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初夏の指先がほどくもの
「あら、また会ったわね」
二つ年上の風変わりな先輩との再会は案外早いものだった。桜の花びらはもうとっくに見なくなり、夏が始まりを迎えた頃。
三年生の先輩なんて、そうそう会うこともないだろうと思っていた。それから、自分のことなど覚えているはずもないだろうとも。しかし麻木先輩は私を視界に入れた瞬間、にっこりと微笑む。整った形の唇を上品に持ち上げ、彼女はひらひらと手を振った。
「どうも」
私はぺこりと首だけを下げて挨拶する。クラスで一番楽そうだと思った図書委員の仕事。定期的な受付の当番と、授業で使った資料を運ぶだけと聞いていたのはなんだったのか。両手でやっと抱えられる量の本を押さえながら、目の前の隙間さえ無い図書室の扉をじっと見る。
「お仕事?」
涼やかな声が日の当たる廊下に落ちた。つるつるとした白い大理石を模した床は、今日もピカピカに磨き上げられていた。
「私図書委員なんで」
なんと言っていいか分からず、それだけを返す。そもそもこの人と話したことはあれ以来もちろんない。どういう人かも知らないし、会話をしたのはあの一瞬だけ。麻木先輩が私のことを覚えていること自体が不思議なのだ。……まあ、私も彼女の名前を覚えてしまったわけだけど。
「そうなの? 図書室は結構利用するのだけど、あなたに会ったことはない気がするわ」
大きな目がぱちりと瞬きする。そりゃそうだ。最近まで裏の準備室の方で、先生の手伝いをしていたのだから。
「あー、本の整理とかをしてたからかもです」
裏方の仕事をしていた理由は至極単純だ。受付の仕事は私に向いてそうになかったから。
中学からエスカレーター式で進学してくる生徒が多いこの学校は、顔見知りが多い。外部から受験した私にそういう空気は気まずく、目立たない雑務ばかりをしていた。
「学校には慣れた?」
そんな私の気持ちが伝わったのか、麻木先輩はくすくすと笑って尋ねる。なにそれ、親戚のおじさんの会話みたい。
「慣れたというか、わかんないことばっかりです」
それより時間があるならこれを持っててほしい。時間が経つごとに増してきた気がする重みを見つめる。
「わからないこと? ああ、もしかしてお勉強が苦手なのかしら?」
大真面目に先輩が私の瞳を覗き込む。毛先まで艶々と輝く髪が胸のあたりで揺れた。失礼な言葉なのに悪意なんて持ち合わせていないことがありありとわかって、私はこっそりため息を吐く。こういう人ってずるい。
「そりゃ先輩に比べたらバカでしょうけど」
「あ、違うの。そういうことじゃなくて……高校の授業って少し専門的になるじゃない? 私も最初は驚いたなって」
近かった綺麗な瞳が離れる。先輩は急に慌てて自分の言葉を弁解しはじめた。どうやら私が気を悪くしたものだと思ったらしい。
今の今まで恥じらいすらしてなかった語尾が焦りを含んで、何か伝えなくてはという空気がひしひしと伝わってくる。
「あの、先輩。私怒ってませんよ?」
「……ごめんなさい、言葉を選ぶのが下手で」
私が彼女を呼ぶ声と、彼女の弱々しい声が同時に重なる。
「へ?」
気の抜けた声が静かな廊下にぽとりと落ちた。
「私表情筋豊かじゃないんで、結構間違えられますけど。別に怒ってませんよ」
「そうなの……?」
まだ疑いを含んだ言葉が頼りなく投げかけられる。
「はい、怒ってません。先輩に悪気がないのもわかってます」
そろりそろりと緩められる目尻に視線が吸い寄せられる。同性の私から見ても魅力的な笑みだった。
「でも……悪いこと言ったわよね」
「ああ、別にいいですよ。勉強苦手だし。ここの試験も多分ギリギリだったし。あ、そうだ」
