彼女は社長の婚約者のムギさん。どうせわかることだから話すけど、これは政略結婚というか、割り切った結婚のようなんだ」
「そうなんですか」
「でも、ムギさんは社長に夢中でね、ああやって突然、押しかけてくるんだよ」
「社長は忙しい方ですものね」
そうなのか、と繭子はコーヒーを飲んだ。これを森田はじっとみていた。
「篠原さんは、気にならないの」
「何がですか」
「まあ、私がいうのもおかしいけど、社長はあんなに素敵な人じゃないですか」
地味な彼は自虐気味に呟いた。
「お金もあるし、実力もある。どの女性も、夢中になると思うんですが、篠原さんは違いますよね」
「……私はお仕事でここに来ているので、今は仕事だけで精一杯です」
「ははは」
森田はそういってコーヒーを飲んだ。
「思った通りの人だ。だからね、篠原さん、ムギさんのことは目を瞑ってください」
「はい」
……森田さんも、大変なんだわ。
そんな彼の隣に積まれた書類。繭子は手に取った。
「手伝います。数字は私が見ますので」
「助かるよ。さ。頑張るか!」
こうして。ムギが来ている時間、繭子は静かに隣の会議室で仕事をこなしていた。
◇◇◇
静也の社長室。
「おい。離れろ」
「どうしてなの?私が何をしたっていうの」
「お前、どうしてわからないんだ」
仕事中にやってきたムギ。これに静也は激怒していた。
「言っただろう?結婚の前に、ちゃんと花嫁修行をしろって」
「それは来週から」
「言い訳ばかりで、何もできやしないじゃないか」
怒る静也。ムギは悲しくなっていた。
「私だって、頑張っているのよ」
「何をだ。言ってみろ」
ムギ、嬉しそうに紙袋を掲げた。
「はい。これ。皆さんにお饅頭を買ってきたのよ」
静也、彼女から顔を背けた。
「それは、親の金で買ってきたんだろう」
「え」
冷たい顔の静也、ムギは顔を青くした。
「お前が作ったとか。お前の稼いだ金で買ったのならわかる。だがお前は親からもらった金で、それを買ってきただけだ。お前自身は何もしていないじゃないか」
「ひどい」
「どうしてそれがわからないんだ」
静也の方こそ、悲しくなってきた。
「頼むから、帰ってくれ。しばらく会いたくない」
「そんな」
「……約束を破ったのはお前だ。おい、森田!そこにいるんだろう」
静也の大声。森田が現れた。
「はい」
「お嬢様のお帰りだ。車の手配を頼む」
「はい。ムギさん、どうぞこちらへ」
「うううう」
涙のムギ。悲しく社長室を出た。そこでばったり繭子に会った。急にムギは鬼の形相になった。
「よくもそんな顔で静也様のそばに」
「あ、あの」
「この化け物!こうしてやる!」
「きゃああ」
ムギ、怒りのまま繭子に襲いかかった。髪を引き袖がビリリと破れた。この声に静也が出てきた。
「ムギ。何をしているんだ!」
「こいつが悪いんだよ!よくも私の静也さんに」
「ムギさん!落ち着いて!篠原さん。離れて」
「は、はい」
静也と森田が抑えている間。逃げるように秘書室の奥に逃げこんだ繭子。やがて警備員がやってきて、大暴れのムギは去っていった。しんとなった後、汗だくの静也が戻ってきた。
「お前……ひどい格好だぞ」
「社長もですね」
静也もまた取り押さえる時に服を破かれたようで、シャツが乱れていた。それは森田も一緒だった。
「うわ。これから会議なのに、社長、どうしましょうか」
「知らん!」
「暑いですけど、上着を着てみましょうか……」
繭子、そっと静也に背広の上着を着せた。むすとした顔の静也。繭子は全然それを見ていなかった。
「うん。これならちょうど、破れた部分が見えないです。髪もこれで、平気です」
ささと静也の衣服を直した繭子。今度は森田を見た。
「あとは森田さん……これは」
襟元が破れた森田。繭子は彼のネクタイを外し、会社のロッカーにあった蝶ネクタイにした。
「よし。これなら破れたところが見えないですよ。このままお客様に会っても、お二人とも全然平気です!」
「……お前は?」
「そうですよ。篠原さんが一番ひどい格好ですよ」
「私ですか……それなら」
静也と森田。繭子のすることをじっとみていた。繭子は紐を取り出し、襷掛けをした。
「うん!これなら破れたところがわかりませんよね?完璧です」
笑顔の繭子。思わず静也と森田は笑い出した。
「ふ、ふふふ」
「ふ、篠原さんって」
「え、私、何かおかしいですか」
笑い出した静也と森田。繭子は恥ずかしくなった。
「あの、その」
「ははは。完璧か?こんなにビリビリで、服が破れているのに?」
「篠原さんって、面白いですね」
「……お恥ずかしいです」
こうした誤魔化しの三人。この日の午後、たくさんの来客に会った。しかし、誰も彼らの服の乱れを知らず、取引を済ませていった。この日、仕事を終えた三人、まだ笑っていた。
「さて。それはいいとして。篠原の着替えはあるのか」
「……明日は事務員さんの制服を借ります」
「それしかないのか」
驚きの静也。繭子はすまして答えた。
「ええ。でも、縫って直しますので、問題ありません」
破れた着物。これを直して着ると本気で言っている繭子。静也は黙っていられなかった。
「森田。今日はこれで帰るぞ」
「はい」
