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先生は、私の説明を頷きながら聞いていた。その頷き一つ一つが、私に「大丈夫だよ」と語りかけてくるような、そんな優しい相槌だった。
誰かが見えた気がした事、無意識的に描き込んでいたこと、そこまで長くはない説明が、私には酷く長く思えた。それでも、きちんと話ができたのは先生おかげなのだろう。
あらかた私の話が終わると先生は、無言で席を立ち上がる。そして、私の絵の前までゆくと、しばらくそれを眺めていた。
「長町さん、ちょっとこっちに来てくれる?」
先程より、少し緊張が滲んだ声だった。ついに、怒られるのだと覚悟して、先生の横に並んで立った。
「なんて言えばいいのかしらね……。ごめんなさい、うまく言葉をまとめてから呼べばよかったわ」
そう言って、先生は少しのあいだ黙り込む。
沈黙。ただ人工的な灯りの下で、人影は一層くっきりと浮き出して見える。まるで、私の罪の在り処だとでも言うように。
そんな私の考えをよそに、先生は真剣な眼差しで私の絵と向かい合っていた。
「これはね――」
言葉のまとまったらしい先生は、ぽつりぽつりと話し出す。
「まず、誤解しないでほしいのだけど、私は嬉しく思うのよ」
「へ?」全く予想していなかった言葉に、私はぽかんと聞き返す。
先生は優しく頷いて、言葉の先を続けていった。
「この絵は、私と下書きの段階から相談して書いたわよね。長町さんの絵は、最近まで私の指導通りの絵だったり、模写だったりが多かったでしょう?」
私は静かに頷いた。
「でもこの一筆は、あなたのオリジナルじゃない。それって長町さん、あなたが自分の絵を書き始めようとしているってことでしょう?それは、とても大切なことなのよ」
先生は優しく微笑んだ。
その顔は蛍光灯の灯りに照らされた、真っ白な教室のただ中でしっかりと私の心に刻まれる。外にある、夜の闇を忘れるくらい心がじんわりと暖まる。
静まり返った美術室。先生は絵に向き直る。けれどもその横顔は何かを評論するような厳しさは含まれていなかった。むしろ、遠い日のアルバムを見るような遠い眼差を絵に向ける。
「それに私、この絵とっても好きよ」
しばらくの間が空いた後、先生はポツリとそう言った。
私はなんと言って良いのかわからない。嬉しくもあり、何かこそばゆいような気もする。けれどもそれ以上に、困惑もまた私の中で目を覚ます。私は何かを言おうとしてやめる。やはり、うまく言葉が見つからない。
「ねえ、長町さん。良い絵ってどういうものだと思う?」
先生は、振り向き私の目を見て言った。
「良い絵、ですか」
少しだけ私は考える。けれどもゆっくり、首を振る。
先生は静かに頷いて、噛んで含めるようにゆっくりと私に話し出す。
「絵だけじゃなくって、創作物全般に言える事かもしれないけれどそれを見た人の心をどういう形でもいいから動かす何かがあるものが、良い作品なのだと先生は思うの」
先生はそこで言葉を探すようにして黙る。そしてまた私の目を見ると、にっこりと微笑んでこう言った。
「私はこの絵を見たとき、夕暮れの中の人影に意識をすっと、吸い寄せられるような気がしたわ。それで気がつくと、なんだか悲しい夢を見た朝みたいな感覚の中で、あなたの絵を見つめていたの。寂しいような、侘しいような。そういうふうに、人の内側を動かせる作品が描けるってとっても素晴らしいことなのよ」
目を細めながら、先生は言う。いつも疲れた顔をしている先生が、今は何故か、私と同い年くらい若々しく見えた。それは白無垢な教室の灯りのせいか、はたまた他の原因があるのかは分からない。
先生に気に付かれないほどの、小さなため息をひとつだけ。入りっぱなしだった肩の力が、足を伝って床へと逃げる。
「でも、問題はコンクールの審査員の事よね」
唐突に、ぼやくように先生が言った。びくりとして私は視線を先生の方へと向ける。
「正直言って今回出すコンクールはそこまで大きなものじゃないし、多分美術方面の人よりも、教育関連の人が多いかも知れないなって思うの。そういう人たちはほら、あまり侘しいとか寂しいとか、そういった感情は好ましく思わないかも知れないわね」
そう言って、先生は私に向き直る。
「けどね、長町さん。やっぱり私はこの絵が好きよ。さっきも言ったけれど良い作品は人の心をどんな形であれ動かせる作品だと思う。その感情が喜びや安心であれ、悲しみや侘しさであれ関係ないのよ。感情に貴賤もなにもありゃしないしね。人の感情に訴えられる作品ははそれだけで大きな力をもっているっていう事だし、評価されるべきだと思う」
私は、また返事に迷う。どういう反応をすれば良いのかという逡巡が、そのまま回り続けていた。
そんな私を見透かすように、先生は冗談めかして笑って言った。
「もっとも、人が残酷に殺されたり、痛々しい暴力を振るわれたりしているシーンはどうやっても感情が動くんだけどね。そういうのは抜きにして、って話よ」
そう言ってから、先生は思いっきり背伸びをしてから微笑んだ。
「私、うれしいわ長町さん」
私は小首をかしげて先生を見る。
「この美術部も、幽霊部員を除けば貴女だけ。そして、私もこの高校は今年で最後。そんな年に、最初で最後の部員が自分の絵を描くようになって、嬉しいの」
――それは……。
少しだけ疼く、胸の内。
思い出していた。
初めて、先生にあった日を。
何年か前、この高校に新任で着任して以来、幽霊部員だけの美術部で独り誰かを待っていた。そんな、先生の横顔は何処か寂しそうでもあって、悔しそうな顔でもあった。
「このまま、楽にこの高校の任期を全う出来はしないのね」
私が、この部活の門をたたいた時の、先生は私にそう言った。
言いながら、何処か嬉しそうに唇の端を上げていた。
聞けば、美術部の顧問になることが先生の夢だったらしい。
私は、そんな夢の第一号が自分であることが、我ながら申し訳ないとすら思う。
出来が悪い生徒程、かわいいものはないと誰かは言った。
けれども、自分で言うのもなんだけど、私の絵はそこまで悪くない。
だけども、いつも模写ばかり。
絵を描くのは何よりも、誰よりも好きな自信があった。けれども、何を描いていいのか分からない。つまり、私の絵は面白みにかけている。だから、誰が見ても「上手いね」で止まる絵しか描いてこなかった。
だから、私ほど教えがいのない生徒もいないだろうと思ってた。
――終わりだ。なんて言えないと思う。
この絵が、コンクールで落ちてしまえば私は来年から普通の大学に進むため筆を折るなんて到底言うことができないだろう。
それで、胸が少し痛かった。
けれどももっと痛いのは、念願だった何かを描きたいという衝動を知った瞬間に、私の夢が終わってしまうかもしれない、そんな事実が締め付ける胸の奥だった。
ふと、先生に目をやった。
先生は感慨深そうに、ゆっくりと美術室を見渡している。
見慣れたキャンバス、椅子、机。誰かがそのまま置いていたビニール傘に、跳ねた絵の具が染み付いている。
絵の具の匂いが、思い出したかのように私の鼻をちょこんとつつく。
「さ、これで私の話は終わり。遅くならないうちに帰りなさい」
その一言で、私の一日が終わりを告げた。
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