稲妻は晩秋に降る

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稲妻は晩秋に降る

「最近麻木先輩と仲良いわね」  ほどよく涼しくなった風が心地いい。こういう時期は長くない。お昼の間くらい屋上を堪能したって、バチは当たらないだろう。私は菓子パンを齧りながら、リンゴジュースを啜る。 「先輩よく図書室にいるからかも」  菖蒲はふうんと相槌を打って、箸ケースをぱかりと開けた。  あれから、私と麻木先輩はよく話すようになった。単純に私が図書委員で、先輩がよく図書室にいるからだったのだと思う。それから私達は意外なことに気が合った。 「ねえ、麻木先輩ってどんな人なのよ」 「少し変わってるけど、別に普通だよ」 「随分仲良くなったみたいじゃない」  菖蒲はブロッコリーを口へ放り込む。綺麗な緑色だった。 「確かに美人だけど、面倒なことが嫌いだし、バラエティ番組が好きだし、苦手な授業もあるみたいだし。本当に普通の人かなあ」 「そうなの? なんか意外ね」  菖蒲はリスのように頬を膨らませながら咀嚼している。 「確かにとっつきにくいかもしれないけど……よく笑うし、ああ見えてよく食べるし、面白い人だよ」 「そう。あんたが楽しいならよかった」  ぼそりと聞こえた声に、頬が緩まる。菖蒲は優しい。 「心配してくれてたの? ありがとう。大丈夫、たのしいよ。すごく」  不器用な友人はふん、と鼻で笑った。 「なら、別にいいのよ。……あんたのそれもすっかり馴染んだしね」  私の分厚くなったプリーツスカートを指差して、彼女は笑う。胸元のタイがはたはたと風に揺れる。合服期間はそろそろ終わりが近づいている。私は適当に折っていた袖を下ろし た。屋上は風が一際強い。でも、こんなよく晴れた日にはやっぱりここに来てしまう。菖蒲もなんだかんだ言うけれど、結局のところ気に入っているようだし。  そろそろカーディガンを持ってこなければならないだろうか。黒に近い濃紺のそれを思い浮かべた。ウールなんて含まれてそうにないし、重さばかりがある指定のカーディガン。もちろんすでにカーディガンデビューしているクラスの子たちは淡い水色、ぬくもりのあるオレンジ色、華やかなピンクとかかわいくて暖かそうなものを羽織っている。 「楽だからね」 「そう」 「あと……そうだな、愛着湧いちゃって」 「あんたらしいわ」  私は湯気の薫るペットボトルのお茶を飲み干す。 「指定のカーディガンあるじゃんか。あれ暖かい?」  菖蒲はため息を吐いて、自信たっぷりに笑う。 「あれで冬を越せると思ってたら、相当おめでたいわよ」 「だよなあ……」  白い柔らかそうな丸襟のリボンブラウスに、上品な赤のカーディガンを羽織った彼女を見る。 「カシミアとか暖かいわよ? 柔らかいし。結構どこにでも売ってるし」 「うーん……」  菖蒲は私をちらりと何か言いたそうに私の表情を伺う。 「そんなに高価じゃないのもあるわ。カラーも豊富だし」  さすが毎日私服で通うエネルギーがある女子高生だ。情報収集に余念が無い。いや、これは私が疎いだけなのか? 「ま、あんたが何着てくるかなんてわかりきってるけどね」  得意げに言って、彼女は卵焼きをぱくりと口に放り込む。 「なんでそんな楽しそうなの」 「あんたのことがわかってきたから」  幼い顔立ちに似合う表情で、菖蒲はにやりと笑う。私でさえわからない心の中を彼女に見透かされているようでむず痒くなる。 「愛着、沸いちゃったんでしょ」  何に、とは言わなかった。それはきっと菖蒲の優しさだと思う。別に私だって適当な私服にしても構わないのだ。Tシャツにジーンズはこの学校じゃかなり浮きそうだけど、そんなことは別に気にならない。ただでさえ外部受験ということで一部の層には未知の生物みたいに見られている所がある。親しくしてくれる菖蒲は珍しい方で、クラスは相変わらず中等部からすでに出来上がっていたグループで分かれているのだし。  けれど彼女たちは、浮いている私の格好を笑ったり陰口を叩いたりはしない。まあ初日こそかなり不思議な顔で振り返られたし、その数は両手で数え切れなかったほどだけど。