「車を手配しろ。篠原、俺が服を買ってやる」
「ええ?」
「早くしろ!」
「は、はい」
まるで背中を押されるように、繭子は静也と人力車に乗った。二人は黄昏の小樽の街へ進んでいった。
「しかし。お前って」
「何でしょうか」
隣に座る繭子。顔の斜め傷が目に入るが、美麗な肌、艶やかな黒髪、そして膝に手を置き行儀良く座っていた。上品な繭子。静也。自分の秘書を繁々と眺めた。
「あいつに着物を破られて。お前、腹が立たないのか」
「……びっくりしましたけど。きっと虫の居所が悪かったんでしょうね」
「普通。腹が立つと思うんだけどな」
運河沿いの道、オレンジの海風、海面はキラキラと眩しかった。静也はそっと髪をかき上げた。
「それよりも私、お仕事で覚えることが多くて、頭が痛いです」
……真面目なんだな。
破れた着物を気にせず、必死に何かを考えている娘。静也は彼女がとても可愛らしく見えた。
「篠原、俺から謝る。怖い思いをさせてすまなかったな」
頭を少し下げた静也、繭子は慌てた。
「社長、もういいのです!私は気にしておりませんから。それよりも、明日の仕事が」
「いいから落ち着け」
やがてついたのは衣料品店だった。先に降りた静也。繭子の手を取りエスコート。そして慣れた足取りで店に入っていった。
「マダム!いるんだろう」
「はいはい。まあ?静也様、ようこそ」
中年マダムは静也に微笑み、そして隣の着物姿の繭子を見た。
「まあまあ可愛らしい方、え。ごめんなさい、そんな意味じゃないのよ」
繭子の褒め言葉のつもりが、顔の傷を見てびっくりの顔のマダム。繭子の方がくすくす笑った。正直者のマダムの失礼、静也の方が恥ずかしくなった。
「顔の傷などどうでも良いのだ!マダム、彼女は私の秘書だ。適当に見繕ってくれ」
これに繭子は静也を見上げた。
「あの社長。私は自分のお給料で買いますので」
「うるさい!これ以上、俺に恥をかかせるな」
「ふふふ。はいはい。ささあ、こちらにどうぞ」
見る限り高級店。椅子に座り待つ静也。マダムは楽しそうに繭子の服を選んでいたが、繭子も意見を出した。
「奥様。私は秘書なので、目立つのは困ります」
「何をいうのです。静也様はあんなにおしゃれなのに、あなたが地味でどうするの」
「私は引き立て役ですもの。そちらの白いブラウスと、紺のスカートがいいです」
「面白くない娘さんね」
「おいマダム。篠原の悪口は俺の悪口だぞ」
「はいはい。では、この紺のワンピースを着てみましょうか」
破れた着物を試着室で着替えた繭子。マダムが選んだ洋服に着替えた。そして出てきた。
「社長。いかがでしょうか」
「お」
なぜか。静也はそれ以上、言わなかった。不安になった繭子。鏡をもう一度見た。
……やっぱり、似合わないのね。
呉服屋の娘の繭子。普段着も着物だった。この洋服に違和感があった。
「あの、私やっぱりお着物で帰ります」
「あのな。篠原」
静也、なぜか繭子の足元を見ていた。
「その……似合っているぞ」
「でも、こんな高いお洋服は」
「お前、本気で俺の秘書をする気あるのか」
「え」
頬が赤い静也。必死に話した。
「お前の顔の傷なんて、俺にはどうでもいい。仕事さえしてくれればいいと思っている。だが、秘書としてお前はこれから今以上の人に会う。それには服装だってちゃんとしてないと、信用されないのじゃないか」
「そうですが」
「ですが、って何がだ」
繭子。やっと自分を向いた彼を見つめた。
「私。実家でもお着物だったので、お洋服を着るのが初めてなんです」
「え」
「まあ?これはこれは」
真顔の繭子。静也はなぜか耳まで真っ赤になった。繭子は素直に感想を述べた。
「なんかこう、ふわふわしているんですね」
「初めてですって!よかったわね、静也さん!」
「痛!」
背中を叩いたマダム。静也は痛がったが、微笑んでいた。
「全く。お前という奴は」
スカートに恥ずかしそうにしている繭子。勢いで静也を見た。
「社長、私、これで秘書のお仕事ができますか?」
「い、いいんじゃないか」
「おかしくないでしょうか」
「あのな」
静也、繭子の肩に手を置き、自分に向かせた。
「おかしくない。とても似合うぞ」
「でも、私、やっぱりお洋服に自信がないです」
困り顔の繭子。静也は抱きしめたいのを我慢した。
「お、愚か者め。良いか?最初から自信がある奴などいない。それに俺が似合うと言っているんだ。素直に信じろよ」
……それもそうね。それに、社長が買ってくれたんだもの……
「わかりました……社長。ありがとうございます。私、一生大事に着ますね」
「一生?」
「ふふふ。静也様?おほほほ」
「うるさい!さあ。篠原。帰るぞ!」
繭子の手を取った静也。その手が温かった。初めて着たワンピース。まるで背中に羽が生えたような気分になった。帰りの人力車。疲れていつの間か寝てしまった繭子。より掛かる肩を貸した静也はどこか笑っていた。二人で帰る人力車の夜、海岸沿いの道の潮騒は、夏の恋に鼓舞するかのように流れていた。
第四話 「潮騒に歌えば」完
第五話 「涙の行方」へ
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