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冬の終わりにみぞれ雨
白い湯気がふわふわと昇っていく先を、ぼうと眺める。悴んだ両手を開いて握って、開いて握って。携帯電話の電源を切ってコートのポケットに入れる。あれから先輩とは会っていないし、話してもいない。
私たちはお互いの連絡先も知らなかった。可笑しなことだったけど、そんなこと気づかないぐらい心が近いと感じていた。先輩のSNSやメッセージアプリの宛先も知らないことに、会えなくなってから気がついた。
図書委員の仕事は相変わらずあったけど、あの日以来先輩は図書室に現れなくなった。カラカラと片手で扉を開けて、出来た隙間に身体を滑り込ませるのももう随分と手慣れたものだった。私はカウンターに座り、返却された本をチェックする。今日も空気を乗せた向かい側の椅子を眺める。受付カウンターの前の椅子は、二つに増やしていた。
ここ数ヶ月で図書室の様子はガラリと変わった。以前よりも明るくて、少しだけ気軽な空間になったと思う。
ある日、委員会で珍しく挙手した私を、メンバーは不思議そうな顔で見た。
「もっと気軽に、友達同士で借りにきたりしてほしいんですよね。こう、変に硬っ苦しくない空間というか」
決して嘘ではない言葉にみんなが賛同してくれた。新しくカラフルな椅子をたくさん買って、あちらこちらに散りばめる。レースのカーテンは遮光性と明るさを兼ね備えたかわいいデザインに変わった。遮光性の高いカーテンを吊ったことで窓際での読書が可能になり、古い椅子は全て窓際で茶色い背を並べている。一番端には、先輩がよく座っていたあの椅子も。
時々夢だったんじゃないかと思う。先輩との楽しい時間も、唇が触れたあの日の一瞬も。
でも。先輩のことを思うと、とくとくと脈を打つ心臓に夢じゃないことを実感させられる。情けないことに夢でありますようにと願う気持ちと、夢じゃなきゃいいのにという気持ちがぐちゃぐちゃに混ざり合う。ミックスジュースのようになったそれは境界線が分からなくて時々うんざりしてしまう。
あの日、一瞬だけ二つの温度が交わった時。先輩はどんな表情をしていたのだろう。その後のことは胸が痛むほど覚えているのに。
あまりにも短い時間のことだったから、近づいてくる長い睫毛しか見えなかった。長い睫毛、甘いシャンプーの香り、重なった柔らかい温度。どれだけ記憶をひっくり返しても、それだけしかなかった。その直後の苦さを織り交ぜた表情なら、嫌になるくらい目に焼き付いているのに、なんで。あの瞬間、先輩はどんな気持ちで私にキスしたのだろう。彼女の表情を少しでも盗み見ていたら、その心がわかったのだろうか。
「そういえば、三年生も少なくなったわね」
ホットコーヒーの缶を両手で挟みながら、菖蒲はふうと息を吐く。すっかり放課後の定位置となった屋上の隅っこ。彼女の口から上ったふわふわと白い湯気は、冷たい空気に溶ける。
「もう自由登校だからね。よっぽど学校が好きか、卒業が怪しい人しかこないって。私だったら絶対そうするよ」
手のひらでまだ熱い缶コーヒーをコロコロと転がす。
「そうね。ま、あんたは泣きながら学校に来る羽目になりそうだけど」
「いやいや。さすがに受験生になったら私も赤点取ってないって、菖蒲さん」
大口を開けて笑う私に、訝しげな菖蒲の視線が刺さった。
「そんなこと言って、ここ最近成績落ちてるのはどこの誰かしら?」
びくっと反射的に背中が跳ねる。確かに、この間返ってきたテストは赤点がいつもの倍だった。菖蒲はそのことを言っているのだろう。
「笹川先生が泣いてたわよ」
「別にわざとやってるわけじゃないんだよ……ほら、もともとここに入れたのも運がよかったみたいなもんだし」
「私、中等部の頃でも先生を泣かせる生徒なんて見たことないわ」
菖蒲は皮肉たっぷりに言ってみせると、コーヒーの缶に口をつける。
「最近、麻木先輩はどうされてるの?」
なんでもないことのようにそう尋ねて、一緒に勉強させてもらえばいいのにと付け加える。私を横目でちらりと見ながら。
「さあ」
先輩のことはあれからぴたりと話さなくなったわけではない。必要であれば話題に出したし、そうでなければ敢えて話さなかった。でもこの様子を見るに、菖蒲は何か勘づいている。
私は冷え始めているカフェオレをぐいと煽った。パンパンとスカートを叩いてベンチから立ち上がる。
「さあって……連絡ぐらいはするでしょ?」
ああ、そんな心配そうな顔で見ないで。ちくりちくりとあちこちが急に痛み出す。
「私、先輩の連絡先知らないんだよね」
だから、明るく言った。努めて明るく。