私は、手元の本を少し動かしてみせる。先輩は首を傾げて私を見上げた。
「じゃあそこの扉、開けてください」
「ここの?」
「両手塞がってて開けられないんで。それでチャラってことにしませんか?」
とびきり柔らかな笑みが、また咲いた。
先輩の手で開けられた扉の中に一歩踏み込むと、埃っぽい空気に包まれる。
「ありがとうございます。助かりました、重くって」
私が手近な机にどさりと本を着地させると、彼女はくすくすと笑った。
「本が好きで図書委員をしているんじゃないの?」
静かに扉を閉めた彼女は、カウンター前の席にゆっくりと腰を掛ける。
「いや、本は苦手です。眠くなっちゃうし」
わずかに冷たい風が、頬に当たっていく。もう冷房を入れてくれるなんて、中学の頃じゃ考えられなかったことだ。さすが私立高校。
「何か面白いところ、ありましたか?」
微笑みながら、私を見つめる視線に問いかける。
「いいえ」
麻木先輩は私が積んだ本の山から、一番上の一冊を拾い上げる。ぱらぱらとページを捲る姿は、こわいほど様になっていた。美人は何をしていても絵になるらしい。
「それ、面白そうですか?」
話しかける必要性なんてないのに、私はまた質問を投げる。早く自分の仕事をして、帰宅部らしくとっとと帰ればいいのに。
「全然わからないわ。先生の資料用かしらね」
当たり前のように答える横顔は澄ました表情。さっきのような幼い笑みはとっくに消えていた。
「先輩でわからないなら、私がわかるわけないですね」
数冊ずつ分厚い本を分けて重ねる。久しぶりに筋肉を働かせた腕が怠かった。担当の先生が帰って来るまでに、この本たちを準備室に放り込んだら私の仕事は終わりだ。たったそれだけ。
ふとカウンターに目をやる。同じ委員会の子に挨拶をするべきかと思ったのだ。でも、そこは空っぽだった。基本的に真面目な子が多い印象の委員会だったから、まさかサボりなんかじゃないはずだ。きっとトイレにでも行っているのだろう。
冷房の僅かな音だけが耳に届く。見回しても、利用者は誰もいなかった。私と先輩の二人きり。わからないと言ったくせに、麻木先輩はまだ分厚い本と睨めっこしていた。伏せられた睫毛が美しくて、本の内容がひどく気になる。真剣な眼差し、引き結ばれた口元。うっかりすると視線が吸い寄せられる。何度目を逸らしても、何度も何度も。
「麻木先輩」
先輩が手元の本をぱたりと閉じた。うっすらと弧を描く唇。
「なあに」
「先輩って綺麗ですよね」
きょとんと不思議そうな丸い目が私を見つめる。しまった。率直に言い過ぎた。
「あの、すみません! 本当に美人だなって、思って! それで」
唐突に容姿を褒められたら、気持ち悪かっただろうか。それともこんなことは慣れているだろうか。どちらにしても一度飛び出た言葉は取り消せない。短い首筋の髪に触れる。なんだかとても心許なかった。
私を見つめる瞳が少しずつ大きくなってくしゃりと歪んだ。そして私たちの間に落ちたのは。
「あなた本当に正直なのね! あはは、やだ可笑しい!」
先輩の笑い声だった。カラコロと響く、可愛らしい笑い声。今さっきまで澄まし顔で、小難しい本に視線を這わせていた人と同一人物とは思えない。
「今、口に出したことを後悔しています……」
教科書で見た、釘付けになるというのはこういう状況を表すのだろうか。
華奢な手が口元に当てられて、その隙間から笑い声が溢れる。まだ笑いがおさまらない先輩はくふくふと笑い続けている。やだもうお腹が痛いなんて言いながら。
「そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」