良くも悪くもお嬢さんなのだ。人を悪く言うことを知らない。 「菖蒲ってさ、なんで私に声かけてくれたの」  そういや聞いたことがなかった。菖蒲はこの学校の中等部出身だと言っていた。言葉こそ素直じゃないが、友達は多くいそうだ。 「さあ、なんでかしら。あんたがぼーっとしてたから見捨てられなかったのかも」  くすくすと笑って、きのこの炊き込みご飯を箸で一口分掬う。その所作はあまりにも自然で、美しかった。菖蒲の実家の話を敢えて聞いたことはないけれど、きっと彼女も育ちが良いのだとわかる。 「菖蒲が見捨てても、多分普通に学校生活送れたけど?」 「そうね。あんたはそうだわ」 「でしょ」  納得したように笑って、彼女はきのこごはんをまた一口咀嚼する。 「人のせいにするのは良くないわね。そうね……敢えて言うなら少し興味が惹かれたのかも」 「人を珍獣みたいに言わないでよ」  くつくつ込み上げる可笑しさを押し留めながら言ってやる。 「大げさに言ったら……そうね。あんたがすごくいいものに見えたのかもしれないわ」 「なにそれ」 「ま、わからないならいいわよ」  童顔と不釣り合いな、意地の悪い笑みを浮かべて彼女は口を閉じる。 「ね、菖蒲」 「なによ。あんた、早く食べないとお昼休み終わるわよ」  彼女の手元を見ると、菖蒲はお弁当箱をきっちりと包んだところだった。私のお弁当の中身は、まだ半分残っている。彼女の華奢な指先がランチバックを持ち上げる。 「菖蒲は、私の手を握ったらどきどきする?」 「はあ!?」  目をまんまるにして、菖蒲が私の顔を凝視した。手は一旦停止したみたいに、薄いピンクの包みの端が鞄から飛び出したままだ。勝手に口から溢れた言葉は留まることを知らずに流れていく。 「私と手を繋いだらどきどきする? って聞いてんの。こう、嫌だけど嫌じゃない感じっていうかさ」 「いや、しないけど。というか、私たち体育の授業の柔軟とかしょっちゅう一緒にやってるじゃない」  何を今更、と彼女はじろりと私を見る。 「悪いけど私、好きな人いるわよ」 「いや、なんで私が振られたみたいになってんの」  げらげらとおなかが痛くなるほどの笑いが込み上げてくる。私はしばらく笑いがおさまらず、菖蒲は小さく舌打ちをした。 「はー、笑った、笑った」  いまだに引き攣りそうになるお腹をさすりながら、菖蒲の方を見る。うっすら目尻に浮かんだ涙を拭う。しかし、彼女は意外にも真剣な顔をしていた。 「……そういう話じゃなかったの?」  ぱっちりと長いまつ毛がカールした大きな瞳は、少しだけ揺らいでいる。ああ、これは心配されている。 「うーん、そういう話なのかな」 「珍しく煮え切らないわね。はっきりしなさいよ」  私を思って叱咤する言葉に、曖昧に笑ってみせる。 「好きとか、嫌いとか、愛してるとか、恋しいとか。それだけだったらよかったのにな」  木枯らしが私の声を攫って、ひゅうと音を立てる。 「恋愛ってそういうものじゃないの?」 「私、そんな面倒なのやだよ」  今までそういう甘い気持ちを持ったことが無いわけじゃない。私だって年頃の女子なわけだ。中学の頃には、それなりに気になる人がいたこともある。男子バスケ部の人だった。同じ部活のよしみで会話もよくした。明らかに他の男友達とは違う感覚で接したことも覚えている。別にどうも転ばなかったけど。  その時の感覚を思い出してみる。自分はなんとなく、当たり前に同じ年頃の男の子を好きになるものだと思っていた。なのに、ふとした時に浮かぶのは先輩の綺麗な横顔。いたずらっ子のように綻ぶ表情。逃げ出したいように潤んだ瞳。そんなのばっかりだった。  今までの私が知っているものとは違いすぎる、感情。 「やっぱりそういう話なんじゃない」  私の言葉を聞いていなかったように、菖蒲は小さくため息を吐く。彼女は言葉は素直じゃないけど、優しい。先輩よりも華奢で、小柄で、お姫様みたいな格好もきっと似合う。でも菖蒲とふざけて手を繋いでも、たとえ息が重なるほど近くにいても、きっとこんな気持ちにはならない。 「お弁当、食べなきゃ」 「そうね」  目の前のお弁当の残りと、昼休みの時間を考える。私が冷凍食品のコロッケを口に詰め込んでいる間も、菖蒲はそれ以上何も言わなかった。  