春と人形

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春と人形

 一目見て、この人を好きになる、と思った。  もしかするとその瞬間にはもう好きだったのかもしれない。  その日はとてもよく晴れた空だった。まだ冬の香りを少し残した空気が、広い体育館に詰め込まれた私たちのもとへと流れ込む。やっと暖房が効き始めたのを感じながら、手のひらをそっとさする。校長の話は長くて、欠伸をこっそり噛み殺した。  学校は第一志望に落ちた時点でどこでもよかった。正直なところ併願校のこの学校も偏差値的には厳しかったけど、なぜだか合格してしまった。  ゆっくりと辺りを目立たないよう見回して今度は笑ってしまいそうになる。早まったかもしれない。もう少しきちんと調べて選んでおけばよかった。暗めの髪に、ひざ丈のスカート、どれもこれもピカピカで全員が全員に似ていた。まあ入学式なんてこんなものだとわかってはいたけれど、何というかこれが圧巻というやつなのかもしれない。本当に女の子しかいないんだなあなんて、女子校に入学しておいて今更な感想を浮かべる。  でもそんなのすぐに慣れるんだろうな。私はまた欠伸を噛み殺した。一度目の時よりも周りのことは気にならなかった。 「ねえ、どうして制服で来ちゃったの?」  登校二日目。私が教室に来るや否や、栗色の大きな目を見開いた彼女は、私の全身をまじまじと見た。紺色の冬用の上着に細めのプリーツの冬スカート、それから結び方を練習したえんじ色のタイ。上着より少し濃い紺色のハイソックスに、スニーカー。今の私はどこからどう見てもセーラー服を身につけた女子高生だ。 「え、どういうこと……?」  名前を覚えていない彼女は、私の前から立ち退く気はないようだ。 「あなた、入学式で私の隣だったでしょ?」  少女は片眉を上げて、私の前の席に座った。そこ、違う人の席なんだけどな……まあいいか。 「うん、おはよう」 「いやおはようじゃなくって! [[rb:おきの > 沖野]][[rb:菖蒲 > あやめ]]だってば!」  そういや、この勢いのいい同級生とは、入学式後二、三言話した気もする。 「そうだ、沖野さんだ」 「そうだ! って忘れてるの隠さないのね。まあいいけど。忘れそうなら菖蒲って呼んで」  短いほうがいいでしょと菖蒲は笑って私を見上げる。私が人の名前を覚えるのが苦手なことを彼女は気遣ってくれたようだった。語気はきついがどうやら悪い子ではないらしい。  私の態度に更に呆れたように笑って、彼女ははあとため息を吐いた。 「じゃあ、菖蒲って呼ぶね」 「その代わりあんたのことも名前で呼ばせてもらうから、[[rb:若葉 > わかば]]」  言葉とは裏腹に弾んだ声が耳を打つ。 「………なによ、嫌?」  眉を下げて今度は恐る恐る絞り出した声は、なんだか子犬のようだった。そういや昨日お互いに名前を言ったような気もした。そうだそうだ、だんだん思い出してきた。 「嫌じゃないよ、全然。ただ、名前覚えてくれてたんだなって」  びっくりしてさ。慌ててそう付け足すと途端に眉がへにゃりと緩んだ。菖蒲は表情がころころ変わって面白い。その原因が私だったのは少し申し訳ない気もしたが。 「な、なによ。そういうこと?」  途端に菖蒲の表情が明るくなった。どうやら言葉と表情が合致しないタイプのようだ。 「うん、驚かせちゃってごめん」  せっかく話しかけに来てくれたのに、悪いことをした。そう謝ると彼女はそっぽを向く。 「驚いてなんていないわよ、別に。それに……少し私が強引だったわ」  口元を緩ませながら彼女は目を逸らして、思い切ったようにぱっとこちらを見る。つり目がちな目尻が少し下がっていた。さっきの気の強い発言をした人とは思えない、照れ臭そうな眼差し。 「私、同中からの友達誰もいないの。