我ながらほぼ初対面の人間にかける言葉じゃなかったと思う。後悔はものすごくしている。麻木先輩の向かい側の席に腰をかけながら、猛烈な恥ずかしさに駆られる。
「だって、そう思っちゃったんですもん。先輩は初めて見た時から人形みたいに綺麗な人だなって、思ってましたよ」
やけくそでそう付け加えると、小さな笑い声がぴたりと止んだ。
「人形、ね」
「あ、悪い意味じゃないですよ? 立ち振る舞いとか後ろ姿とかそういうのが、その……」
笑みをすっかり隠した麻木先輩が、私をじっと見つめる。吸い込まれそうな瞳。見たことのない美しさを孕んだ黒が鮮やかに光る。
「私だって人間よ。あなたと同じ」
華奢な指先が伸びてきて、彼女よりも日に焼けた私の指先に触れた。低そうな見た目とは裏腹に、彼女の指先は私よりも温かかった。
「麻木先輩……?」
ゆっくりと拾い上げられた私の左の五指の隙間は、先輩の体温で埋め尽くされる。
「ね? ちゃんと人間でしょう?」
繋がれた左手をちらりと見て、目を逸らす。ただ、先輩と手を繋いでいるだけなのに。きっと先輩はスキンシップが意外に多いタイプで、それ以外の意味なんてあるはずもないのに。
それ以外の意味って何? 頭の中でもう一人の自分が尋ねる。左手がだんだんと熱を帯びていくのがわかる。同時に頬も、少しずつ。何か言おうとして口を開こうとしたけれど、カラカラの喉からは上手く声が絞り出せなかった。
どくどく、と心臓が跳ねる。まずいなあ、なんて他人事のように思う。先程の淡い声が頭の中でこだました。呼応するように騒がしい心臓を押さえる。
ただ手を繋いでいるだけなのに。こんなの、挨拶でいつもしているのに。いつもしているからこそ、先輩と手を触れ合う感覚は全然違うものだとわかる。自分の幼い頃からの癖がこうも仇になるなんて。
「先輩って体温高いんですね」
「あら、そうなのかしら。人と手を繋ぐなんて、普段しないからわからないけど」
「あ、そうですか。いや、そうですよね。あはは」
どくり、また一際大きく心臓が跳ねた。同時にぱっと手を離す。スキンシップが多いわけじゃない? 普段はしない? じゃあなんで今。
「そうね。そんなこと普段しないも、の……」
小さく息を呑む音がした。先輩はどうやら自分の行動の矛盾に今更気づいたようだった。ぶわぶわと白い首元までが、林檎のように真っ赤に染まる。
「あの、違うの。いや、なんだか確かめて欲しくなってしまっただけなの」
「先輩私何も言ってませんよ」
途端に芯を無くす声。少しだけ涙が溜まった瞳で、僅か数センチ下から彼女は私を見上げる。ぐらりと何かが揺れる音がした。本来揺れてはいけないものが、何か。
「先輩、やっぱり前言撤回します」
「……なに?」
怯えるような、助けを求めるような、視線にさっきから心臓は跳ねっぱなしだ。
「先輩は綺麗よりかわいい、ですね」
私を見つめる大きな瞳がぱちぱちと二回瞬きした。そこにあの春の日に見た人形の姿はどこにもなくて。澄まし顔もどこかに飛んでいってしまっている。
ああ、いいな。こっちの先輩の表情の方が。先輩をずっと近く感じる。
「麻木先輩」
私だけが知っている先輩の表情、だったらいいのに。
「なあに」
先輩は一生懸命平静な声で応えようとしているようだった。なんで私の手を握ったんですかとか、先輩って本当はずっとずっとかわいい人なんじゃないですかとか、今の表情を誰にも取られたくないですとか色んな感情が渦巻いているけれど。
「呼んでみただけです」
ああ、これは。多分、どうしようもない感情だ。なんとなくそう思う。自身の意思とは無関係に落ちてしまうとドラマや漫画で言っていた気持ち。
「あなたってやっぱり面白いわ」
くすくすと愉しそうな笑い声が降ってくる。少しだけ、また冷静な声だった。
「先輩に言われたくない気もします」