お弁当の中身が唐揚げ一つになった頃、湿気を含んだ強い風がびゅうびゅうと吹きつけた。菖蒲の柔らかく巻いた髪が風に靡く。 「あ、雨だ」  私は首筋に落ちた一雫を手で拭う。片付けをしているうちに、たちまちざあざあと雨が降り注ぐ。めちゃくちゃになった髪にぎゃあぎゃあと悲鳴を上げながら、私達は慌てて教室へと走った。 「ということがあったんです。いやもう寒いし、髪の毛はぐちゃぐちゃになるし最悪です」 「まあ、それは災難だったわね」  くすくすと一ミリも残念とは思ってなさそうな音が静かな空間に散らばる。  放課後の図書室。私はここ最近馴染みとなってしまったカウンターに座っていた。委員会はどうやら習い事やお稽古ごとをしている人が多く、人手が足りていなかったらしい。カウンターにもう少し顔を出したいと申し出ると、委員の先輩方は目をキラキラと輝かせて首をぶんぶん縦に振った。 「先輩、面白いと思ってるでしょう」 「そうね。正直に言うと、とても」 「まあ私の髪は見ての通り、絡まる長さもないのでいいんですけど。友達がかわいそうでした」  私は人が居ないのをいいことに、少しふざけてお昼の出来事を話す。先輩はいつも私の話を興味津々という様子では聞いてくれない。でも話をふと止めたり、自身のツボにハマったりすると表情がくるくると変わるのでわかりやすい。  私のことを邪魔だと思っていない証拠は、彼女の座る席にもあった。貸し出し希望の生徒が居ないとわかると、彼女は必ず決まった席に腰を下ろす。カウンターの前に一つだけある、私の真ん前の席。何度目の会話からそうなったのかは覚えていないが、その日あったことを私が話して先輩は静かに聞く。それが放課後の習慣になりつつあった。 「まあせっかく屋上が解放されてるのだから、入ってみたいというのはわからないでもないかもしれないわね」  ぺらぺらと参考書を捲りながら、彼女は悪戯好きのような目で私を見遣る。麻木先輩が必死に参考書を読む必要がないことを知っている私は、彼女の言葉を繋いだ。 「先輩もそうでしたか?」  この人は二年前どんな人だったのだろう。ふとそんなことを思ったから。 「あなた、私にそんなお友達が居たと思う?」  答えは明瞭だった。先輩はくすりと笑みを溢して、私を見つめる。私は澄まし顔の一年生を思い浮かべてみて噴き出す。 「聞くのは野暮でしたね」 「そういうことよ」  茶目っ気を含ませた彼女は頬杖をついて、でもいいのと小さな声で呟いた。 「若葉に会えたから、いいの」  はにかみながら呟いたその音はあまりにも甘く、どろりと響く。濃紺のカーディガンから白く薄い指先が伸びて、私の頬をそっと撫でた。 「若葉とクラスメイトだったら……どんなだったかしらね」  いつの間にか参考書は机の上に放って置かれていた。 「私と先輩が、ですか。さあ、案外ほとんど話さなかったかもしれませんよ」 「どうして?」 「だって先輩は中等部からのお嬢さんだし。私は入試ギリギリの一般人ですから」  自分で言ってて可笑しくなる。考えなくても、麻木先輩と私は全く似ていない。もし同じクラスにいたとしても、それこそ本当にお互いに話すことさえないかもしれない。 「麻木先輩」 「なあに」  もしかしたら、こんなに甘い声で彼女が返事をすることも知らない自分がいたかもしれない。そう思ったら、胸がちくりと痛んだ。 「先輩は結構甘えたがりですよね」  細く柔らかい髪にそっと手を伸ばす。嫌がる素振りはされなかった。 「私が? まさか」  そう口にしながらも、彼女はにこにこして私の手のひらに頬をつけた。 「若葉の手って冷たいのね」  薄い頬からの熱が、冷たくなり始めた指先を温める。少しずつ彼女の体温と混ざる私の手。 「冷え性なんですよ」  どくどくと鳴る鼓動を誤魔化すように、へらへらと笑ってみせる。何かがだめな気がした。これ以上は、何かが。 「若葉」 「なんですか」 「若葉」  いつものように、ゆったりとした涼しい音はどこにもなかった。熱を孕んだ湿った声が差し出される。まるで泣き出す前の子供のようだ。 「先輩どうしたんですか?」  頬に触れたままの私の手を、先輩の華奢な指先がそっと掴んだ。 