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ため息の代わりに、唾を飲む。
熱気にほだされた溜飲は、ゆっくりと喉の内側を伝って落ちた。
遠く、蝉の声がする。じわりじわりと鳴く声が、うだるような感覚を鼓膜の奥へ押し付ける。
頬杖をひとつ。
わずかに滲んだ手の汗が、頬にひたりと張り付いた。
不快感を覚えはしたが顔を上げるもの億劫で、そのまま教室に目線を投げる。あらゆるものが熱の支配下にあるような夏休み前の教室は、さながら都市部の海水浴場のようにも思う。
たった今吐き出した吐息さえ、仄かに夏を帯びている。
思考はうまく回らない。意識は陽炎のように揺れていた。
そのせいだろう。
私は人影に気付かない。
絹地の白いカーテンが、生ぬるい風でふわりと舞った。
それを何とはなしに目で追って、ようやく私は気が付いた。窓と私の席との間、誰かがそこに立っている。
「ねぇ、昨日見た夢って覚えてる?」
横目で声の方を見た。瞬間、教室の窓をすり抜けた日差しが網膜を突き刺した。
反射的に、目を瞑る。
蝉の声と混ざり合いながら、校庭で精を出す運動部の声がした。夏の大会を間近に控え、練習に一層熱を上げている彼らでも、声量が少しだけ落ちている。そんな、途方も無い夏が、私の意識を遠くの方へと持ってゆく。
私は目を薄く開けてみる。声の主は逆光で真っ黒い影のようだった。
「覚えてない」と私は返す。
「つまんない」と声の主は言う。
そして、前かがみに私を覗き込んでくる。
ぬるま湯のような風が頬を撫でて去ってゆく。気怠げに揺れるカーテンの、影がもったりとふくらんだ。
その影の輪郭を目で追うと、ようやく私と加奈と目が合った。
「面白がらせるつもりもないわ」
「ケチ」
「ケチも何も、本当に覚えていないんだもの」
私は加奈にそう言った。彼女は黙ってむくれたような顔をする。けれども本当にへそを曲げたわけではないことは、わざとらしい顔ですぐわかる。
「それならまぁ、許してあげる」
そういうと、彼女はニカッと笑ってみせた。まったく調子がいいことだ。私は呆れながら言葉を返す。
「それで、どうしたの?いきなり夢の話なんて」
その時、彼女のゆれるポニーの下にある、うなじに滲んだ汗を見る。
ただ、それだけの、まったくのどうでもいい景色。けれども、こういうわけのわからない瞬間の記憶を、後々まで覚えていたりする。不思議なことだと、私は思う。
加奈の消えた視界のままで、私はさっきの会話を弄ぶ。
私は、しばらく夢を見ていない。あるいは、全く覚えてない。夜、目を瞑った時に見る暗闇と、朝の眩しい光とが、いつも記憶の中で繋がっている。
人は、毎日夢を見るという人もいる。ただ、覚えていないから夢を見なかったと感じるのだとか。だとしたら、私の夢は、創作物は、覚えるに足らないものなのだ。
それが、僅かに胸を締め付けた。
あいも変わらず、教室の中は騒がしい。私は頬杖をついたまま、それらの音を聞き流す。けれども、どうやら先程よりも人は減っているようで、声の種類は減っていた。そろそろ自分も部活に顔を出そうと思いつつ、夢について考える。
そして適当に手元を遊ばせながら、一回だけペンを回転させた。
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