「そうなの?!」
予想通りの反応が返ってきて、彼女は私をまじまじと見る。信じられない! と見開かれた瞳が物語っている。
「……うん」
菖蒲の目が直視できなくて、ずるい私はもう残っていないはずのカフェオレを煽る。一滴も残っていないそれが当たり前なのに悲しくて、自分のしたことなのに痛くて、鼻をすすった。
「きっと今頃勉強してるよ、さすがに先輩でも。ああでも先輩は飽き性だからな。意地っ張りだから今更先生に聞けなくて逆に燃えてたりしてね。友達がいないから相談する人もいないし」
ぽろぽろと余計な言葉ばかりが溢れる。あんなことは忘れて、放って置けばいいのに。たった一年間の記憶なんてあと二年もすればきっと上書きしてしまえると、そう思うのに。
友達どころか、ただの後輩の自分さえいなくなって先輩はどうしてるんだろう。いや……ただの後輩では、ないか。
だって私は先輩とキスをした。それはただの先輩後輩ですることじゃない。子供でもわかることだ。
「ほんと、どうしてるんだろ……」
乾いた笑いが口の端から漏れた。菖蒲は遠くを見つめていた。そして長いため息を吐くと、口を開く。
「若葉、麻木先輩が好きなんじゃなかったの?」
そこには軽蔑とか同情とか薄暗い気持ちは少しも入っていなかった。信じられないくらい、入っていなかった。
「……好きだったのかな。うん、そうなのかもなあ」
自分が思っているよりずっと、小さな声だった。
最初は仲良くなるなんて思いもしなかった。完璧で聡明な彼女は人形みたいで、いい加減な自分には近寄り難いとさえ思った。けれど図書室の前でもう一度出会って、会話をして。澄ましているくせに甘えたがりで、全身を氷で防御してるみたいなくせに、本当は無防備な彼女を知った。
かわいくて、花が綻んだように笑うのが好きだと思った。もっと一緒にいたくて、無邪気な笑みを自分のものにしてしまいたいと乱暴なことも思った。唇を重ねたいと先に思ったのは、きっと私の方だ。先輩から触れられた瞬間、私はこの柔い心を捨てなくていいのかもしれないと淡い期待さえ抱いたのに。
多分私の思い込みだったんだろう。先輩はああ見えて、一度親しくなった人を切り離せないから私を優しく諭したのかもしれない。それはそれは、残酷な方法だったけど。
「先輩が欲しいと思っちゃったんだ」
雲行きの怪しくなってきた灰色の空を見上げる。
「私の隣に居て、みんなが知らないような笑顔で私を見てほしかった」
口に出してわかった。私の気持ちは、恋と呼ぶには子供じみていて脆い。
「私のことを見て、知って。誰よりも一番好きになってほしかった」
木枯らしで冷たくなった空き缶を握る。指先から侵食してくる冷たさが現実を嫌というほど教えてくれる。
先輩が好きだと思った。過去の私が知っていた恋なんて霞んでしまうほどに。自分の中で初めて芽吹いた気持ちは信じられないものだったはずなのに、当たり前のように馴染んだ。気づいた時にはもうその芽を育てたいと思うようになっていた。
「先輩、本当は優しいからさ。きっと私に当てられて勘違いしちゃったんだと思う」
そうじゃなきゃキスなんてするはずがなかった。平静でどこからどう見ても、先輩がそういう意味で私を好きなようには見えなかったから。
「それは違うわ、若葉」
菖蒲は早足で私の前にやって来て、腕を組む。そして私を真っ直ぐな瞳で射抜いた。
「若葉、逃げないで考えて。麻木先輩が逃げたのなら、その分あんたが考えるの。かっこ悪くても情けなくてもいいから、今、ちゃんと考えるの」
はっきりとした声だった。でも、私を睨む瞳に怒りは映っていなかった。言葉はとても痛いけど。
「菖蒲?」
「恋愛は一人きりでは出来ないわ。二人で少しずつ織っていくの」
菖蒲はがんばれとか、応援してるとかそんな安い言葉は口にしなかった。ただ、発せられた言葉はそのどれよりも優しく強く背中を押す。
胸一杯に平均マイナス一度の空気を送った。ゆっくり、ゆっくり頭の隅々までを冴え渡らせるように。身体の中で温まった空気は不安と一緒に、外気へ吐き出した。
「私、菖蒲と友達になれてよかったな」
菖蒲のきゅっと上がった眉が垂れていく。綺麗な二重瞼を伏せて、彼女はそうねと困ったように笑った。私は知ってる。彼女のこの笑みは嬉しい時のものだって。
「菖蒲、明日は一緒に帰れないと思う!」
「あっそ」
素っ気ない返事に似合わない、優しい声色。
「あんたはそれでいいと思うわよ」
ぽつり、ぽつり。冷たい水滴が頬に落ちる。雨かと思った雫はみぞれだった。私たちは慌てて校舎の中へ駆け込んだ。すっかり手の温度と同化した空き缶を、ゴミ箱に捨てる。
「菖蒲、私って案外諦めが悪いみたい」
