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男は生きる意味を見失った――
土曜日の正午。
その日の埼玉県さいたま市は晴天だったが、カーテンは閉められたままで、マンションの室内は薄暗かった。
家具や家電は最低限のものしかなく、絵画や観葉植物などの生活を彩るものは一切なかった。
どこか生活感に乏しい室内は、わずかなほこりすら、きれいに拭き取られていた。
部屋の大きさにそぐわない大型の本棚に並んだ本の背表紙だけが、灰色の室内に色彩を添えていた。
その本棚の、最も手に取りやすい位置の棚には小説や漫画ではなく、多くの錠剤が無造作に置かれていた。
デスクトップパソコンのモニターだけが、ぼうっと浮かぶ室内で、男は背中を丸めてデスクチェアに腰掛けていた。
モニターの青白い明かりが、男の顔を照らす。
生気のない男の顔には、無精髭がうっすらと浮かび、目はうつろだった。
「そろそろ、いいかな……」
男がぽつりとつぶやいた。
モニターが表示する二〇一七年十月七日という日付から、リビングのローテーブルに視線を移した男は、ローテーブルに置かれた一枚の紙をじっと見つめた。
紙は、男の直筆で書かれた遺書だった。
最後の行には、生駒寛樹とサインがしてあった。
「さて……」
寛樹はのっそりと立ち上がった。
遺書と一緒にローテーブルに置かれた赤いロープに手を伸ばそうとした、その時、デスクの上のスマートフォンが振動した。
運命の着信だった。
寛樹がゆっくりスマートフォンを手に取る。振動はメッセージの通知を報せるものだった。
アヲという女性からのメッセージ。
寛樹のまぶたが、ぴくりと反応する。
短い文面だった。
「少し、更新の間隔が開きましたね」
「お元気ですか?」
「次の更新を心待ちにしてます」
「あなたの言葉が読みたいです」
最後の言葉を見た瞬間、寛樹の身体を何か電流のようなものが貫いた。
寛樹の目に光が戻る。
大きく息を吸った寛樹が、ゆっくりと息を吐きながら天井を見上げる。
その動作では、涙を抑えることはできなかった。
ぽろぽろと落ちる涙。
寛樹は深呼吸を繰り返しながら、涙を手の甲でぬぐった。
急にのどの渇きを感じた寛樹は、冷蔵庫から麦茶を取り出しコップに注ぐと、のどを鳴らして麦茶を飲んだ。
若干の落ち着きを取り戻した寛樹は、もう一度深呼吸してから、メッセージに返信した。
「最近、更新できずに、すみません」
「元気です」
アヲからの返信は、すぐに来た。
「よかった」
「安心しました~」
「また、ダウンしたんじゃないかと」
「心配したの……だぞ?」
「もしや、機関の奴らが……とな」
寛樹は目を閉じて、静かに二回、深呼吸した。
アヲとのやりとりは厨二病全開でネットスラングをてんこ盛りにするのが、お約束だった。
普段通りに、普段のテンションで、と自分に言い聞かせながら、寛樹は返信した。
「心配させてすまない、相棒」
「秘密工作への機関の妨害はあるが、俺は無事だ」
「俺、この作戦が終わったら、更新するんだ……」
アヲからの返信は早かった。
「フラグが立っている気もするが……」
「相棒。そんな装備で大丈夫か」
寛樹は、すかさず返信した。
「大丈夫だ、問題ない」
「小説を今日中に更新して……そしたら告白するんだ……」
アヲからの返信。
「また、フラグが立ったな……」
「君、死にたまふことなかれ……」
寛樹の返信。
「安心してくれ。どうやら俺はまだ死ねないらしい」
「それが世界の選択と相反したとしても、だ……イル・ラムダ・ティバセーノ」
アヲからの返信。
「ああ、わかってる。それもまた世界の選択だ・・・イル・ラムダ・ティバセーノ(意味はない)」
お約束のフレーズをやりとりし、寛樹はスマートフォンをデスクの上に戻した。
寛樹は顔を上げると、窓に近寄りカーテンを開けた。
快晴の日差しが、一気に室内を明るくする。
寛樹は目を細めながら、ぽつりとつぶやいた。
「なんだよ……いい天気じゃないか……」
寛樹は窓を開け、室内のこもった空気を換気した。十月とは思えない暖かな空気が部屋に入り込む。
窓を開けたままリビングに戻った寛樹は、ローテーブルの上にあった遺書を細かく破り、ゴミ箱に捨てた。
「さて、と……」
デスクトップパソコンに向かった寛樹は、テキストエディタを起動した。
書きかけの小説の原稿が、モニターに表示される。
この小説の続きを待ってくれている読者がいる。
寛樹は、小説の続きを書き始めた。その思考は、小説の舞台である異世界に飛んだ。
魔法が実在する異世界に転移した主人公が、様々な経験と出会いを経て勇者となり、仲間と一緒に魔王に挑む。そんな王道のライトノベルだった。
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