第一章  十六歳になった日

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 「翔子ちゃん、アナタは誰の子供なの?」  不意にこの子にも、父親と母親はいるのだろうということに思い当たった。  「お父さんとお母さんかぁ」、どんな人たちだろう。どう接すればいいのかと、思案に暮れた。  あまりにも切羽詰まった状況だったから、ついウッカリ声に出して呟いたらしい。看護士が訝しそうに私を見たが、気が動転していた私はまるで気が付かなかった。  急患の若園祥子を処置室に戻した後で、三浦(みうら)看護士は救急医の山口医師の側によると、声を殺してヒソヒソと耳打ちした。  「山口先生。もしかしたらあの子、記憶障害を起こしているかもしれません」  「何か兆候があるのか?」、山口医師の表情が険しくなる。  記憶障害は侮れない症状だ。  そこで三浦看護士は、検査室で先ほど耳にしたばかりの少女の呟きを、そのまま山口医師に伝えた。  「う~ん」、山口医師が顔をしかめる。  「外傷性だとすれば、脳の検査も必要だなぁ」、眉間の皺を深くした。  この時に三浦看護士が心配したのは、逆行性(ぎゃくこうせい)全健忘(ぜんけんぼう)だろう。この記憶障害には、心因性と外傷性の二つの要因が考えられる。それは発症以前の、出生以来の全ての自分に関する記憶が抜け落ちると言う厄介な症状だ。  元に戻す手立ても、未だに確立されていない未知の分野である。ちなみにこの場合、世間の情報がそのまま残っていることが多いのも、特徴の一つだ。  山口医師が診察した限りでは、頭に外傷はなかった。だがビルの屋上から飛び降り自殺したオッサンの下敷きになったのだ、事故が事故だけに、脳内出血や脳波の乱れも考慮せえねばならないだろう。  「脳神経外科の隠岐(おき)先生を呼んでくれ」、患者には聞こえないように気を遣いながら、側に呼んだ看護士長に耳打ちした。  「一過性の健忘だといいんだが」、気遣わし気な視線を少女に向けると、ボソッと呟いたのである。  衝撃的な事件に遭遇したり、過度なストレスが掛かった時には、発症の前後の記憶が一時的に損なわれることがある。しかし大概の場合、しばらく静養すれば記憶が戻ることが多い。そういう記憶喪失もあるのだ。  そうであることを祈った。  そこで山口医師はこの患者のカルテに治療の過程を書き加えながら、個人情報の項目を見た。  「十六歳の高校生かぁ。オッ、有名な進学校の生徒だな」、十六歳にしては幼い印象だから、もしかしたら中学生かも知れないと思っていたのだ。そんな風に翔子の個人情報が後手に回ったのには、その日独自の理由があった。  若園祥子が救急搬送された直後。患者の名前や保護者の有無を調べるために、一緒に救急車で持ち込まれた学生鞄の中から学生証を取り出したのだが。
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