自分の気持ちを誤魔化すように口を尖らせた私を見て、先輩が一層愉しそうに笑う。薄いレースのカーテンから差し込む初夏の日差しが眩しくて、目を閉じてしまいそうになった。でも、閉じてしまうには惜しくて私は必死に目を開けてみたくなる。
空調が整っている図書室は、私の身体を十分に冷やし切っているはずなのにどこもかしこも熱い。
先輩の笑い声は知らないうちに引いていた。また綺麗な澄まし顔に戻った先輩は、ステンレスボトルを取り出した。もうすっかり白くなった喉が中身をこくこくと飲み干す。中身はなんなのだろうか。麦茶、紅茶あるいは私みたいな平凡な人間には飲めないとてつもなく美味しい何かか。
「そんなに見ても、ただのココアよ。夏の冷たいココア、好きなの」
いつのまにか先輩のステンレスボトルの口は、きっちりと閉まっていた。私は〝飲食禁止〟ポスターを確認して声を顰める。
「先輩、飲食禁止です」
「あら、そうだったかしら」
「そうですよ、ほら」
ポスターを指差すと彼女はポスターを穴が空くぐらいに見つめた。図書室で飲食禁止なんて当たり前のことだろうに、この人はそういうことをちっとも気にしていないようだった。全くとんだ迷惑な利用者だ。
「今回は見逃しますから気をつけて下さいね」
私は数冊ずつに分けた本を抱えて準備室の扉を開く。図書室本体よりも数段冷えた空気が流れ込んできて、少し肌寒い。いつまで経っても返事がない先輩を振り返ると、難しい顔をした先輩は何やら考え込んでいるようだった。いや、私は図書委員として言わなければならないことを言っただけなんだけど。
「……つまりはこういうことね」
私が振り返ったのを合図にしたように、先輩はやっと口を開く。
「どういうことですか?」
「今日のことは、私とあなただけの秘密だってこと」
しーっと口元に指を当てた彼女は、さながら探偵ごっこをする子供のようで。夏の光が届く、白い袖に目が眩む。私は今日一日で、麻木桜という先輩の印象はぐるりと一回転してしまうくらいよくわからなくなってしまう。
無邪気なのに冷たくて。不意打ちにはすこぶる弱いくせに、はっとするほど美しい。
私と彼女はただの先輩と後輩で。私には夢の中のようなふわふわとしたらこの時間のことも、この人にとっては何の意味もないことなのかもしれない。私たちの共通点はただ同じ形の制服を身につけているだけ。そうじゃなかったら、私があの日彼女に視線を奪われることも、今こうして話すこともきっとなかった。
別に大したことなんて何もないのに。どうしてあの日会えたことが、今話しているこの時間がこんなにも心を震わせるのだろう。彼女の一言一言を聞き逃したくないと思うんだろう。あともう少し図書委員の子が帰ってこなければなんて願ってしまうんだろう。
なんで、なんで。
犇く感情の中に取り込まれないように、深呼吸する。もう一度、今度は確かに気づいてしまった感情をゆっくりと胸の内におさめる。
「ねえ、カウンターのお仕事はしないの?」
「しませんね。性に合ってないと思うので」
「私、あなたがいるならもう少し頻繁に通ってもいいなと思うんだけど」
頭の中で警笛が鳴る。甘い痺れと無邪気な声が重なる。
「ね、[[rb:沢木 > さわき]]さん」
ひゅっと喉を空気が駆け抜けていく。
「先輩、名前……」
私の感情なんかお構いなしに、彼女はまたふわりと微笑む。冷たくなくて、かわいい方の笑みだ。
「……沢木さんじゃなくて、若葉です」
滑り出した言葉は止まってくれなかった。
「若葉って呼んでくれませんか、麻木先輩」
先輩がまたくすくすと笑った。あなただって私の名前を覚えているじゃない、と。
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