「若葉」  自分の名前を呼ぶ弱々しい声が急に近くなった。目の前には薄い水膜を貼った美しい双眼。薄く色付いた唇から溢れる吐息が、私の口元まで届いて。  気づいた時には、彼女の唇が私のそれに触れていた。  嫌悪感は不思議なほどになかった。ただ温かさが心地よかった。いつのまにか想像してしまったそれより、ずっと温かいキスだった。 「先輩……?」 「…………なあに」  私は恐る恐る彼女の顔を見た。  先輩はじっと私を見つめていた。唇が震えた。その次に続く言葉をバカな頭は考えつかなかった。目を離した隙に、先輩はまた本に目を落としていた。まるで何もなかったみたいだった。数秒前のことは何も。  先輩の唇が離れていく間際に一瞬、彼女自身のひどく驚いた表情が目に焼きついた。驚いて、悲しそうで、苦しそうに歪む表情が。 「先輩、あの、私」  カタカタと膝が震えていた。後戻りが出来ないと私の身体が訴えていた。どうしよう、嫌じゃなかった。嫌どころか嬉しいと思ってしまった。  私は、先輩に恋をしている。 「どうしよう先輩、私。……先輩のことが好きかもしれません」  乾いた喉から絞り出した声は、哀れなほどに小さかった。紺色のラインごと袖口を握りしめる。ただ先輩の言葉を待った。耳元でどくどくと血が駆け巡る音がした。 「あんまり引っ張ると傷んでしまうわよ」  けれど、先輩の言葉はそれだけだった。定位置の椅子から立ち上がってスカートの乱れを直す。 「ねえ、今日はもう帰りなさいな」 「え」 「これは私が片しておくから。あなたはもう帰りなさい」  カウンターにあった二、三冊の本を見て先輩は言う。優しくて、それでいて有無を言わせない音だった。そして、顔を上げた瞬間にっこりと笑みを浮かべた。人形みたいな、冷たい笑みだった。 「先輩?」  口に出そうとしたすみませんとごめんなさいが形にならずに消えていく。何に謝ればいいのかどうしたらいいのか。わからなくて、心臓がぎゅっと悲鳴を上げる。 「あの」 「ね、そうしましょう」  ぱちんと軽く手を打つ音がした。まるでこの話はもう終わりだと言うように。鼻の奥がつんと痛くなる。 「……失礼、しました」  図書室から出る間際、振り返ろうとしてやめた。いや、やめたんじゃない。出来なかった。私が彼女に背を向けるその瞬間まで、人形みたいな笑顔を一ミリも崩さなかった先輩を見るのがこわかった。  私は考え無しの間抜けみたいに先輩に仕事を押し付けて、家までの帰り道をずんずんと歩いた。ぶどうジュースをこぼしたような夕焼けがやけに目に染みて、唇を噛む。私は先輩の気持ちがわからなくなる。私はこんなにも悔しくて、惨めで、情けなくて、恥ずかしくて、どきどきして、痛いのに。  どうしてキスしたんですか。  返事をくれるつもりはありますか。  喉に競り上がってくる気持ちに、視界が歪む。先輩が同じ気持ちじゃなくてもよかった。そっと大事にしたいなんて柄じゃないけど、誰かに笑われても大事にしたい気持ちだった。  そもそも私はなんで好きなんて言ってしまったんだろう。いつから好きだったのかはなんとなく気づいていた。きっと本当はあの一瞬から。  私は先輩をなぜ好きになったんだろう。美人だからだろうか、綺麗な声だからだろうか、それとも残虐な子供のように無邪気だからだろうか。先輩だからだろうか、慣れていなかった環境だからだろうか。  それともこんな野暮ったい服を着ていたのが彼女と私だけだったから、だろうか。  皺がついてしまうとわかっていながら、スカートの裾をきゅっと握った。袖なんて形が崩れてもいい、スカートが皺だらけだって別にいい。そんなことより先輩の言葉が欲しかった。  廊下の窓を大粒の雨が叩きつけている。薄暗い空に、閃光が走った。まもなく轟いた音に紛れて鼻を啜った。雨はどんどん強くなる。両目から流れる水滴をそのままにしていたら、嗚咽が漏れた。  すっかり弱くなってしまった自分が嫌になる。スカートを痛いくらいに握りしめる。昨日アイロンをかけた時に出来た焦げを見つけてしまって、また唇を噛んだ。
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