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自分の前に置かれたキャンバスの、その奥の何処か遠い場所。そこに誰かが立っている。
私の絵。紅色と朱色と橙を、何層にも重ねた夕暮れに、無数の波が寄せている。それらを一身に受けながら、何処までも砂の道が伸びていた。
そこに、誰かが立っている。
そう、何かが私に囁きかけた。
目を細めて、砂地の先に目を凝らす。
当然、何も見えはしない。
けれどもやはり、そこには誰かが立っている。私に見えない人影は、まるで自らが存在していることについては確信しているようですらあった。
筆を摘むように持ち上げて、するりと右手で持ち直す。
指の先、僅かに震えを帯びていた。
けれども、気になるようなものじゃない。
ただ、身体をゆだねるだけでいい。
夏の風。
一陣、窓からすりぬける。
昼間よりも少し陰った空を抜け、夜の予感を含んだ風は先ほどよりも優しい匂い。
それにただ、身を任せるようにして私は静かに瞼を閉じる。
――夢。
私が最後に見た夢はいったい何の夢だっけ。
いったい何時の事だっけ。
何故か、唐突にそんな想いがこみ上げる。
あぁ、創作物と彼女は言った。
私の創作……。
私の絵……。
私はゆっくりと瞼を開く。
いつの間にか眼前が、斜陽に燃えている。
壁も、黒板も、机も椅子も。
そして、私のキャンバスでさえも。
その中で、異質な白さを保ったままの、砂地が視線を誘った。
砂の道。
なぞるように、視線を這わす。
その先に、影が立っていた。
行くあてもなく、ただ単に立っているという目的だけを果たしているような人影が、私の絵の中に立っている。
それは夜の帳のその向こう。
そんな色の影独り。私と向かい合っている。
もう少し夜が深まれば、その闇の中へ溶けだしてしまいそうな影だった。
薄暗くなりかけた夕焼けに、半ば溶け出しそうな存在感。
けれども、私の絵の中は半永久的に黄昏で、その不安定な人影は永久的に不安定なまま立っているのだろう。
それが私を、不安な気持ちに駆り立てた。
ふと、手元に目を落とす。
右手に握られた筆の先、真っ黒な絵の具がついている。
「長町さん、コンクールへ出す絵は順調?」
いつの間にか、顧問の先生が私の後ろに立っていた。私はとっさに絵を隠すように立ち上がる。
「長町さん?」先生は首をかしげて私を見る。
「いや、なんというか、順調というか」何故、私は絵を隠すのか。
数秒の間、先生は首を傾げて私をじっと見ていたが、やがて「そう、頑張ってね」と声をかけ、教卓の方へと戻っていった。
冷たい汗が、首の後ろを流れてゆく。
ため息をつく。そしてまじまじと、私の絵を見つめ直してみる。次第に、やってしまった、と心が叫ぶ。取り返しのないことを無自覚にやってしまったのだと理解する。
これまで、先生と相談しながら絵に全力で取り組んできたはずなのに、何故一筆を足したのか。
コンクール。その言葉が頭でこだまする。今度こそはと思っていたし、賞をもらえなければ私は親に、絵を続けさせて貰えない。だからこそ、先生と何度も話し合いながら、この絵を完成させようと今日まで頑張ってきたはずだった。
先生はなんと言うだろう。
今日何度目かのため息をついた後、私はゆっくりと首を横に振る。
それでもやはり、その影はそこに収まるべきなのだと思ってしまう。とっさに、今朝の加奈の話を思い出す。夢、創作、私は一つも覚えていない。私の創作はきっと、そう。とるに足らないものなのだ。そんな思いがこみ上げる。
眩暈のしそうな感覚の中で、私は夕焼けの中に腰掛ける。そして私は吸い込まれるようにしばらく絵と見つめ合っていた。いや、正しくは影と見つめ合っていたのかも知れない。
どれくらいの間そうしていたのだろう。ふと気がついて周りを見渡すと、外の日は沈みきっている。かなりの間、絵を見つめていたらしい。後ろを振り向くと、薄闇の降りる教卓で頬杖をついた先生が、ゆらりゆらりと船を漕いでいるのが見える。
私は、息を呑み込んで立ち上がる。
「先生、あの」
先生はゆっくりと目を開ける。
「長町さん、どうしたの?」
「えっと、相談があるのですが」
そう言って私は、絵の方を向いて目線を送る。
先生は目を細めて絵の方を見る。そして、ゆっくりと立ち上がり、手探りで教室のライトをつける。
先生は最初、小さな人影に気が付かないようで、何を私が言いたいのか掴みかねているみたいだった。けれども次の瞬間眉を上げて、私の方へ向き直る。
「まず、長町さんの説明が聞きたいな」
いつもと変わらない様子で言った。怒られるかと思っていたから、少し拍子が抜けてしまった。
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