仲良くしてくれたら、嬉しいな」  思ったままのことを伝えてみると、彼女は花が咲くような笑みを溢した。 「そ、そうなの? それなら……仲良くしてあげないこともないわよ」  素直じゃない言葉と、真反対の表情。なんとなくいい友達になれるような気がする。私は「よろしくね」と手を差し出した。 「握手?」 「あ、つい癖で。嫌だった?」  慌てて引っ込めようとすると、菖蒲は華奢な見た目よりもうんと力強い両手のひらで私の手を握る。 「嫌じゃない!」  あ、やっぱり仲良くなれそう。そう思っているうちに、私の右手から暖かい温度が去っていく。  そして本題を思い出したというように、菖蒲ははっと息を呑んだ。 「そう! あんたなんでそんな恰好してるのよ!?」 「……そんな恰好?」  鋭さを取り戻した視線が私の全身をくまなく這う。なんだろう、少し気恥ずかしい。 「なんで制服なんかで来ちゃったのって言ってるの!」  はたと鞄を机の上から降ろす。学校なんだから制服を着て何が悪いんだろう? 視線を上げて、改めて教室を見回した。そして気づいた。広くなった視界が、花束のように鮮やかな色たちで賑わっていることに。  ブラウスに春色の鮮やかなカーディガン、大きめのパーカーに細身のパンツ、個性的な柄のスカーフに、お姫様のようにたっぷりの繊細なレースを纏ったワンピース。  野暮ったい紺色のセーラー服を身につけたクラスメイトはどこにも見当たらない。……正確には私以外。ええとこれは、つまり。 「え、みんな制服着ないの……?」 「当り前じゃない!」  言葉の尾は彼女の言葉に吸い込まれた。立ち上がって、今度は私が彼女の全身をくまなく眺める。シンプルなカットソーに、桃色のジャケット、淡く揺れるスカートはどう見ても私のプリーツスカートとは別物だった。  昨日はみんな紺色一色だったというのに。これじゃあ菖蒲に声をかけてもらわなければ、友達すら出来そうになかったということか。  今更戸惑いの視線があちこちから投げられていることを知る。時折私を見る周りの視線は何か言いたげで、ちくちくと意外にも刺さった。 「そう言えば、私服校だったっけ?」  首を傾げて席に着いた私に菖蒲が口を尖らせる。 「遅い! この学校は有名私立高として名高いけれど、私服で登校出来るっていうのも人気の一つなんだから!」 「え、そうなの。どうしよう毎日着る服考えるの、めんどくさいな」   頭の中でバリエーションの無い私服がぐるぐる回る。中学は部活があったから、休みの日も学校指定のジャージと私服が二セットあったら十分だったし。ロングパーカーはまだいいとして、Tシャツ、ランニング用のジャージ。……はダメか。 「なに眠たいこと言ってるのよ! 大体制服を着てるのなんてね」  菖蒲が何かを言おうとしたその時だった。視界の端に同じ紺色を見つけたのは。  教室がしんと音を無くした気がした。 「あら、珍しい」  その人はこちらを向いてそう言った。澄んだ音がやけに大きく耳を打つ。 「一年生なのね」  ちらりと教室札を見上げる。随分離れているのに、その人の声は教室にとてもよく響いた。廊下に立ったまま、彼女はまた口を開く。長い睫毛が蛍光灯に照らされて、影を落としていた。白い肌に触れた手入れの行き届いた髪が、小さな耳に掛けられる。ゆっくりとこちらを見た瞳は美しい硝子玉のようだった。この世の綺麗なものを全部詰め込んだような、硝子玉。 「はい」 「ここの制服が好きなの?」  自然な赤を含んだ唇が言葉を紡いだ。 「はあ。まあ、その……」  別に好きでも嫌いでもなかったけれど。服装が自由だとは知らなかったとは言えなくて、曖昧な言葉を音にする。 「あら、珍しい」  すると、切れ長の目が、思ったよりも柔く細められた。細い指が二度同じ言葉を紡いだ口元を覆った。流れるような動作は、そうすることが当たり前のようで何故か視線をを奪われる。