聞こえるか聞こえないかの音量で呟く。面倒見のいい親友は、私の言葉をきちんと拾ってふっと笑った。
「今日、雪降るなんて言ってたっけ?」
「いいえ、晴れだったと思うけれど」
一年生ロッカーの前まで避難して、ガラスのドアから徐々に濃く変色していくコンクリートを眺めた。灰色の雲は遠くへ行くほど真っ黒になっている。どうやら風も強くなっているようで、粒の大きい雪解けがガラスのを向こう側に落ちていく。
この分じゃ当分みぞれは止みそうにない。そうだ、確か。
「はい」
「え?」
「菖蒲はこれで帰りなよ」
ロッカーを漁ると、目当てのものはすぐ見つかった。この間買ったばかりの折り畳み傘。置き傘しておいてよかった。
「そんなの、あんたはどうするのよ!?」
菖蒲は言外に雪が止むまで待とうと言っている。
「私はそうだな、図書室で宿題でもしておくよ。家に帰ったら、ついだらだらしてやらないと思うし」
菖蒲の家は駅からも遠い。家に連絡すれば迎えに来てくれるだろうとも思ったけど、彼女が安易にそういうことをしないのは知っていた。
「でも……」
「いいからいいから。今日習い事あるんでしょ。早く行かないと遅刻するよ」
菖蒲の視線が折り畳み傘と窓の外を行ったり来たりする。雨に変わり始めた雫がぼたぼたと打ち付ける音が強くなるのを聞いて、菖蒲はやっと傘を受け取った。
「ありがと。でも絶対あったまってから帰りなさいよ!」
「わかってるって」
「寒かったら先生に空調の温度上げてもらいなさい。あと、保健室で貸し出し用のタオルもあるはずだわ」
「さすが保健委員」
くるくると回る思考を茶化してみる。嬉しい時や、優しくされた時に茶化してしまうのは私の悪い癖だった。まあそんなこと、もう菖蒲は知っているだろうけど。
「くだらないこと言ってないでちゃんと使うのよ! 私のせいで風邪引いたなんて後味悪いじゃない!」
「はいはい、わかったよ」
全く素直じゃない。でも、本当に優しいというのは菖蒲みたいな人のことを言うのだと思う。
彼女はしばらく私をちらちらと伺っていたが、やがて小走りで滝のように降り続けている雨の中へと消えていった。あの傘じゃ意味なんてないのかもしれないけど、凌ぐものが何もないよりはましだろう。
「さて」
私はどうしようかとロッカーにもたれて考える。背中から厚手の生地を通り越して伝わる冷たさに、ぞわりとする。いくら暖房が効いているとはいえ、いつまでもここにいるのは得策ではなさそうだ。今日の宿題は得意な数学で、指定の問題は授業中に済ませてしまっていた。
隙間風が舞い込む玄関ホールの扉から、とりあえず離れる。各教室は暖房が切ってあるだろうし……私が思いつく退屈凌ぎの場所はやっぱり一つしかなかった。
とりあえず図書室なら暖房が少なくともあと二、三時間は効いているだろう。子供の頃に読んだ絵本だとか、童話とか興味のある読み物があれば完璧なんだけど。数時間身体を温めて、それでもまだ雨が止んでいなかったら走って帰ろう。
上履きに染みた水分が確実に指先の温度を奪ってゆく。思えば最近必要以上には図書室へ来ていなかった。図書委員の仕事も図書室の改造が終わってからは、窓口の仕事よりもまた裏方の仕事を行うことの方が多くなっていた。単純にそちらの仕事量が多かったのだ。
不純な動機で図書室の改革を発案した私は、関連する簡単な書類の作成を手伝うこともあった。有名私立高校であるだけに、活動資金はあまり煩く言われなかったけど、企画書や電卓を打ち続ける仕事は必然的に私にも回って来たのだ。
今日もつるつるに磨かれた大理石調の白い床を眺める。薄暗い廊下にぽつんと差し込む蛍光灯の光に正直ほっとした。菖蒲は無事帰れるだろうか。
カラカラカラ。軽やかな音を鳴らす扉を開ける。カウンターに生徒はいない。今日は準備室に先生がいる日だったはずだから、きっとそれで事足りているんだろう。準備室のドアの窓を眺める。ここから見る限り、人は居ないようだった。職員会議だろうか。
紙の匂いが鼻をくすぐる。静かな室内に落ち着いた照明。私以外にこんな時に図書室を利用している生徒なんていなくて当然だった。さっき調べた天気予報でも、ますます天気は悪化すると言っていたし。
──それなのに。窓際の席を利用している生徒が一人いた。真っ黒のタートルネックを身につけて、黒いパンツを履いた彼女が一瞬誰かわからなかった。
俯いているその人がゆっくりと髪をかき上げて、こちらを見た。
「せんぱ……い?」
そこには麻木先輩が静かに佇んでいた。
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