なんだろう、冷たそうに見えたのに。あまりに無邪気なその仕草がどっと心臓を温める。窓から吹きこんだ風が、胸まである真っ直ぐな髪を柔らかく揺らした。それ以上何も発することなく、彼女はくるりと背を向ける。会話は終わりらしかった。 「あの!」  なんだか初めて会ったばかりのこの人を引き留めたいような気がして、気がついたら声を張って呼び止めていた。クラスが騒めく。でもそんなことは気にならなかった。 「なあに?」  もうすっかり元の表情に戻った彼女は、白い首だけを捻って問う。 「あなたは、好きで着てるんですか?」  こんな美人ならいくらでも似合う洋服があるだろう。それなのにこんな野暮ったい制服を着ている理由なんて。答えは予想がついていたのに、聞いてみたくなって。気がついたら尋ねていた。  彼女は薄く笑みを浮かべて私の想像を捻ったような言葉を口にする。 「好き……なのかもしれないわね。私はもう随分前に慣れてしまったから。……慣れは一瞬よ。私たちは常に一瞬の中にいるの」  綺麗な音で、返事とは言えない返事が彼女の口から紡がれる。 「はあ」  正直、よくわからない言葉だった。陳腐ななぞなぞみたいな言葉。あるいは詩にも聞こえるような言葉だった。中学でこんなことを口にする人がいたら、私はげらげらお腹を抱えていただろう。しかし笑いは込み上げてこなかった。その言葉の意味を解いてみたいとさえ思った。なぜか陳腐な言葉さえ似合いに聞こえる彼女のことを、もっとよく知ってみたい気がする。 「それじゃあね、素敵な学生生活を」  彼女はなんの躊躇いもなく、また背を向けた。瞬間、太陽に照らされた瞳がきらりと反射する。薄く笑みをたたえる姿は冷たくて、本当の人形のようだった。それが妙に寂しくて、目蓋の裏に焼き付いた。 「ねえ」  彼女の後ろ姿を見つめる。一瞬見えた、すっと伸びた背筋。ぶわりと舞い込んだ春の青い香り。華奢な背中はどんどん遠くなっていく。 「若葉?」  菖蒲に袖を引かれてはっとする。彼女の姿は視界からとっくに消えていた。 「菖蒲、あの人……誰?」  言葉がさらりと口から零れる。私の言葉を聞いた菖蒲は一瞬驚いて、それから納得したように彼女のことを口にした。 「三年生の麻木先輩ね。私も会ったの初めてだけど姉さまが言ってたわ」  私は頭の中で彼女の名前を繰り返す。麻木、先輩。 「美人で、頭がよくって、ちょっとした有名人なんだって」  絵に描いたような理想の先輩だと言うのが、彼女の今のところの評判のようだ。 「それにね」  麻木先輩っていつも制服なのよ。そう菖蒲は不思議そうに言った。 「そうなんだ」 「先輩お金持ちって噂だし、いろんな服が似合いそうなのに。そういう意味ではちょっと変わってるのかもね」  首を傾げる菖蒲に、私は思い付いたことを口にする。 「案外あの先輩もめんどくさいだけなんじゃない?」  きちっと折り目の揃ったプリーツ、左右対称に結ばれているタイを思い出す。それは今朝鏡の前で見た私の制服とはとても同じものに見えなかった。別にサイズが合ってないわけでもないのに。振り返ったその姿に、視線に釘付けになった。 「そんなことあるかしら?」  とくり、心臓がゆっくりと鼓動を打つ。振り返った時の、柔らかい笑みが脳裏を過った。勝手に印象づけた笑顔よりも、ずっと柔らかい表情。それは一秒ほどの時間だったけど。  違和感を頬に感じる。触れてみると、途端に指先から細胞を駆け上がる熱。 「だったら面白いなって思っただけだよ」  自分の声がざわめきを取り戻した教室に落ちる。もしそんな理由であれば面白いなと思っただけだ。それだけだ、多分。  私は思考と噛み合わない体温に気づかないふりをした。窓の外を、風で散りかけた桜の花弁がひらりと舞った。
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